おはようございます。そらじいです。

 

新井八幡宮獅子舞保存会が1978年に結成されてから、去年2023でめでたく50年。

先輩たち、よくぞここまでつないでくださいました。

なのに、、、

 

年が明け、2024年になって「あ!50年の年、終わってた、、、」と気づくドアホ存会長。

少し考えるに、いやまてよ。

まだ3月末までは50年の記念の2023年度内だよねぇ。

ねじこむべぇ!

 

ってことで↓の右側のように意を決しました。

↑左側の元旦の計のもと。

それが1月11日。

そこからは味噌仕込み会をしつつも、

寝ても覚めても夢の中まで50年記念誌のことを。

まずタイムラインを立て、

関係者への説明・同意取り付け、寄稿の依頼・回収、資料集め、

歴代保存会員やその遺族への取材、

イラストレーターさんとのやりとり、写真撮影者への掲載許可取り付け、

自分の記録ひっくり返し、そして入魂執筆

印刷会社吟味、その業者さんとのやりとり。

そして3月12日に最終データ入稿。

3月22日、なんとか50年記念年度内に手元に届いたのでした。

 

A4版、オールカラー72ページ。

ガイドブックという名の通り、できるだけわかりやすく、

そしてほとんどのページに写真を入れ、手に取りやすく。

でも内容はぎっしり。

普通のガイドブックの体裁だったら百ページ以上の容量かと。

 

終わってみて、届いてみて、はっと2つ思いいたりました。

 

①なんかですねえ。一人で書いていた気がしないんです。

歴代の先輩たち仲間たちと、その意志の炎と一緒に書いていたような。

ある意味では自動筆記のような。

 

②軽!!

 

この心の軽さ。

 

50年に気付いたのは遅きに失していましたが、

何かの形でまとめなきゃとはずっと思っていました。

それができたこと。自分のところにたまっていた未成形情報を

成形できたこと。

う~、、、

ますます自由に参りたいと思います。

すすっと50年記念誌フォルダをデスクトップから各種資料フォルダへ。

 

さて、語り尽くせぬ想いがございますが長くなるので、ここは省力して

「はじめに」と「結びに」をそのままはりつけ、

本書の紹介とさせて頂きます。

ここに十分そらじいの想いは尽くされておりまする。

 

最後にもう一つ、表紙が自慢です!!

太田市在住イラストレーター目黒さんに描いて頂きました。

たくさんの要望を投げたのですが、それらすべてを期待をはるかに超える形で、

絵にしてくださいました。

いろいろな物語がぎゅっと込められています。

何度、この絵を見て涙したか分かりません。

ありがたいことです。

※冊子(250部作製)の頒布方法は来月の保存会総会で決めていきます。

 

 

「はじめに」

この令和5年度(2023年度)をもちまして、新井八幡宮獅子舞保存会は昭和48年度(1978年度)の結成より50年の節目を迎えることができました。(正確には1978年10月1日結成)半世紀、地域のみなさまのご協力を頂き、獅子舞を受け継いでこられたことを深く御礼申し上げます。このたびこれを記念して、また多くの方にさらに深く獅子舞の魅力や、込められた物語をお伝えしたく本冊子を作製いたしました。作成にあたっては関係各位のご協力を賜り、重ねて感謝申し上げます。

祖父ら大正時代生まれくらいまでの新井の人は今みなさんが呼ぶように「獅子舞」とは呼ばずに「ササラ」と呼んでいました。これは他の各地の獅子舞組においてもそうですが、舞と共に笛の他に、竹でできたササラという楽器を使用したからだと考えられています。昭和32年の獅子舞奉納時の旗には「佐々良獅子舞」と書かれています。新井の獅子舞数百年の歴史の中で、獅子舞と呼ばれているのはこの数十年のみ。昔の言葉をなくしてしまうとなんだか昔の人との縁が遠くなってしまう気がし、若い人にも知ってもらいたくあえて本書のタイトルを定め、この「はじめに」だけではそう表記させていただくことをお許しください。

しかし不思議だでねえ。なんでおれたちのふるさと新井にゃ、ササラがあるんだんべか。(おっと他の言葉まで昔に戻ってしまった。もとい、)太田市のHPを見ますと、市には199もの行政区(新井町、飯田町等)がありますが、その中でササラはいくつ伝承されていると思われますか。答えはわずか(?)6つ。中でも新井のササラは他のどれとも似つかぬここにしかない、独特の文化。もしかして月の世界あたりからもたらされたのでしょうか。

私たぶん、子どもの頃にササラに関わったこと、また学生の頃に新井町の生き字引、故・市川碧翁の持っていた新井人の心にふれたことなどから新井が好きで、学生の頃から新井の昔について聞き書きを続けておりますが、語り手の中での最年長は明治40年(1907)生まれの新井からよそへ嫁いだおばあさま、Nさん(旧姓星野)でした。聞き取りでは必ずといっていいほど八幡様の大祭(宵祭り)の思い出を伺いますが、Nさんは大祭(宵祭り)のことを何度も「十五夜のお祭り」とおっしゃっていました。「十五夜のお祭りはササラやヒョットコがあってにぎやかでしたよ。」と。十五夜とは旧暦の8月15日の満月の夜のこと。史料によれば確かにかつて新井八幡宮宵祭りは旧暦8月14日、大祭は8月15日だったと。他の誰からも聞いたことのない、珠玉の証言でした。つまり、かつてササラは宵祭りにおいて、ほぼ望月の月明りの下、奉納されていたということになります。月の世界からもたらされたという説もあながち、、、という戯れはともかく、新井のササラが悠久の歴史を持つことは月光よりも明らかにして、かつ独自の宇宙を持っています。伝承によれば500年ほど前、新田氏の血を引く新井氏の末裔が京都から導入との由。確実な線としては江戸時代末期から約200年。その長き時間のなか、山あり谷あり、色々なことがあったでしょう。私が知りたく、そして伝えたいのはただ長いということではなく、具体的にどんな山やどんな谷を越えてきたのか、誰が、どんな人が、どんな風にこのササラという“装置”をいまに伝えてきてくれたのか、その物語。そして、このササラにまつわる見過ごされがちな細かい要素にも価値を与えること。(適切な例えか分かりませんが、、うちの3歳の娘が転んでフギャーと泣いたとき、その泣き声を「かわいいわね。この泣き方、今だけよ。」と言った女性がいました。ただの泣き声と思えばそれまでですが、そこに価値を認める面白さ。)1つでも2つでもそれを書き残すことが、今バトンを預かる私達から次の50年にササラを受け継いでくれる人への贈り物になると心得て、この好機に冊子の作成を決意いたしました。

人気漫画『ONE PIECE』の作中、伝説の海賊白ひげの最期の言葉「ロジャーの意志を継ぐ者達がいる様にいずれエースの意志を継ぐ者も現れる…。”血縁“を絶てどあいつらの炎が消える事はねェ…。そうやって遠い昔から脈々と受け継がれてきた……!!そして未来…いつの日かその数百年分の”歴史“を全て背負ってこの世界に戦いを挑む者が現れる……」を読んで、私の脳裏には新井のササラが浮かびました。その心は?

六代目保存会長として、先代の竹内伊佐美氏より会長を引き継ぎました。(正確には伊佐美氏は四代目でしたが、五代目の江原清氏急逝により会長に復職していました)一度はまだ若造で、、、とお断りしましたが、二度目の依頼を受けたとき、伊佐美氏のただならぬ気迫を感じ、こりゃあ断るわけには、、、と覚悟しました。会長交代が済んで最初の大祭で、伊佐美氏は保存会の法被ひとそろいを奉納。そして翌年には先輩方のところへ。ご自分に残された時間がそう長くないことを察していたかのように。

今回歴代の保存会長、会員のご遺族に取材をしながら、何度も涙がにじみました。亡くなった後であってもほぼ全員のお宅に掲げられ続けるササラの絵や写真。それぞれが背負っていたもの。それぞれが纏っていた獅子の魂。ササラは、何の脈絡もなくここに在るのではなくて、先代たちが数百年脈々と意志の炎を繋いできてくれたから、その所産として奇跡的にいまここに在るんだと、改めて学びました。よく「受け継ぐ」という言葉を使いますが、その言葉は「受」けることと「継」ぐことに分解されます。伝統芸能において、その2つはそれぞれに重い意味を持ちます。「受」けることにまずずっしり。今いる先輩たちと、その背後にいる幾多の先人たちが遺してくれたものを。そしてそれを誰か次の命に「継」いでいくこと。継ぐまでの緊張。命は、生身の人間である以上いつついえるとも知れず。自分より一年でも長く生きてくれそうな命に、「受」けたものを手渡すこと。
伊佐美氏の奥様のテルちゃんに伊佐美氏とササラの思い出を、と伺うと、「お父さんはね、3人(矢島知幸氏、星野隼人氏、私)が覚えてくれたんでね、うーんと喜んでたよ。涙が出るようだってほんとに喜んでたよ。」と。その四代目の気持ちが「受け継ぐ」ということであり、ササラに携わる歴代の師匠たちがそうだったんだろうなあと思います。

お祭り前の10日間の子どもたちへの稽古。仕事をしながら、家庭を持ちながら夕飯をかけこみ時間を作って、、。疲れ切った日も、幼子に「パパ行かないで!」と泣かれる日も、家族の理解が得られたかったりした日もあったでしょう。ああ、台風で中止、ほっとしたな、そんな日も正直なところ、あったことでしょう。でも、稽古に集まる子どもたちの笑顔、宵祭りや大祭での観客のみなさんや奉納する子どもたちの晴れ姿をみるとき、そして今は亡き先輩たちの顔を思い出すとき、(みんなで呑むときも)実は「子どもたちのためにしてあげている」と思いきや、それ以上の恵みを頂いていることに気づくのでした。

ササラは、獅子舞保存会の私物なんていうものでは決してありません。八幡様があり、そのお祭りがあってはじめて意味をなし、それらは宮司さん、神社役員さん、地域のみなさんで力を合わせて維持されてきたもの。まさに、新井のみんなの宝物であることは疑いのないことです。舞や笛には直接携わらなくても、物心両面から保存会活動を支えてくださったたくさんの方がいました。一方で、各時代においてササラの笛と舞の技を伝承していたのはごくわずか、10~20人程度だったのではないでしょうか。わずかな人数で、どうにかこうにかつないできてくれたものなのでしょう。時代によっては危ういこともあったかもしれません(今もギリギリの運営ですが、、、)。実際、昭和53年、獅子舞保存会黎明期の新聞記事が近年発見されましたが、そこには継承の危機とそれをどうにかしようと懸命に動く先人たちの努力が記されていました。実際群馬県内でも、笛の音途絶えてしまったササラが数多くあるそうです。

とにかくこの長い時間、危機に瀕したりしながらも「ハア(もう)ササラなんてよすんべぇ」という選択は、新井の人たちはしてきませんでした。別にササラがなくても食うに困るわけでもなく、逆にお金も労力もかかるのに、、、なぜでしょう? 
想いが強すぎて長い「はじめに」になりました。大海賊白ひげの言葉に戻ります。血縁はなくとも地の縁で結ばれ、連綿と数百年受け継がれてきた、ササラ絶やすまじという意志の灯(ともしび)を、その意志が現代の私達の手を取って筆記せしめたような気がする本冊子から感じ取って頂けたら幸いでございます。

なお、会長の注意散漫から本年度が50周年であることに年が明けてから気付きまして迫りくる時限に追われテンテコ“舞”編集となり、関係各位に十分な監修時間を取って頂けず、内容不備あらば全て私の責任であり、後でお叱り頂戴いたします。また編集は全て業者に頼まず会員の手作りでございまして、稚拙な構成などどうぞお許しのほど。

新井八幡宮獅子舞保存会 第六代会長 星野雅範
 

 

 

「結びに」
 
現在療養中で、五代目保存会長時代から15年に渡り獅子舞保存会副会長を務める縁の下の力持ち、よっちゃんこと中村芳夫氏の奥様マチ子さんに獅子舞保存会に関する思い出話を伺いました。

「あの頃(昭和後期~平成)はとにかく楽しかったです。保存会員は家族ぐるみで仲良くて。みんなで旅行に行ったり食事をしたり、なんだかんだと集まっていました。なかでも思い出深いのは昭和58年の赤城国体です。国体のオープニングに群馬の各獅子舞が集まり、集団演技をしました。その練習に何度も前橋に通いました。保存会員の男たちは車で行きますが、私たち奥さん連中も何人かで本番はもちろん練習も見にいきました。車がないので電車で前橋駅まで行き、そこからバスに乗り換えて。朝が早いので子どもにご飯食べさせる時間もなくて、おにぎりをにぎっておいて「これ食べな。」、なんて言って出かけたり。「なんでお母さんも行くの?」なんていわれながら(笑) そりゃそうよね。なんで自分たちが獅子舞やるわけでもないのに行ったかといえば、みんなで行くのが楽しかったんです。本番のときは私達女性達がなぜか群馬テレビにインタビューされて、でもはずかしいからみんな逃げよ逃げよって走って逃げちゃったりなんて思い出も。もちろん獅子舞を守ろうっていう気持ちをみんなが持っていましたよ。そしてそれと同時に、みんなが獅子舞を中心にしてまとまり、“輪”ができていました。本当に懐かしい思い出です。時代は変わりましたが、若い人たちが世代を越えてこの獅子舞を守ってくれていることを本当にうれしく思います。」
 

↑星野みつ&孫たち
 獅子舞は古来女人禁制の体裁をとってはいましたが、それ自体には参加しなくても、女性も実は獅子舞と共にあったと言っていいはずです。江戸時代にさかのぼっても、前述の江戸時代生まれの星野みつも自分は関わらなくとも心も(体も)参加していたのでしょうし、小川正清文書にある橋掛かりの橋を渡る瞬間に歓声を上げるご婦人方も、嫁に行っても祭りのときには帰ってきたという元新井の娘たちも、舞う息子を見守る母たちも。そしてそれぞれの背景を背負った新井という土地と縁のある老若男女が楽しいお祭りで獅子たちを幾重もの“輪”で囲んで。本冊子の表紙には市内在住のイラストレーター目黒幸さんに、時代を超えた輪を描いて頂きました。

 獅子舞は新井の文化。というところから少々強引にですが、記しておきたいひとつ話を。時は70年前へ。かつて獅子舞の奉納される八幡宮大祭と同じくらいにぎやかだった新井の祭典として、町内十輪寺境内で春彼岸に行われた「地蔵様の祭り」がありました。昭和30年代頃、祭りは新井の青年団により運営されておりその役員をしていた昭和10年生まれのおじいさん(故人)の話。この祭りでは青年団が演芸会と称して歌や踊りを披露し場を盛り上げましたが、演芸会にはケンカがつきもの。新井の前に市内細谷町で演芸会があり、そこではヤクザ者が現れ大分荒らされてしまったとのこと。そこで新井の役員は予め新井でケンカの強いW氏、H氏、K氏などを頼んでおきました。果たしてヤクザ者が現れ、騒動の兆し。それ!とマイクで集合をかけるとツワモノたちが登場!H氏が「何やってんだおめえら!!」と怒鳴り込む。H氏のケンカの強さは近在でも有名で、顔を見ただけで「やべぇ!」と恐れをなして逃げ出すヤクザ者たち。後で役員からH氏に、おかげで助かりましたと酒一升を届けると「おらぁ村(新井)のことなんだから受け取れねぇ。」と固辞。任侠ですね。(ちなみにその任侠の孫がただいま獅子舞保存会で悪をにらみつつ活躍してくれています。)何を申したいかといえば、そのようにかつての先人たちは「新井」という境域をとても大切にしていたのですね。獅子舞も、新井の人々が誇り、大切にしてきた新井の宝物。(誇る一方で、言葉はよくないですが内に閉じた面もあり、それによる摩擦もあったとのこと。それも受け止めつつ。)もちろん激動の時代、これからは獅子舞が広域へと開かれていくこともあるかもしれず、それはそれで時代の流れで臨機応変に判断していくべきことではございますが、少なくともこの数百年、そうして新井の人々により守られてきた、その重みは忘れてはならないのかと。







時計の針を進めて。以下三代目竹内三郎氏による「皇居参観・靖国神社正式参拝獅子舞奉納印象記」(昭和61年)から抜粋させて頂きます。
「(前略・新井町からバス2台、54名の参加者が東京へ。皇居の参拝を終え、靖国神社にて)神官よりお祓いをうけ代表三名玉串を奉典し祭文を読みあげた。参列者五十四名を代表して厳粛のうちに一語一語郷土の英霊に語りかけるよう心を込めて読み上げたが万感胸にこみあげ祭文を持つ手に震えがくるのを如何ともし難かった。一同頭を垂れありし日の父の面影、軍服姿の兄の笑顔、青春時代の友との語らい等が走馬燈のように浮かび平和の礎となって散華した英霊に対し、心からの慰めと礼を盡くすことをお誓いしたことと思われる。(中略)定刻通り午後一時三十分控室前より、神域に響く「渡り節」の音色とともに参道より拝殿前の広い石畳に進み宮司さんより由来伝統の説明の後「梵前がかり」の舞を奉納する。秋空にこだまする笛の音色はいよいよ冴え渡り、打つ太鼓の響きは天空に鳴り渡り水玉模様の衣は大きく舞い白足袋ワラジはしっかりと大地を踏みしめ英霊にとどけとばかり舞う姿は一糸乱れず笛太鼓の息もぴったり新井獅子舞の優雅さ勇壮さを一幅の絵画をみるように発揮してくれた。「英霊のみなさんみてやってください。あなた方が若き日故郷八幡宮の宵祭りに舞った姿そのままに立派に受け継がれています。これからも後継者を育て伝統の灯を燃やし続けます」と心の中で誓いながら笛を吹き続けた。参加者のみなさん方も一舞ごとに盛んな拍手をおくり共に参加した「あかし」を示し地域の一体感を見せていただいた。(後略)」

兄の戦死している三代目、その魂の言葉に解説は不要かと。そして現代へ。夜八幡様に集まって友達と遊んだ思い出。その間に体の奥深くに沁み込む笛太鼓の音。それはまさにかけがえのないもの。血沸き肉躍る、、という表現が適切かは分かりませんが、その子どもたちには、他のどんな音でもないこの音にしかくすぐれない部分が体のどこかに形成され、たとえ何歳になってもこの音が当時の記憶をよみがえらせ、ここが自分のふるさとなんだ、と再認識する、、、そういう意味では獅子舞はタイムカプセル的装置とも言えましょう。

この装置は、芸能としての価値もさることながら、地域において様々な想いと共に人が関わりあって、そして人から人へ、それを守っていく過程において、“輪”そして“和”を作ってきたのでしょうね。獅子舞をここに伝えた「はじまりの人(々)」は、そこまで見越していたのやもしれません。そして何があってもこれを絶やさないよう、とにかく吹いて舞って伝え伝え伝え抜くようにと、その意志の炎を次代へ示したのかもしれません。江戸時代の建築と考えられる新井八幡宮本殿には近在では珍しい麒麟の彫刻があしらわれています。麒麟は泰平の世に現れる霊獣。裏表紙にある宮司さんの唱える獅子舞祓詞にあるように獅子舞がすがすがしく舞いおさめられ続ければ、この地は麒麟の降り立つところとなるから、と。

ここで、三代目時代に刊行されていた保存会の年間活動報告書「獅子舞の春夏秋冬」の昭和61年度、初代会長竹内正太郎氏逝去の年の巻末におそらく三代目の言葉として以下のようにありましてご紹介します。
「ごらんのとおり昭和61年度は私達にとって獅子舞に明け獅子舞に暮れた一年間でした。(中略)これも会員の精進と親睦があったればこそであります。今後も獅子舞を通して地域の心のつながりを深め、たとへ、それが小さな灯であっても地域の子供達の心にともるように伝統文化を守り続けようではありませんか。そして新井町を獅子舞の里、横笛の故郷となるようお互いに自分自身を磨こうではありませんか。」

一時消えかかったその小さな火種を受け継いだ先輩たちが保存会を立ち上げ、大きく育て守り続けて50年。今ここに獅子舞が物語を纏って確かに存在することは、まさに奇跡。これからどんな形であろうと、この炎が永く永く燃え続け、そしてそれを通して地域に輪と和がもたらされ続けること、願ってやみません。関係する古今すべての皆様に心から感謝しつつ、酒を注ぎながら満面の笑顔での四代目の言葉「これからもずっと、頼まいな。」を次代へ贈り、結びといたします。

令和六年三月吉日 新井八幡宮獅子舞保存会 会員一同