著者 は 相模 女子 大学
非常勤 講師 の
甲田 烈 ( こうだ れつ ) さん。
鬱 (うつ) な とき 心 の 調子が
悪い ときの 解決 方法 は、
メルロ = ポンティの
身体 (しんたい) 論 に よれば、
ゆっくり と 寝るとか
ストレッチ を するとか
第 1 に 身体 を いたわって
身体 の 状態に 重点 を おいて
大切 に 考えて 行動すること、
つまり、
身体 こそ 心 の 状態 を
左右 する のだ となります。
僕 も そう 思います。
メルロ=ポンティ
( Merleau - Ponty 、
1908年 - 1961年 )は 、
フランス の 哲学者。主 (おも) に
現象学 の 発展 に 尽 (つ) くした。
出典・ウィキペディア
◇ 204 ページ から。
10.メルロ=ポンティ・現象学
身体が 触 (ふ) れることで
生きている と 実感する
《 自分 と 世界 を
つなぐのは 身体 だ 》
メルロ = ポンティ は サルトル と
同世代 の フランス の 哲学者 で、
ドイツ に 留学 して フッサール
を 研究 して 帰国 し、現象学 を
独自 の 方向 で 発展 させました。
サルトル とは 違って、派手 (はで)
な 活動 は しませんでしたが、
発達 心理学 や ゲシュタルト 心理学、
大脳 生理 学 に いたる まで、
さまざまな 科学 と 対話 を
することから、意識 ではなく
「 身体 」 を モデル として
世界 の ありよう に ついて
考えよう と しました。
身体 こそ 実存 であり、
世界 を 意味づけしながら
存在 (そんざい) している と
考えた メルロ=ポンティ は、
『 幻影 肢 ( げんえいし ) 』
という 症状 を 分析 することで
この 主張 を 裏 (うら) づけ
ようと しました。
幻影肢 とは、手術 や 事故 などで
手 や 足 を 失った 人 が、
ない はず の 手 や 足 の 場所に
痛み や 痒 (かゆ) み を
覚 (おぼ) える という 症状です。
メルロ = ポンティ は この 病
( やまい ) の 原因について、
手足 を 失う 以前 の
身体 の 感覚 が その場所に
残っており、
身体 と 世界 の 新しい 関係 が
でき あがって いない ためだ
と 考えました。
このように、「 身体 」 は
私 と 世界 が 関 (かか) わる
ための 中心 軸 (じく) であり、
純粋な 物 でもなければ
純粋な 意識 でもない、
両者 が 混 (ま) じりあった
両義的 な もの なのです。
《 他人 の 存在 (そんざい) は
触 (さわ) ってみて わかること 》
さて、他人が 「 そこにいる 」
ことは、どうして わかる
ので しょうか。
メルロ = ポンティは この 問題
に 関 (かん) して、身体論 から
アプローチ ( = 接近) を
試 (こころ) みました。
そもそも 「 自分 にとって
他人 が いる という こと は
どうやって 実感できるのか 」
という 問題 は、
これまで 哲学 の 中でも
意見 の 対立 が ありました。
たとえば、フッサール は
「 自分 が 他人 に 感情 移入
すること が できる からだ 」
と 考えた し、
サルトル は 「 他人 の
まなざし を 感じる からだ 」
と 答えました。
ところが、メルロ = ポンティ は
もっと 直接的 に、
「 他人 の 身体 に
自分 の 身体が 触れることが
できるからだ 」 と 考えて、
この 問題 に 決着 を
つけようと したのです。
なぜなら、私たち は
身体 によって、世界 の 中 に
生きている という 実感 を
得 (え) ている から です。
〈後略〉
以上 で メルロ = ポンティ
に ついては 終わって います。
□ 参考 文献
「 手に とるように 哲学が
わかる 本 」
甲田烈 著
かんき出版 発行
Wikipedia :ウィキペディア
メルロ=ポンティ
https://ja.m.wikipedia.org/wik
甲田烈 https://www.google.com/search?
https://earthkeepe.exblog.jp/3
https://yahama.exblog.jp/15993