著者は 明治 大学 文学部 教授 の
齋藤 孝 ( さいとう たかし ) さん
◇ 178 ページ から。
モーリス・メルロ = ポンティ。
◎ 体 で わかる、感じる、
刻 (きざ) み 込 (こ) む。
《 デカルト とは 異 (こと) なる
思想。》
メルロ = ポンティ
( 1908 年 ~ 1961 年 ) は
フッサール から 現象論 を
受け 継 (つ) いだ のですが、
フッサール の 思考法 とは
大きな 違い があります。
それは 身体 に 対する
考え方 です。
フッサール も 身体 について
語っては いるのですが、
フッサール は 身体 と 理性 を
「 理性 > 身体 」
と 見ていました。
こうしたは
デカルト に 顕著 (けんちょ) に
見られます。
デカルトは「 我 (われ) 思う、
ゆえに 我 あり 」
と 言いましたね。
「 私は 考える、だから
私 は 存在する 」
と いう ことですが、そうなると、
身体 は どこに あるのか、
という 疑問 が 起こります。
考える ものは 精神 で、
その 精神 によって、
私 は 私 になる、
というのが デカルト の
考えです。
では 身体 は? というと、
デカルト は 物体に
近い もの と 考えました。
デカルトにとって、身体は
物なのです。
精神 と 身体 は それぞれ
独立的 に 存在する
心 身 二元論
( 物 心 二元論 )の立場です。
でも、本当に そう だろうか。
そう じゃない んじゃないか。
そう 考えた 代表的な 哲学者が
メルロ = ポンティてす。
著作『 知覚 の 現象学 』で、
メルロ = ポンティは
心 身 二元論 とは
まるで 異 (こと) なる 世界観を
提示してくれました。
《 人間が ノミ の 姿を
していたら・・・ 》
「 身体を 中心 にして
人間を とらえよう 」。
メルロ = ポンティは そのように 提唱 しました。
自分のこの身体でもって、
この世界に住んでいるのだから、
世界はこう見えて、こう感じられるのではないか。
この身体で世界に接しているのだから、
いろいろなことを考え感じて、
自分が形成されているのではないか。
メルロ = ポンティはこのようなことを主張します。
「私たちは、身体として世界に住みこんでいる」
というのh、実感しやすい考え方です。
たとえば、仮にノミが
人間並みの頭脳を持っているとすると、
ノミの身体を通した価値観や世界観を
その『ノミ』は持つように思います。
頭脳が人間と同じだからといって、
人間と同じような考え方や感じ方はしないでしょう。
あるいは、たとえば目はないけれど、
鼻は犬並みに利き、脳は人間と同等で、
人間に似た姿をしている動物『人間?』はどうでしょうか。
人間は視覚に頼ることの多い動物ですが、
こうなると嗅覚に大きく依存するようになるでしょう。
そうして考えてみると「我の身体あり、
ゆえに我あり」とか
「ここに我の身体あり、ゆえに世界あり」
などということもできると思います。
私たちの身体、あるいは肉体は「物」ではない。
私たちそのものである。
目で見るからこそ、耳で聞くからこそ、
考えるんじゃないの。
手で触るからこそ、鼻で嗅ぐからこそ、
舌で味わうからこそ、感じるんじゃないの。
メルロ = ポンティはそうした主張をしました。
《ギターリストにとってギターとは?》
「道具は身体の延長である」といったことも
メルロ = ポンティは言いました。
たとえば、プロのギターリストにとって、
ギターはもはやその人の身体の一部
のようなものかもしれません。
ギターを手にしたとたん、自然に指が動く。
本人は一体化している感じがするかもしれません。
<中略>
こうして見てくると、身体は多くの文化や
歴史を帯びていることがわかります。
私たちの身体は私たちの人生とこの世界に
重要な意味を持って存在している。
そのことに改めて気づかされます。
<後略>
□ 参考 文献
「 使う 哲学 」
齋藤 孝 著
KK ベストセラーズ 発行
https://g.co/kgs/UnR8UQ
齋藤 孝 ( さいとう たかし ) さん
◇ 178 ページ から。
モーリス・メルロ = ポンティ。
◎ 体 で わかる、感じる、
刻 (きざ) み 込 (こ) む。
《 デカルト とは 異 (こと) なる
思想。》
メルロ = ポンティ
( 1908 年 ~ 1961 年 ) は
フッサール から 現象論 を
受け 継 (つ) いだ のですが、
フッサール の 思考法 とは
大きな 違い があります。
それは 身体 に 対する
考え方 です。
フッサール も 身体 について
語っては いるのですが、
フッサール は 身体 と 理性 を
「 理性 > 身体 」
と 見ていました。
こうしたは
デカルト に 顕著 (けんちょ) に
見られます。
デカルトは「 我 (われ) 思う、
ゆえに 我 あり 」
と 言いましたね。
「 私は 考える、だから
私 は 存在する 」
と いう ことですが、そうなると、
身体 は どこに あるのか、
という 疑問 が 起こります。
考える ものは 精神 で、
その 精神 によって、
私 は 私 になる、
というのが デカルト の
考えです。
では 身体 は? というと、
デカルト は 物体に
近い もの と 考えました。
デカルトにとって、身体は
物なのです。
精神 と 身体 は それぞれ
独立的 に 存在する
心 身 二元論
( 物 心 二元論 )の立場です。
でも、本当に そう だろうか。
そう じゃない んじゃないか。
そう 考えた 代表的な 哲学者が
メルロ = ポンティてす。
著作『 知覚 の 現象学 』で、
メルロ = ポンティは
心 身 二元論 とは
まるで 異 (こと) なる 世界観を
提示してくれました。
《 人間が ノミ の 姿を
していたら・・・ 》
「 身体を 中心 にして
人間を とらえよう 」。
メルロ = ポンティは そのように 提唱 しました。
自分のこの身体でもって、
この世界に住んでいるのだから、
世界はこう見えて、こう感じられるのではないか。
この身体で世界に接しているのだから、
いろいろなことを考え感じて、
自分が形成されているのではないか。
メルロ = ポンティはこのようなことを主張します。
「私たちは、身体として世界に住みこんでいる」
というのh、実感しやすい考え方です。
たとえば、仮にノミが
人間並みの頭脳を持っているとすると、
ノミの身体を通した価値観や世界観を
その『ノミ』は持つように思います。
頭脳が人間と同じだからといって、
人間と同じような考え方や感じ方はしないでしょう。
あるいは、たとえば目はないけれど、
鼻は犬並みに利き、脳は人間と同等で、
人間に似た姿をしている動物『人間?』はどうでしょうか。
人間は視覚に頼ることの多い動物ですが、
こうなると嗅覚に大きく依存するようになるでしょう。
そうして考えてみると「我の身体あり、
ゆえに我あり」とか
「ここに我の身体あり、ゆえに世界あり」
などということもできると思います。
私たちの身体、あるいは肉体は「物」ではない。
私たちそのものである。
目で見るからこそ、耳で聞くからこそ、
考えるんじゃないの。
手で触るからこそ、鼻で嗅ぐからこそ、
舌で味わうからこそ、感じるんじゃないの。
メルロ = ポンティはそうした主張をしました。
《ギターリストにとってギターとは?》
「道具は身体の延長である」といったことも
メルロ = ポンティは言いました。
たとえば、プロのギターリストにとって、
ギターはもはやその人の身体の一部
のようなものかもしれません。
ギターを手にしたとたん、自然に指が動く。
本人は一体化している感じがするかもしれません。
<中略>
こうして見てくると、身体は多くの文化や
歴史を帯びていることがわかります。
私たちの身体は私たちの人生とこの世界に
重要な意味を持って存在している。
そのことに改めて気づかされます。
<後略>
□ 参考 文献
「 使う 哲学 」
齋藤 孝 著
KK ベストセラーズ 発行
https://g.co/kgs/UnR8UQ