第126回レッスン続編 ~合奏しようよ~ | 四十路テナライストのヴァイオリン練習部屋

四十路テナライストのヴァイオリン練習部屋

音楽や楽器とはおよそ縁のないまま四十路を迎えた中年男性がヴァイオリンを習い始めた。
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 先週のレッスンレポートの続き。ま、1週間も経っているので記憶は定かではないのだが、議事録ではないのでそんな厳格さもいらないだろう。

 レッスンだけではないのだが、ヴィオラを弾いているととにかく肩が凝る。たぶん変なところに力が入っているからなのだろうけれど、その原因の半分ぐらいはまだ曲を覚えきれていないからだと思う。音符を凝視しながら、というより音符の上に自分で書いたイタリア語のフリガナ(ドレミのことね)を見ながら、頭の中でアラビア語(つまり指番号)に変換し、それで左手を動かしていく。右手はそれとは独立してボーイングをしなければいけないし、頭では拍を数えていなければいけない。そういう普段の生活ではあまりない不自然な一連の動作が変な力みを産んでいるのに違いない。


 ところで、譜読みに苦労していた「いのちの名前」は、先生とハモらせる練習をすることで、どこでどのパートとどう絡むのかというような、
曲の構造
というべきものが見えてきた。これは大きな前進だと思う。これが見えてくると、拍を真剣に数える必要がなくなる。新しいフレーズが始まるときは、たいていほかのパートがその導入部を弾いているはずだ。音楽っていつも不思議だな、と思うのは、最初は何もないところに最初のフレーズが置かれると、そのフレーズに導かれるように次のフレーズが出てきて、そこから次々にフレーズが重なっていくところだ。まるで、最初の音が出たらあとはこうなることが予定されているように音が次々に現れて調和していく。ヴィオラパートは主旋律が少ないので、そのパートだけではそういう予定調和を実感しにくい。とくにポリフォニーで展開するこの「いのちの名前」はそうなのかもしれない。しかし、すべてのパートが揃って弾いてみれば、やはりそこには予定調和の世界がある。いっけん何のことかよくわからないフレーズでも、そこにそのフレーズがある必然性に基づいて置かれているのだ。そういうことが実感できるとパート練習も楽しくなってくる。

 もうひとつのアンサンブル曲、ヘンデルのセルセも一緒で、こちらの方はヴィオラは延々とリズムを刻む伴奏なのだが、これも主旋律との絡みがわかれば、自然と何処をどう弾くのかがわかってくる。基本的には伴奏だから静かに脇役に徹するのだが、ここだけは目立ってもいいぞ、っていうところもある。
やっぱり合わせないと
 普段は個人レッスンばかりで進めているので、なかなか合わせる機会がない。今回はチェロも合わせての合奏なので、本番までにアンサンブルの練習が出来るのは、スタジオで1回と前日、当日の3回だけ。しかも指揮者はいない。本当に大丈夫なのか、と思っていたら、スタジオで自主練習会をやることになった。合わせることの楽しさをスタジオのほかの生徒さんと共有できると思うと、練習のモチベーションも上がってくる。スタジオとしても初めてのことのようで、どれだけ人が集まるのかも未知数なのだが、いまから遠足の前の子供みたいにワクワクする。
 ほかの生徒さんもそうだといいのだが。