爆笑

天気が良かったのでお出かけ!

広島県廿日市市桂公園に行きました。

ここは桜尾城跡地






そう。室町時代は安芸武田、大内などが領有していた安芸西部の重要拠点。


対岸には厳島が見えます。




そこから五日市方面に移動すると

五日市城跡地。




しかし、ここはもうキリスト教会や住宅地で跡はありませんでした。これだけが壁に貼り付けてました。







塩屋神社に行ってきました

縁結びの神社

で訪れるのが普通ですが


ここは歴史の転換点の一部です。


1540年9月

吉田郡山に襲来した尼子軍30,000と毛利元就率いる2,400と領民が立て篭もる吉田郡山城の戦いが勃発。


11月に粘る毛利元就を救援すべく九州から来援した

陶隆房(陶晴賢)の毛利救援軍3,000が厳島に到着。


しかし、この時安芸武田家が草津、己斐から五日市城を攻略し、ここを拠点に大内家の桜尾城を攻撃しようとしました。



これを放っておくと毛利救援に行けないため、

桜尾城から陶晴賢本隊が囮となって山手の三宅砦から攻めるふりをし、塩屋神社と話をつけてそこに厳島から船で移動して別働隊を潜ませました。



敵の主力部隊を城から廿日市方面に釣り上げた後に、五日市城を背後から攻撃して安芸武田軍を撃滅しました。



後顧の憂いなくその後、陶晴賢は三原に上陸して大内の東部軍、小早川家など安芸の兵力を合流させて12,000の軍勢で吉田郡山に向かいました。


ここで塩屋神社が安芸武田に味方していたら五日市城の攻略に時間がかかって毛利元就は滅ぼされて歴史が変わっていたかもしれません。

安芸武田家がそのまま収めた可能性もあります。

後に毛利元就に滅ぼされる陶晴賢もこの時は全力で毛利元就を助けにいっています。


そんな面白い歴史を考えながら

桜尾城跡地〜塩屋神社〜五日市城跡地を訪れてみました(笑)


なおその後は陶晴賢が毛利元就に救援をしている隙をついて厳島神主家の友田興藤が蜂起。

突如安芸灘から村上水軍が現れて厳島神主家に味方し厳島の大内軍を撃破。

五日市城、塩屋神社、桜尾城、の大内の留守の軍勢を安芸武田を引き入れた厳島神主家が攻撃し、一時的に支配しています








この話を元に回ってみました。

なかなか歴史とは面白いですねてへぺろ


この時織田信長4歳

豊臣秀吉、徳川家康は生まれていません。