8月6日です。


今日は、人類史上初めて核兵器が実戦で使用された日です。


広島では毎年8月6日に平和記念式典が行われます。


私の祖母は当時、己斐で畑仕事をしていました。その時の出来事を、小学生の頃から何度も聞いて育ちました。

己斐は太田川の西側にあり、山手になります。





原爆投下


午前8時15分。


広島市中心部の上空で、ウラン型(ガンバレル式)の原子爆弾が強烈な閃光とともに炸裂しました。



祖母は「何が起こったのか、一瞬わからなかった」と話していました。


爆心地の近くでは、多くの人が命を落とし、強烈な熱線によって人影だけが残った場所もあったと伝えられています。


その直後、猛烈な爆風が広島市内を襲いました。





爆風


祖母も爆風で吹き飛ばされたそうです。


ただ、祖母がいた場所は己斐の山側で、畑にいたため、建物の倒壊に巻き込まれることはありませんでした。


瓦礫や飛散物でけがはしたものの、命は助かったそうです。


気が付くと空は真っ暗になり、市内中心部は赤く燃え続けていたと話していました。





その後の広島


その後の光景は、祖母にとってまさに地獄だったそうです。


皮膚に大やけどを負った人や重傷者が次々と市内から逃げてきました。





多くの家屋は倒壊し、火災が広がり、逃げ遅れた人々が炎に巻き込まれたとも聞いています。


祖母の住んでいた近くの学校には救護所が設けられました。

己斐橋は崩れなかったので市街地から避難してくる人が多くいたみたいです。

最初は比較的軽傷の人が多かったそうですが、時間が経つにつれて重傷者が次々と運び込まれてきたそうです。ここで安心したのか亡くなった方も多くいるそうです。








水を求める人々


祖母からは、水を求める人が非常に多かったとも聞きました。


当時は「重傷者には水を飲ませてはいけない」と言われており、周囲の人たちは苦しみながらも飲ませることができなかったそうです。


それでも水を飲んだ方の中には、その後亡くなられた人もいたと聞いています。







黒い雨


午前10時前から西側から黒い雨が降り始めました。


しかし広島市内の火災は収まらず、雨を見た人は「雨は黒く、粘り気があった」と話していました。





当時は放射性物質を含んだ雨であることは誰も知らず、飲んだり、体を冷やすために浴びたりした人もいたそうです。





被害


火災は夕方まで続きました。


当時の広島市の人口は約35万人とされ、その年の末までに約14万人が亡くなったとされています。





最後に


ここまでの内容は、祖母や被爆者の方々から聞いた話をもとに、私なりにイラストで表現してみました。


この出来事は、決して忘れてはいけない歴史だと思っています。


広島では現在も小学校などで平和学習が行われ、被爆体験を語り継ぐ活動が続いています。


しかし、被爆者の高齢化により、直接体験を聞ける機会は年々少なくなっています。


旅行などで広島を訪れる方は、平和記念資料館や平和記念公園を歩いてみてください。




資料を見るだけでなく、実際にその場所に立つことで感じるものがあると思います。




広島電鉄は原爆投下3日後の8月9日に己斐から天満町まで運行を再開しています。

1便目は陸軍兵士を乗せて輸送。

黒く焼けた人達があちらこちらで倒れて亡くなっていたそうです。


そんな被爆した電車は2024年にラストランを終え現在は特別な場合のときに運行してるそうです。




最後に。


祖母は、あの凄惨な光景を目の当たりにしながらも、「広島は必ず復興する」と信じ、戦後に借金をして土地を買い、不動産経営を始めました。


焼け野原だった広島が復興し、その土地を守り続けた祖母の生き方を尊敬しています。