たまたまであるが、戦時中のちょっと笑える話という動画を視聴した。
戦禍で不安の中にあっても、したたかにパワフルに過ごす子供たちは、生きるために容赦しない。
戦後、進駐軍に
「ぎぶみーチョコレート」
と手を出した際のエピソードも様々で、戦中戦後も人それぞれだったのだ。
おしなべて、その頃の話をする人、というよりは話せる人、というのは話し好きで、時に針小棒大に展開する人が多いようだ。
それを聞いた子々孫々がどう捉えるかはまた別である。
私が聞いたのとは全く違った日常であった。
当時私の親はごく幼少期であったため、あくまで子供の視点に過ぎなかった気がする。
伯父伯母は一番割を喰った世代であり、物心ついてからの 思春期、青春は戦禍の中であった。
そして彼らから直接聞いた話はほぼ無いのだ。
今更ながら考える。
伯父は左の耳が生まれつき悪く、子供のころ肋膜炎に罹り静養していた時期もあり、本来なら徴兵検査で落とされるような体だった。
しかしながら赤紙が来、横浜に行ったそうだ。
復員したときは右の耳も聞こえなくなっていた。
空襲でやられたのではなく、上官に殴られたからだったという。
そもそも耳が悪く聞こえづらい人、よく聞こえず、返事が出来なかった、そういう些末なことを咎められ殴られた。
私はそのことを、伯父からではなく伯母から聞いたのだった。
伯母は毅然たる心の持ち主だったから、当時のこの国への覚悟、思想信条を支えに、従軍看護婦になるべく上京し15やそこらで戦禍の渦中に放り出され、防空壕で傷病兵や民間人を看護した。
そんな中、自身は虫垂炎を起こし、消毒も抗生剤なども無い状況下、腹膜炎を起こし奇跡的に生き延びた。
私がそれを聞いたのは、伯母と一緒に風呂に入っている時のことだ。彼女の腹部に不自然な傷跡が何か所もあり、物心ついた私が何気なく
「どうしたの?」
傷跡の理由を聞いた私が、続いて疑問を投げかけたからにすぎず、伯母が自分から話したわけではなかった。
ふたりが私にさえ話さなかったのは、話せなかったのだろうと今更ながら傷ましく思う。
そしてそれをもう、労りを伝える術が無いことを悔しくも思うのだ。