26/10/11(日)礼拝説教
旧約出エジプト24:3-8、新約マタイ福音書26:17-35
「主の晩餐」

 

 除酵祭の第一日目と記されます。除酵祭は過越祭の別名です。この日出エジプトの出来事を覚えて、イスラエルは過越の食事をします。その席の準備のために主イエスは弟子たちを派遣します。
 この過越の食事の途中、主イエスから弟子たちの中に主イエスを裏切るものがあることが明かされます。注意すべきなのは、この主イエスの言葉を聞いて弟子たちは驚くものの、裏切りをきっぱりと否定するものは一人もなく、弟子全員が「わたしのことでは」と順々に主イエスに尋ねるというやりとりが行われます。主イエスの十字架が近づく中で、緊迫した空気の中で、弟子たちの自信のなさと不安が浮かび上がっている記述です。
 この中で、ユダが「まさかわたしのことでは」というのに対して、主イエスは「それはあなたの言ったことだ」と答えられるところが重要です。主イエスが言う「それはあなたの言ったことだ」とは、あなたがそう言うならばそうだ、というような意味で、ユダを指定しているわけではないのでしょう。事実、本日の聖書箇所の最後では、主イエスは一番弟子のペトロの離反を予告されます。さらに言えば、主イエスの十字架に至るまで、十二弟子(全員男性)は全て主イエスの許から逃げてしまうのです。いわば十二弟子全員が主イエスを裏切る者として聖書では記述されているのです。
 しかし、復活の後、自殺したユダ以外の11名は復活の主イエスと出会い、十字架を前に裏切り挫折した経験を含めた主イエスと共に歩んだ経験に、復活の主に教えられたことをプラスし、聖霊の導きのもとで、大きな働きをなすように変えられるのです。
 

※この日のビデオ撮影は失敗しました。録画開始後51秒で止まってしまっていたのです。申し訳ありません。

26/10/04(日)礼拝説教
旧約出エジプト12:1-14、新約マタイ福音書26:1-16
「イエスを殺す計画」

 

 主イエスは、「これらの言葉をすべて語り終えると」弟子たちに言われた。「2日後は過越祭である。人の子は十字架につけられるために引き渡される。
 聖書箇所の最初の言葉です。ここから分かることは、主イエスは言葉で教えることは終えられた、すなわち言葉で教えられることはすべて教えた、と言われています。
 そして、2日後は過越祭であり、かねてから主イエスが言われていた通り、捕えられて十字架に架けられる時とされます。
 すなわち、主イエスの時間はあと2日しか残されておらず、その道は十字架へと向けられています。そして、ここからの行動こそが、主イエスが神のみ心としての人へのご慈愛を示されるための十字架に向かって行く道筋に入っていますが、これから主イエスが取られる行動は、それこそ命がけの歩みになり、主イエスは弟子たちに命をかけて教えることになるのです。
 過越は、出エジプト記に詳しいですが、ニサンの月15日に行われる祭りで、紀元前13世紀にイスラエルが奴隷であった時、エジプトから神の導きによって脱出できたことを記念する祭りです。脱出の際にイスラエルは、エジプトの初子を打つという神がイスラエルを誤って打たないようにするために子羊の血を門口に塗って目印とし、神はこの目印を見て「過ぎ越して」行かれました。そして、この混乱を糸口にしてイスラエルは脱出し解放への第一歩を歩みだしたのです。
 しかし、今やこの子羊の血は、主イエスの十字架上の血に変えられ、主イエスの血潮によって救いが実現される時が近づいたのです。
 

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26/09/27(日)礼拝説教
旧約ゼカリヤ14:1-9、新約マタイ福音書25:31-46
「御国を受け継ぐ」

 

 聖書箇所は、人の子=主イエスが「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき」、すなわち終末の一番最後の審判の部分がどのようなものであるかが記されます。
 人の子であり王である主イエスは、すべての国の民を、羊とヤギを選別するように左と右に分けると言われます。
 この「すべての国の民」は復活された主イエスの伝道命令で、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とする人々を指します。
 すなわち、主イエスの福音は全世界の人々に行き渡り、全ての民が救われた時が終末の裁きということになるのです。
 裁きの基準は、彼らが伝道者の宣教をどう受け取ったか、であり、さらに宣教に携わる者をどのように遇したかが問われるのです。
 マタイは、70年のローマによるエルサレム陥落を、ユダヤ教徒が教会の宣教を受け入れなかったために起こった神の裁きだと考えていますが、同じ思考の上に立って、終末においては教会の宣教に対する全ての人の姿勢が問われるのだと言うのです。
 終末において祝福を受けるか滅びを宣告されるかの決定は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」をそのように遇したかによると主イエスは言われるのです。
 

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26/09/20(日)礼拝説教
※9/20(日)の礼拝は牧師が別教会での説教ですので、代わりに前札幌琴似教会牧師久野真一郎先生(引退)に説教を担っていただきました。録画が出来なかったので、説教の要旨だけの掲載です。ご了承ください。

 

旧約創世記50:15-21、新約マタイ福音書18:21-35
「十字架の赦しの深さ」

 

 マタイによる福音書の背後にある教会は、教会の交わりにおいて、罪を犯した兄弟を得るということが福音の本質と、すなわち十字架の赦しの深さと結びついていることを知る教会でありました。けれども、罪を犯した兄弟を得るということは現実には容易なことではありません。21節を聴きましょう。「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』」とあります。ここでペトロは、兄弟を赦す回数を問題にしています。おそらく彼はその兄弟が同様の罪を繰り返してしまうのではないかと思ったのでしょう。
 この当時ユダヤ教のラビは、三回まで赦しなさいと教えていました。これに対してペトロは「七回までですか?」と尋ねています。ここで彼は、罪を犯した兄弟をいきなり裁いたりせず、赦しを旨として尋ねています。適切な対応だと言えるでありましょう。けれども問題は「七回までですか?」と、回数と結びつけているということです。彼が申し出た七という数は完全数であり、彼としては考え得る限りの回数だったに違いありません。ところがこれに対する主イエスのお言葉は驚くべきものでありました。「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』(22節)」このように言われたのです。主イエスは何を見据えてこのように言われたのでしょうか。
 それは主の十字架の贖いの恵み、すなわち赦しの限りなき深さにほかなりません。そうです。わたしたちは、この主の十字架の赦しの深さによって打ち砕かれ、この恵みにすべてを傾けるのでなければ、兄弟を得て、教会の交わりを形成していくことは出来ないのです。それゆえ主の十字架の赦しの深さが息づく主の教会であらせてくださいと、共々に祈り求めて参ろうではありませんか。

26/09/13(日)礼拝説教
旧約箴言25:13-16、新約マタイ福音書25:14-30
「与えられた才能を生かして」

 

 タラントンとは、お金の単位として用いられますが、主イエスの譬えから神から人それぞれに与えられる異なった賜物を指す場合もあります。
 しかし、ここでは主人から僕達に主人が出かけられる時に預けられ、終末までそれをどのように用いるか、という意味で用いられています。
 主人が旅行に出かける時、主人はそれぞれの僕に5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けられます。
 5タラントン預かったものは出かけていき商売をして5タラントンもうけました。2タラントン預かったものも他に2タラントンもうけます。しかし、1タラントン預かったものは出て行って穴を掘り主人の金を隠しておきました。
 しばらくして主人が帰ってきます。5タラントンと2タラントンを預かったものはそれぞれ5タラントンもうけ、2タラントンもうけ、主人から「忠実な良い僕だ。よくやった」と褒められます。
 しかし、預かった1タラントンを土に埋めた僕は、「怠け者の悪い僕だ」と叱ります。それであれば銀行に預けるべきであったと言われます。そして1タラントンを取り上げると10タラントン持っているものへ与えられました。
 1タラントンは6,000デナリオンで労働者が6,000日働いた賃金と等価の高価な金額です。このように主人が信じ預けられたものを成長させなくて、地に隠して何もしないとは何事か、ということです。
 これは当時のマタイの教会が関係しています。終末が近いと熱狂する人々に対して、終末の時期は神しかお知りならないこと。終末までの間は、与えられたタラントンを磨き増やすことに専念することが求められていることを指摘するのです。
 

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26/09/06(日)礼拝説教
旧約イザヤ5:1-7、新約マタイ福音書25:1-13
「その時のための備え」

 

 マタイ福音書が記された時代、直前にユダヤ戦争があり、その結果としてユダヤ人がローマ帝国によりイスラエルから追放され異邦人の地に散らされるという事態が生じたため、人々は動揺し終末は近づいたと信じました。その結果、キリスト教界全体で、またマタイの教会でも、キリスト者の中に終末が近づいたのだから、仕事などは放り出して蓄えを持って教会に集まり、終末が来るまでの間、飲めや歌えやと楽しみながら過ごそう、というような人々が生じました。このような事態にマタイ福音書は終末についての事例を幾つも掲載することで、人々を諌め、戒め、注意するように勧告しているのです。
 そして、終末は「遅れている」と知ったマタイの時代の人々に、それに対処してどう生きるべきかを教えるため、25章から7つの譬えを配置しました。「十人のおとめ」の譬えもその中に含まれ、5つ目の譬えとなります。
 ここでは来るはずの花婿(主イエス)が遅れたこと、しかし予期せぬ時刻に現れることを軸に注意喚起が行われます。なお、花婿が遅れた理由は何も説明されていません。ここでは待ち受ける人々の「用意の有無」のみが課題とされます。
 ユダヤでの婚宴は夜開かれました。花嫁の家で花嫁とその友人たちが花婿を迎え、それから夜道を照らしながら婚宴の会場まで赴くのです。
 このたとえではおとめたちが眠り込んだことは批判されず、準備の有無が問われます。「主よ」といくら懇願しても必ずしも救われるとは限らず、終末への準備ができていない者はきっぱりと排除されるということが記されます。
 

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26/08/30(日)礼拝説教
旧約創世記6:1-8、新約マタイ福音書24:36-51
「目を覚ましていなさい」

 

 終末についての第二の譬えに入ります。
 ここまでは終末の予兆として起こる様々な事象をあげて、それに対する心構えと対策を教えてきました。それは黙示文学的な表現で語られます。
 本日の聖書個所からは、終末の前に順次起こる事象によって予測を立てること自体を否定し、誘惑の放棄を求めます。
 その理由は、「子」である主イエスさえも週末の起こる時を知らないためです。ただ「父」だけがご存知だと主イエスは言われます。これは初代教会の時代、主イエスの再来について性急な予測を立てて熱狂的な待望を説く者らが熱狂的な主イエスの待望を祈り求め、しかし他方で一向に終末が実現しないために信仰の緊張を失う者が続出するということがあったため、このような混乱を鎮め、なお真剣な期待を持続していくために必要な教えであった。
 熱狂的にではなく、平穏に生活を主に倣いつつ歩みながら、しかし油断はせずに、いつ何時主イエスが再臨されても良いようにしておかなければならない、ということをマタイは言葉を変えながら伝えようとしているのです。
 主イエスが十字架に架かり復活され、昇天されてから、時を経ずにユダヤ戦争とユダヤ人のユダヤからの追放があったゆえに、最初に信仰を与えられた人々は、終末はすぐに来るのではないか、と捉えたところから、混乱が生じたのです。故に混乱を鎮めますが、しかし、注意深く時を見極めることはやめてはならない、とマタイは警告するのです。
 

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26/08/23(日)礼拝説教
旧約イザヤ13:10、新約マタイ福音書24:29-35
「人の子が来る」

 

 聖書箇所では、地上の人々に襲い掛かる苦難のみではなく、全宇宙的規模での異変が次々に起こり、ついに最後の場面になることが語られます。この文脈では、選ばれて救われる人々(31節)と人の子の行う審判に直面して悲しむ「地上の全ての民族」(30節)が対照的に描かれます。
 選ばれて救われる者は天使のラッパで全世界から集められ、審判に直面して悲しむ人々は「イエスを刺し貫いた者(ゼカ12:10)」として裁きを恐れなければならない。
 弟子たちは3節で終末の前兆とイエスの再来について尋ねました。これに対するイエスの答は31節までの段落でほぼ与えられるが、マタイは32節以下25章の終わりまで7つの譬えを置いて、終末を前にした人間の信仰的な生き方について教えていく。その第一のたとえ「いちじくの木」は、常に緊張して予兆を正確にとらえるべきことを教えています。パレスチナのいちじくは春に新芽を出すのが他の木よりも遅く、芽が出るともう夏が近く、収穫(終末の裁きを示唆)は近いことを前提にしています。そして、いちじくが枝を伸ばして葉を茂らせるのは毎年のことであるから、見慣れた事象としてそのもつ意味を見落とすかもしれない。
 しかし、この時代はいずれ滅びる。
 最も堅固であるはずの天地でさえ、「滅びる」。その中で滅びることのないイエスの言葉にしっかりと学ばなければならないことを教える。
 

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26/08/16(日)礼拝説教
旧約ダニエル9:24-27、新約マタイ福音書24:1-28
「憎むべき破壊者」

 

 一連の神殿での騒動と論争が終わると、主イエスは神殿を出て行きます。主イエスは23:38で「見よ、お前たちの家は見捨てられ荒れ果てる」と言われています。主イエスは神殿を出るだけではなく、見捨てたのです。神の箱があり、その上に神がご臨在すると言われる場である神殿から、生ける神の子は出て行き、断絶を告げるのです。この神殿の器はヘロデ大王が再興したもので、立派なものです。しかし、見た目の立派さとは別に、内容が伴わず、生ける神の子が愛想をつかした場となったのです。そして、この40年後、神殿は戦争で破壊され、イスラエルはこの地から追放されるのです。
 主イエスの言葉は、紀元70年のユダヤ戦争時の破壊を指していることも考えらえるのですが、この福音書が記されたのはユダヤ戦争の後なので、著者マタイは、マタイの時点から見て将来の何時、どのような事が起こるか、ということを主イエスにお聞きしたい、ということです。福音書が記された時期の教会では、終末については切実な問題であったため、このことに触れられていると考えられます。
 なお終末についてのキリスト教会のイメージは、ユダヤ教の黙示思想の影響下で理解されるものですので、まず、偽メシアの出現→戦争のうわさ→民族ないし国家間の敵対の激化→飢饉の発生→地震が起こると言われています。特にキリスト信仰者には、苦しめ荒れる、殺される、憎まれる、つまづき、裏切り、憎みあう、信仰の衰退、などが伴うと聖書箇所では指摘されます。マタイ福音書の時代の教会はこのような恐ろしい事態のいくつかを実際に経験し、いくつかを予期して、教会が混乱に陥る中で信仰の戦いを最後まで行う様に励ましあっています。
 

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26/08/09(日)礼拝説教
旧約民数記15:37-41、新約マタイ福音書23:1-39
「房を長くする」

 

 この長く激しい律法学者とファリサイ派の批判は、繰り返し彼らの「不幸」を宣告し、彼らを「偽善者」と決めつけ、「ものの見えない者」と激しく主イエスは非難します。
 この内容は単に律法学者とファリサイ派を批判したものというよりも、著者マタイが、マタイの時代のユダヤ人キリスト者の証言をもとにしてまとめたもので、当時激しくキリスト教と対立していたユダヤ教の状況を反映したものです。
 聖書個所は三つに区分されてファリサイ派、ユダヤ教の批判を行っています。
(1) 2-12節 ユダヤ教指導層の偽善ぶりを指摘し、教会内での謙遜を勧める。
(2) 13-32節 7項目の律法学者たちとファリサイ派の「不幸」の宣言とその理由について。
(3) 34-36節 ユダヤ教によるキリスト教迫害の実態とその報いの予告。

 律法学者とファリサイ派はモーセ以来、律法を民衆に教え、その生活の実情に応じて守ることが出来るように、具体的に解釈し、指導してきました。彼らは自らがモーセの後継者であるとして、特別な地位と権威を持つことを自ら認めています。
 しかし主イエスは、かれらの問題はその教えでなく、「言うだけで実行しない」ことだとはっきりと示されます。
 彼らの教えを「全て行い、守りなさい」と言うのでは、キリスト教がユダヤ教の枠内に位置づけられることになります。この聖書個所は、主イエスの精神を十分に理解していなかったユダヤ系キリスト教会で生まれた警告の言葉と思われるのです。
 

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