26/07/05(日)礼拝説教
旧約出エジプト2:1-15、新約マタイ福音書21:23-32
「神の望み」

 

 主イエスは神殿清めの翌日、神殿の境内で人々に御国について教えていました。そうすると、神殿の祭司長や民の長老らが近づいて来て、「何の権威で、このようなことをしているのか」と問います。これは、前日、主イエスが神殿清めを行ったことについて問いただしているのです。主イエスがこれまでの慣例としてきた神殿での商行為を停止させたことに、神殿サイドは強い衝撃を受けたのです。このまま見過ごすことは危険だ、ということを考えていたのです。ただし、主イエスが神殿批判を行ったのは、単に怒りにまかせたものではなく、何らかの権威によるものではないか、と考えました。それが神からのものなのか、悪魔に由来するものなのか、ということが問題と捉えました。
 これに対して主イエスは一つ尋ねると言われます。答えられたら何の権威で行うのか答えようということです。質問は「ヨハネの洗礼はどこからのものだったのか。天からのものか、人からのものか」。主イエスが自らの権威が神に由来すると言えば、神を冒涜したということで逮捕が可能となる、と見込みました。
 神殿サイドの者は、「天からのものだ」と言えば「なぜヨハネを信じなかったのか」となるし、「人からのものだ」といえば群衆が怖い。故に「わからない」と応えるしかなかったのです。明らかにヨハネの活動は天からの権威に基づくものであったにもかかわらずにです。
 そこにはヨハネを無視した者が、イエスの権威について論じることは無意味だという批判が込められているのです。
 

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26/06/28(日)礼拝説教
旧約イザヤ56:6-7、新約マタイ福音書21:1-22
「わたしの家は祈りの家」

 

 ガリラヤからの旅が終わりに近づき、主イエス一行はエルサレムへと至る坂道に到着しました。その時、主イエスが二人の弟子に、向こうの村にロバがつないであり、一緒に子ろばがいるのが見つかるからわたしのところに引いてきなさい。誰かが何かを言ったら、主がお入り用なのですと言いなさい、と命じました。はたして子ロバは言葉通りにそこにいて、弟子たちは主イエスの許へと引いてきました。
 古のソロモン王や、紀元前2世紀のマカバイのエルサレム入場と同じように、主イエスはロバに乗って、それも子ロバに乗ってエルサレムに入城したのです。馬であればそれはこの時代は軍馬です。そうではなく庶民が利用するろば、それも子ろばです。主イエスは平和裏に事を進めたかったのでしょう。
 しかし、主イエスがエルサレムに到着し、神殿の境内に入ると、そこでは商人が支配していました。神殿でしか通用しない貨幣に両替したり、聖所で礼拝の際に献げる生贄の動物を販売したり、ということを商人たちはしていたのです。それは、神殿の責任者も公認したものでした。神殿の者達には商人から利益の一部が入るのでしょう。
 礼拝の場所、祈りの場所、神の臨在の場所としての神殿が、「強盗の巣」のようにされていることを主イエスはお許しになりませんでした。商売に使う台や椅子を蹴り倒し、人々に「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と叫びました。
 そして神殿を清めた後、目の見えない人や足の不自由な人を癒やされ、それを見た人々、子どもまでが「ダビデの子、ホサナ」と叫ぶ様子を聞きました。
 

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26/06/21(日)礼拝説教
旧約イザヤ60:1-5、新約マタイ福音書20:17-19
「十字架と復活の予告」

 

 これまでガリラヤのカファルナウムというユダヤの北部を拠点として宣教活動を行っていた主イエスは、首都のエルサレムへと向かう旅に出ることになります。
 この旅を前に主イエスは十二弟子だけを呼び寄せて言われます。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」。
 この予告は三度目の予告になります。
 なぜなら、弟子たちだけではなく、聖書の読者も、この段階では、主イエスが言われることの意味が分からないので、三度、主イエスは告知する必要があったということです。
 しかし、それでも十二弟子にはその意味が伝わったのかどうかは不明です。
 これまでの人間の価値観に頼っていては、主イエスの言われる意味がどういうものなのかが分からないからです。
 主イエスがガリラヤで神の子として活動した中で行使した奇跡の力(神の力)や主イエスの言動を前に、この国を支配するユダヤ教の指導者達は、自分達の存在を脅かす「敵」と主イエスを認識したため、抹殺しようとするのです。
 異邦人とは、時の権力者であるローマ帝国の皇帝の代理人としての総督ピラトのことを示します。すなわち、主イエスはユダヤ教指導者の謀略に掛けられた後、世界を支配する権力者の手によって十字架に架けられるということなのです。
 しかし主イエスにとって、また神にとって、十字架は勝利です。目的とされる、罪の奴隷となっている人類の、代価を支払って罪の奴隷から解放するという栄光の業を成就させるものだからです。
 

※本日はスマホでのビデオ撮影に失敗してしまいました。礼拝前にいつもは再起動しているのですが、本日は忘れてしまい、そのせいではないかと思います。すみません。

26/06/14(日)礼拝説教
旧約創世記3:1-15、新約ヨハネ福音書3:13-21
「わたしたちを愛される神」

 

 聖書箇所でモーセが荒野で蛇を上げた、というのは旧約民数記21:4-9の故事を示します。エジプトで奴隷であった民は、苦しみの叫びをあげ、それを神は聞かれて歴史に介入され、奴隷の民を解放し、乳と蜜の流れる約束の地カナンへの旅へと誘われました。しかし、旅が続くと、人々は旅がつらい、食事が良くないなど、全て神に頼っているのに神に対して不平不満ばかりを言います。その中で神は炎の蛇を民に向かって送られました。結果、蛇は民をかみ、多くの死者が出ました。
 ここに来て民は深く反省し、「わたしたちは主とあなたを非難して罪を犯しました」と赦しを請いました。
 神は指導者であるモーセに炎の蛇を造り、旗竿の上に掲げ、蛇にかまれた者がそれを見上げれば命を得るようにしてくださいました。
 本日の聖書箇所は、この民と同じように、上げられたならば、主イエスを見なければならない、と教えています。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためです。
 なぜなら「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と主イエスは言われます。
 神は御子である主イエスを世に送り、十字架に架けて人々の罪を贖う程に、世を愛されたのです。この愛に、世にある私たちは応えて行かなければなりませんし、応えることにより永遠の命へと招き入れられるのです。
 この3:16の言葉は「聖書のへそ」と呼ばれる部分です。この言葉に聖書全体の言わんとすることが込められているのです。
 

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26/06/07(日)礼拝説教
旧約イザヤ書51:17、新約マタイ福音書20:20-28
「主が飲まれる杯を飲めるか」

 

 弟子たちが主イエスの受難の深刻さとその意味を真に知るのは、実際に受難が起こってからです。それまではせっかく主イエスが何度も「弟子達だけ」に打ち明けても、弟子たちは神の子主イエスに付き従い地位を得るということしか頭にありません。
 その表れが、ゼベダイの息子たちの母による主イエスへの望みであり、むすこたちが主イエスの「杯」を「飲むことが出来る」という自惚れです。
 母は子のためを思って将来の地位を主イエスに求めるということになります。しかし、彼女は後に主イエスの十字架を目撃するに至り、そこで自らの求めが言語道断であったと初めて気づくことになるのです。
 それは弟子たちも同じで、ここでは主イエスの歩む道の先に十字架があることを考えようともしていません。
 この物語に示される裏側は、弟子たちの中に熾烈な順位争いが根深くあった、ということです。その中で二人の兄弟(ゼベダイの子)は弟子たちの中でも特別な立場にあった(17:1)が、ここでは一番弟子のペトロを排除する意図があったと思われます。しかし、このゼベダイの申し出を、他の弟子たちには非常な関心事であり、内面はゼベダイの子らと同じでした。
 この中で、主イエスは世俗の「偉い」人達の支配の実態と反対に、主イエスに従うためには「偉くなりたい者」はそれとは全く逆の道を歩むべきことを教えます。それは「仕える者」「僕」となることであり、力関係での序列ではありません。そしてその道こそが主イエスが歩むべき道なのです。この主イエスの姿勢を見習う様に、との主イエスからの指針がここにあります。
 

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26/05/31(日)礼拝説教
旧約レビ記19:13、新約マタイ福音書20:1-16
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」

 

 マタイ福音書では、主イエスの語る譬えの多くが「天の国」を説明するものです。マタイはこの譬えの前後(19:30、20:16後にいる者が先になり、先にいる者が後になる)に同じ言葉を置き、神様との関わりにおいては先か後かという時間的な順位は意味をもたず、むしろ逆転があり得ると説明します。
 前後の位置が逆転する、という主イエスの言葉によって、朝早くから主人に選ばれてぶどう園で働いた労働者はイスラエル、一日の終わりに近くなって主人に声をかけられた者は異邦人を指すと解釈されます。これは救済史を顕わすものです。
 しかし、譬え自体は、マタイのこのような理解とは異なり、神様は個々人の作業量(努力やその成果としての業績)によって報いるのではない、ということを教えています。
 主イエスが教える神様は、因果応報的に多く働いたものに多く報い、少ししか働かなかった者にはそれに応じた報いを与える、という存在ではありません。譬えの主人の賃金の支払い方は、労働者の作業量からみるとこの世的には確かに不公平です。朝から働いたものが不満と抗議を行うのは当然です。しかし、神様は人を全く別の視点から見ています。誇るべき作業成果のない者も「神の救い」の中にあるということです。マタイ5:45「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」という山上の垂訓にも共通する考え方です。
 確かに、夕方5時から雇われた者は、職を求めて朝から広場に行くことさえしなかった怠け者かもしれません。しかし、神の恵みは等しく与えられるのです。
 

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26/05/24(日)礼拝説教
旧約創世記2:6-7、新約ヨハネ福音書14:15-31
「弁護者としての聖霊」

 

 本日は聖霊降臨節・ペンテコステです。
 主イエスが復活されてから50日目に弟子たちがひとところに集まって祈っていると、天から聖霊が降った、という出来事がその起源になります。そして、聖霊によって結び合わされた兄弟姉妹は、「主のからだ」としての教会を形成することになります。このことからしますと教会の誕生日ともいえる日です。
 その聖霊の派遣を主イエスが約束して下さるのが、聖書箇所になります。
 聖書個所ではまず弟子達が主イエスが授けた「掟」を守ることを確認しています。そして求めに応じた歩みが出来るように、主イエスに代わる「弁護者」としての聖霊を送ることを約束されます。この「弁護者」であり聖霊は、「真理の霊」ですが、世は霊を見ようともしないので、「見えない」と言います。生きて働く主イエスに代わる弁護者としての聖霊は、見ようとしなければ見えない、ということを教えています。
 しかし、主イエスが弟子達の許に不在であることに変わりは無く、そのことを不安に思い、自分達は「みなしご」になったのではないか、と危惧するかもしれないが、しかし、主イエスは終末の時に必ず戻ってくると主イエスは約束されます。そしてその時には、主イエスが神の内にあり、弟子達が主イエスの内にあり、主イエスも弟子達の内にあることが、弟子達にも分かるようになると主イエスは言われます。すなわち、弟子達に限らず信仰者は、主イエスを通して神と結び合わされていることを主イエスは教えるのです。故に、今は理解できないかもしれないが、弁護者としての聖霊の守りの中で「その時」を待ちなさい、と教えるのです。
 

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26/05/17(日)礼拝説教
旧約出エジプト記20:12-17、新約マタイ福音書19:16-30
「永遠の命を得るためには」

 

 聖書箇所は、(1)金持ちの青年と主イエスの対話、(2)主イエスと弟子たちとの対話で天の国に入るのは人の努力ではなく、神のみによって可能となること、(3)終末への約束と警告、が記されています。共通するのは、財産を捨てるということです。このことがテーマとなって、三つの話を繋げています。
 金持ちの青年が主イエスに「永遠の命」を得るためにはどのような善行を行えば良いのか、と問います。それは数多くある律法の内、どの律法を行えば良いのか、との問いです。
 主イエスは具体的な律法を上げます。それは十戒の後半と隣人愛の教えでした。金持ちの青年はそれらは既に守ってきた。まだ何か欠けているのか、と主イエスに問います。
 これに対して、主イエスは「完全」になりたいのであれば、財産を処分して貧しい人に施しなさい、と命じます。これは金持ちの青年の根底に潜む問題に気付くように導かれての発言です。つまり、自らの行為や実績によって永遠の命を会得できるはずだという金持ちの青年の考え方(自力救済的努力主義)が問題なのであり、主イエスは金持ちの青年のこの考えを根底から覆すために、厳しい要求を突きつけ、金持ちの青年に自らの限界を悟らせて、神にのみ頼るしか道はないことを悟らせようとしたのです。
 続いて財産に依存する者は天の国から遠いことを主イエスは弟子達に教えられます。それは貧しい人を祝福し、神の国はそのような者にこそ与えられると宣言する主イエスの考えに通じるものです。
 救いは神から賜物として与えられるものであって、人間の地位、努力によって得られるものではないからです。
 

※ビデオ撮影は失敗してしまいました。すみません。

26/05/10(日)礼拝説教
旧約創世記1:27、新約マタイ福音書19:1-12
「離縁」

 

 主イエスはガリラヤでの宣教に終わりを告げ、ガリラヤを後にしてエルサレムに向かっての旅を始めます。
 この旅には大勢の群集が従ったとされます。主イエスはその旅の途上、人々の病気を癒やされながら歩まれました。
 そのような中に、悪意を持つファリサイ派の人々が近づき、主イエスを試みるために質問をします。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という問いです。ファリサイ派は、先にヘロデ・アンティパス王の離婚と再婚を洗礼者ヨハネが批判したために処刑されたことを知っているので、同様の質問をして主イエスを罠に掛けようとしたのかもしれません。いずれにせよ、悪意のこもった質問です。
 主イエスの時代、離婚は男性の当然の権利のように取り扱われていました。主イエスがこれに否定的な意見を言えば、民衆の人気が落ちるとファリサイ派は思ったのかもしれません。
 しかし主イエスは毅然と聖書に基づいた発言をされます。
 創世記の人間創造の際、神様は「初めから人を男と女にお作りになられ、それ故、人は父母を離れてその妻と結ばれて、二人は一体となる。故に、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」と告げます。
 ファリサイ派は「なぜ、モーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」と問います。
 主イエスは「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを赦したのであって、元からそうだったわけではない。不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は姦通の罪を犯す事になる」と告げます。
 これはファリサイ派の律法理解への批判です。

 

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26/05/03(日)礼拝説教
旧約創世記4:23-24、新約マタイ福音書18:21-35
「何度赦すべきか」

 

 聖書箇所は、ペトロが主イエスに、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」との問いで始まります。
 この時代の許しの回数に関しては、ヨブ記33:29に倣って、同じ人への許しは三度までで十分であると考えられていました。このような価値観の中で、ペトロが「七回赦すべきか」と問うたことも素晴らしいが、主イエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と言われています。七の七十倍赦すということは、赦しの回数を数えることを無意味にする無限の許しを顕わします。さらに「この場合には」というような条件が一切付けられていないので、どのような罪に対しても寛容に許しを与えるべきであることを主イエスは示されるのです。
 この前提としては、神は人に対してまさにこのような許しを与えられえているのであり、この神理解に立って人間関係を築くことを示されるのです。それは「敵をも愛せ」という教え(5:44)に通じます。「七の七十倍」は創世記4:24による聖句で、報復ではなく赦しが強調されます。
 続くたとえ話では、王は到底返済できない膨大な借金一万デナリオンを持つ家来を赦します。一万タラントンとは、ヘロデ大王の年収九百タラントンの10年分以上の額で、非常に大きな金額であったことが分かります。
 ところがこの家来は、彼に借りのある仲間に遭うと、自分が赦してもらった額の僅か五十万分の一の貸しを厳しく攻め立て、仲間を牢屋に入れました。王の無限の赦しと、赦されても感謝の心を持たずに仲間を苦しめる家来の無慈悲さの話が対比的に記されます。そして、家来は王に一端赦されたにもかかわらず、捕らえられて牢に入れられます。
 

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