26/05/17(日)礼拝説教
旧約出エジプト記20:12-17、新約マタイ福音書19:16-30
「永遠の命を得るためには」

 

 聖書箇所は、(1)金持ちの青年と主イエスの対話、(2)主イエスと弟子たちとの対話で天の国に入るのは人の努力ではなく、神のみによって可能となること、(3)終末への約束と警告、が記されています。共通するのは、財産を捨てるということです。このことがテーマとなって、三つの話を繋げています。
 金持ちの青年が主イエスに「永遠の命」を得るためにはどのような善行を行えば良いのか、と問います。それは数多くある律法の内、どの律法を行えば良いのか、との問いです。
 主イエスは具体的な律法を上げます。それは十戒の後半と隣人愛の教えでした。金持ちの青年はそれらは既に守ってきた。まだ何か欠けているのか、と主イエスに問います。
 これに対して、主イエスは「完全」になりたいのであれば、財産を処分して貧しい人に施しなさい、と命じます。これは金持ちの青年の根底に潜む問題に気付くように導かれての発言です。つまり、自らの行為や実績によって永遠の命を会得できるはずだという金持ちの青年の考え方(自力救済的努力主義)が問題なのであり、主イエスは金持ちの青年のこの考えを根底から覆すために、厳しい要求を突きつけ、金持ちの青年に自らの限界を悟らせて、神にのみ頼るしか道はないことを悟らせようとしたのです。
 続いて財産に依存する者は天の国から遠いことを主イエスは弟子達に教えられます。それは貧しい人を祝福し、神の国はそのような者にこそ与えられると宣言する主イエスの考えに通じるものです。
 救いは神から賜物として与えられるものであって、人間の地位、努力によって得られるものではないからです。
 

※ビデオ撮影は失敗してしまいました。すみません。

26/05/10(日)礼拝説教
旧約創世記1:27、新約マタイ福音書19:1-12
「離縁」

 

 主イエスはガリラヤでの宣教に終わりを告げ、ガリラヤを後にしてエルサレムに向かっての旅を始めます。
 この旅には大勢の群集が従ったとされます。主イエスはその旅の途上、人々の病気を癒やされながら歩まれました。
 そのような中に、悪意を持つファリサイ派の人々が近づき、主イエスを試みるために質問をします。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という問いです。ファリサイ派は、先にヘロデ・アンティパス王の離婚と再婚を洗礼者ヨハネが批判したために処刑されたことを知っているので、同様の質問をして主イエスを罠に掛けようとしたのかもしれません。いずれにせよ、悪意のこもった質問です。
 主イエスの時代、離婚は男性の当然の権利のように取り扱われていました。主イエスがこれに否定的な意見を言えば、民衆の人気が落ちるとファリサイ派は思ったのかもしれません。
 しかし主イエスは毅然と聖書に基づいた発言をされます。
 創世記の人間創造の際、神様は「初めから人を男と女にお作りになられ、それ故、人は父母を離れてその妻と結ばれて、二人は一体となる。故に、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」と告げます。
 ファリサイ派は「なぜ、モーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」と問います。
 主イエスは「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを赦したのであって、元からそうだったわけではない。不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は姦通の罪を犯す事になる」と告げます。
 これはファリサイ派の律法理解への批判です。

 

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26/05/03(日)礼拝説教
旧約創世記4:23-24、新約マタイ福音書18:21-35
「何度赦すべきか」

 

 聖書箇所は、ペトロが主イエスに、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」との問いで始まります。
 この時代の許しの回数に関しては、ヨブ記33:29に倣って、同じ人への許しは三度までで十分であると考えられていました。このような価値観の中で、ペトロが「七回赦すべきか」と問うたことも素晴らしいが、主イエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と言われています。七の七十倍赦すということは、赦しの回数を数えることを無意味にする無限の許しを顕わします。さらに「この場合には」というような条件が一切付けられていないので、どのような罪に対しても寛容に許しを与えるべきであることを主イエスは示されるのです。
 この前提としては、神は人に対してまさにこのような許しを与えられえているのであり、この神理解に立って人間関係を築くことを示されるのです。それは「敵をも愛せ」という教え(5:44)に通じます。「七の七十倍」は創世記4:24による聖句で、報復ではなく赦しが強調されます。
 続くたとえ話では、王は到底返済できない膨大な借金一万デナリオンを持つ家来を赦します。一万タラントンとは、ヘロデ大王の年収九百タラントンの10年分以上の額で、非常に大きな金額であったことが分かります。
 ところがこの家来は、彼に借りのある仲間に遭うと、自分が赦してもらった額の僅か五十万分の一の貸しを厳しく攻め立て、仲間を牢屋に入れました。王の無限の赦しと、赦されても感謝の心を持たずに仲間を苦しめる家来の無慈悲さの話が対比的に記されます。そして、家来は王に一端赦されたにもかかわらず、捕らえられて牢に入れられます。
 

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26/04/26(日)礼拝説教
旧約創世記48:15-16)、新約マタイ福音書18:10-20
「迷い出た一匹の羊」

 

 マタイ福音書の記者マタイは、この有名なたとえ話を教会内の「小さな者」への配慮の教えと解釈し、教会の維持と発展をテーマとしているのでしょう。
 主イエスは「捜しに行かないだろうか」と問いかけるが、常識的なしっかりした羊飼いなら、捜しに出る前に残される99匹を優先的に安全な場所に確保するでしょう。このことが記されていません。それは、この羊飼いが神に他ならないからです。神の万能のお力によって羊飼いが不在の間も残りの99匹の羊は守られるからです。
 聖書個所は、一匹の羊が残り99匹よりも関心と配慮の中心になるので、一匹の尊厳とかけがえのなさが述べられるのです。その時一匹は迷い出た存在で99匹に迷惑をかける存在なのです。しかし神は一匹の羊を捜しに行くのであって、羊が自分の過ちを認め、復帰と謝罪をすれば受け入れてやるのではないのです。
 神の愛を告げるこのたとえを、マタイは教会の指導者への教えとして用いたのです。残りの99匹が気になりますが、この聖書個所では教会の指導者の取るべき姿勢を示しているのです。
 さて、その間、99匹の羊はどうしていたのでしょうか。一匹の羊を責めたでしょうか。指導者が不在になったことに不安を感じたでしょうか。残念ながら、そのことについては記されていません。神の許にある99匹は、一匹と同じように神から愛情を注がれていることが前提となっていることだけが現されます。
 

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26/04/19(日)礼拝説教
旧約詩131編1-3、新約マタイ福音書18:1-9
「天の国でいちばん偉い者」

 

 福音書全体を読みますと、弟子達はしばしば互いの順位争い、誰が誰より偉い、などに心を奪われていたようです。
 弟子達だけでこれを論争しても結論が出ないので、弟子達は主イエスのもとへ出向いて、「天の国で一番偉いのは誰でしょうか」と問い合わせたのでしょう。このようなところで、十字架と復活の出来事を経験する以前の弟子達が未熟であったことが明らかにされます。聖書の意図は、この様な未熟な弟子達が、十字架と復活の後大きく変えられたということです。
 天の国に序列などはありません。この世の価値観とは別のものが支配する場所なのです。それを弟子達は理解していませんでした。
 しかし、主イエスは序列の基準を求める弟子達に辛抱強く、天の国では序列という発想自体が無いことを説明し、子どもを呼び寄せ、「子どものようにならなければならない」と教えます。
 子どものあり方と天の国に入るものを結びつけて述べる個所は他にもあります。
 主イエスの時代、子どもは一般的に愚かで不完全、無価値なものと見られていました。このような時代の常識に反して、主イエスは子どもの姿をあるべき信仰者のモデルとするのです。それは子どもが親に対して無条件の信頼を抱き、親と一緒にいると大きな安心感をもつということと深く関係しています。
 主イエスのここでの言葉の背後には、「偉い」という価値基準を放棄し、偉くあろうと努力することにひそむ問題性を見抜くことを求めているのでしょう。
 

※ビデオは撮影開始後2秒で止まってしまっていました。以前も何度か調子が悪い時期がありましたが、録画開始直前に再起動して、メモリをクリアしたりしているのですが、フリーズする時はフリーズするようで悩みの種です。

26/04/12(日)礼拝説教
旧約出エジプト30:12-16、新約マタイ福音書17:24-27
「神殿税」

 

 ここでは納税について主イエスがどう対応されたかについて記されます。
 神殿税が例として挙げられていますが、主イエスは、26節にみられるように、王は税や貢物を自分の子どもたちからは取らず他の人から取るものだ、とペトロが説明しているのを聞いて、「子どもたちは納税しなくてもよいわけだ」と話されます。これは、神の子どもとしての信徒は神殿税を納めなくても良いということです。他の者が納めればよいと言われるのです。
 主イエスは自発的な献金については推奨されましたが(マルコ12:41-44)、律法に依拠する強制的に徴収される神殿税については否定的であられました。それは、先に述べた通り、神の子からは徴収されないという考えがあるからです。
 故に、神殿税を集める者たちがペトロのところに押しかけて、あなたたちの先生は神殿税を納めないのか、と言われたところで、主イエスは支払うつもりは無かったのでしょう。おそらく徴税人と議論にはなるでしょうが。しかし、ペトロは徴税人に「納めます」と応えてしまいました。故に主イエスはペトロに示します。湖に行って釣りをしなさい、と。そして、最初に釣れた魚を取って口を開けると銀貨が一枚見つかるはずだと言われます。それを主イエスとペトロの分として納めなさい、と命じます。
 主イエスの納税を強要することへの反発を納められて、逆に支払いを勧めるのは、「彼らを躓かせないため」とされています。
 

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26/04/05(日)礼拝説教
旧約詩16編7-11、新約マタイ福音書28:1-10
「復活される」

 

 主イエスの十字架上の死は金曜日でした。どこまでもついて行くと言っていた一番弟子のペトロも鶏が二度鳴く前に三度知らないと言い逃れて行くなど、十二弟子は全て主イエスの十字架を前にして脱落してしまいました。しかし、この十字架を大勢の婦人達が見守っていたと聖書には記載があります。そして、その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母が含まれていました。
 それから三日の後、すなわち安息日の土曜日が終わった日曜日の朝の出来事が本日の聖書個所です。
 マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。十字架は安息日の前の金曜日でしたので、日付変更時刻の夕暮れまで時間が無い中で主イエスの遺体は埋葬されました。それ故に、遺体を清めるための香油を塗布しに向かったのでしょう。
 すると、大きな地震が起こったと記されます。そして、主の天使が天から降って、墓をふさぐ石をわきへ転がしその上に座ったと記されます。天使の姿は稲妻のようにかがやき、衣は雪のように白かったと記されます。
 墓の番兵たちは恐ろしさの余り震え上がりました。
 しかしそのような中で、天使は、主イエスのもとへ行こうとしていた二人の女性に、「恐れることは無い」と諭し、主イエスはかねて主イエスが言われた通り復活されたことを伝えます。
 その証拠として墓の中を見て、急いで弟子達に復活の出来事を伝え、ガリラヤで復活の主イエスにお目にかかれることを伝えなさいと言います。
 そうして、墓から弟子達のもとへ急ごうとした二人の女性のもとに復活の主イエスは現れ、挨拶をして、弟子達に伝えるようにと言います。
 このように、復活は、主イエスの十字架を最後まで見守り、墓まで遺体を運んだ女性達によって確かめられ、知らされることになったのです。
 

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26/03/29(日)礼拝説教
旧約申命記32:3-5、新約マタイ福音書17:14-20
「からし種一粒の信仰」

 

 主イエスが変貌された山の上の出来事の後、一行は下山しました。群衆が集まっているのでそこへ行くと、ある者が主イエスにひざまずいて「息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます」と訴えます。聞くところによれば、火の中や水の中に倒れるのですと訴えます。これは親が子の悪霊が取りついたと言われる病気をなんとしても癒やすために、火の中に子を入れたり、水の中に入れたりして、なんとか悪霊を追放しようとしていた、ということの表れと捉えられます。
 私はてんかんではありませんでしたが、似た病状が出る病気で思春期の時期を苦しんでいました。病院に行くと、自律神経失調症、親は気のせいだということで18歳の大学入学までは、そのままにしておきました。しかし、実情、困るんです。発作がある特定の条件下で起こるのです。それで、残る病院は精神科のため、そこに行こうとしましたら親に止められました。しかし、大学生になったのだからと親に黙って当時の第二病院にあった精神神経科に行きました。まだ神経内科という科がない時代でした。
 診察の為に呼ばれると、その時ちょうど発作が起こり、それを見た、当時の院長先生、なんと小樽シオン教会員の小林先生は病名が分かったみたいで、検査をして暫定的に薬を出して下さった後、珍しい病気だから発作のビデオや脳波などを病気の治療の進展のために協力してくれるなら、官費で入院できる、ということで、夏休み一か月ほど入院しました。その結果、薬を毎日一錠飲むことにより発作は緩和されました。
 てんかんは、他人には分からない苦しみがあります。そのてんかんは古代は悪霊が取りついたためと考えていたようです。弟子たちが悪魔を追い出せなかったので、主イエスに頼ったということです。主イエスは子を癒やされます。その後、弟子の何故出来なかったのでしょうか、という言葉に応えます。信仰が薄いからだ、という厳しいものでした。からし種一粒程の信仰があれば、不可能と思われることも必ず行うことが出来る、と主イエスは弟子たちに教えたのです。
 

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26/03/22(日)礼拝説教
旧約詩2編7-9、新約マタイ福音書17:1-13
「変貌山の出来事」

 

 主イエスが十字架と復活を弟子たちに教えてから六日後に、主イエスはペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られました。山は神様がいらっしゃる場所として古から認識されていました。これに加えて、今は天と地を支配される神の御子主イエスがいらっしゃいますから、高い山は天上界と地上界の接点となる場所です。
 ここで主イエスは、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったと記されます。太陽の様に輝く、白くなるというのは神的な存在を表す意味で、ここでは主イエスは地上界で隠されている神の御子という事実が覆い隠されずに現されていることを示します。
 そして、ここに、モーセとエリヤが現れました。モーセは律法を、エリヤは預言者を表す存在です。この二人の位置づけを神の御子である主イエスは継承し、成就されるということを意味するのでしょう。
 そして光り輝く雲が主イエスと弟子たちを覆うと、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。これは明らかに主イエスの父、神の声です。しかし、シナイ山で神の声が雷の声に聞こえた様に、人間には恐ろしい声・音に聞こえるのでしょう。弟子たちは畏れ、ひれ伏しました。弟子たちには、大変驚く出来事であり、また、過日ペトロが主イエスを神の御子であると告白したことが真実であることが証しされたことになります。
 主イエスは、今見たことは、人の子が死者の中から復活するまで誰にも話してはならない、と命じられました。裏を返せば、復活の後は、主イエスの正体を人々に証して良い、ということです。ただ宣教活動はそれまで待たなければならない、という主イエスの指示なのです。なぜなら、十字架が確実に起きるようにするためです。
 

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26/03/15(日)礼拝説教
旧約詩42編2-4、新約マタイ福音書16:13-28
「ペトロ信仰をあらわす」

 

 本日の聖書箇所の前半、ペトロが主イエスを神の子と信仰を告白する部分は、「主イエスとは何者か?」という問いに答える部分となっています。しかし、マタイ福音書をここまで読んだ人は、ここまで福音書に記されていることを通して、主イエスが神の子であることを理解しています。しかし、弟子たちにとって、この主イエスが神の子である、ということはまだ確信が与えられていることではありませんでした。この弟子たちにとって大切なことを、主イエスは一番弟子のペトロと問答をするという形で明らかにするのです。主イエスは弟子たちに問います。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」。これに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのはペトロでした。これはペトロが弟子を代表した言葉であり、弟子たち全員がこの認識に達していたということです。その意味では、この聖書箇所はマタイ福音書の中心とも言える重要な個所です。
 17節以降では主イエスはペトロを褒めます。しかし、ペトロにこのことを表したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ、という釘を刺すことも忘れません。信仰は与えられるものであって、自分の努力で獲得するものではないからです。ここの部分は私たちも十分に注意する必要があります。
 そして、陰府の力に対抗するためにペトロ(ペトラは岩でその複数形がペトロ)を土台として教会を立てると主イエスは宣言されます。そして、ペトロには天の国の鍵を預けると言われます。
 復活した主イエスが共にいる教会は、陰府(死の世界)が支配する場所に対して命の世界であり、ペトロが受ける鍵はその世界への入り口となります。
 

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