今回紹介する記事は
2023年5月28日付けの
 
「朝日新聞」の記事です。
  
【週刊朝日 独自路線貫き101年で幕 異色の“ほんわか”編集「ある種の奇跡」 山藤流政治ネタ「大人をニヤリ、憧れた」】


というタイトルで、
「週刊朝日」が読者舎出版界にとってどんな存在だったのかについて、
紹介しています。

いつもどおり、
「4つ」の視点でこの記事を見ていきます。
 
(4つの視点についてはこちらをご覧ください)

 ☆新聞記事の紹介について

(発信者が重視するテーマに関してはこちらをご覧ください)

始めに読んでほしいブログについて


(1)内容の要約

 前身である「旬刊朝日」を朝日新聞所が創刊したのは1922年2月。

同年4月には月3回の旬刊から週刊へと移行し、
名前も「週刊朝日」と改めた。

 1948年、
太宰治と入水心中した山崎富栄の日記をスクープし、
大きな話題となる。

当時の週刊誌業界は寡占状態で、
1950年代には150万部の発行部数を記録したこともあった。

だが、
1950年代後半には各出版社が続々と週刊誌に参入。

群雄割拠のスクープ合戦が始まる。

 後発の出版者系週刊誌が過激なスキャンダルで勝負を仕掛けるなか、
週刊朝日は抑制的な編集方針を貫いた。

「家庭で読まれる週刊誌」として親しまれた。

 「週刊誌の中でも別ジャンルという感じで、
率直に言ってライバルとして意識したことはなった」。

講談社で「FRIDAY」や「週刊現代」の編集長を歴任し、
「ヘアヌード」という言葉の生みの親として知られる元木昌彦氏は話す。

 「週刊朝日のようなほんわかとした週刊誌を発行できたのは、
ある種奇跡だった」

 そんな週刊朝日の強みのひとつが、
充実した文芸企画だ。

1950年の懸賞「百万人の小説」の入選をきっかけにデビューした松本清張は、
後に、
「週刊朝日は、
作家としての私の生みの親でもある」
と語っている。

吉川英治の連載小説「新・平家物語」がスタート。

定期的な原稿料収入で作家を支える習慣連載というシステムは、
当時の文芸界では画期的だった。

 1951年には日本の週刊誌で初めての本格的な書評欄と言われる「週刊図書館」が始まる。

1971年から1996年まで連載した「街道をゆく」は、
司馬遼太郎のライフワークとなった。

 イラストレーター山藤章二が1976年から2021年まで連載した巻末グラビア「ブラック・アングル」は、
権力者や有名人のカリカチュアで人気を博した。

時事芸人・プチ鹿島氏にとって、
「ブラック・アングル」はユーモアを楽しむ原点だという。

 「政治家をネタにして大人をニヤリと笑わせる表現に憧れた。

週刊文春などに比べると週刊朝日は良くも悪くもお上品だったけれど、
政治をサラッと扱う距離感は今も好きである」

 「週刊誌の面白さは、
コーヒーやお酒と同じ嗜好品。

必要ないと思う人もいるだろうけど、
1日3食だけ取っていれば良いかというと、
そうではないではないか」

 西原理恵子と神足裕司の「恨ミシュラン」、
ナンシー関の「小耳にはさもう」―。

1990年代前半には人気連載が続々誕生した。

「サブカルっぽい編集の妙が週刊文春なら、
週刊朝日は粋で知的なおじさんたちの遊び場をのぞいているようなムードだった」。

当時から週刊誌好きの学生だったという週刊朝日の渡部薫編集長はそう懐かしむ。

 1990年代後半から週刊誌市場全体が縮小の一途をたどり、
1995年に約40万部だった平均発行部数は、
今年4月には8万2875部になっていた。

「週刊朝日は良質な読者に支えられてきた。

それだけに、
101年という歴史を終わらせてしまうのが本当に申し訳ない」

 最終号の表紙には、
在りし日の編集部をイメージした写真をあしらった。

雑多だが活気にあふれていたあの頃を惜しみつつ、
最後のどんちゃん騒ぎを繰り広げる。


(2)なぜこの記事を切り抜いたか    

週刊朝日について、
紹介した記事のため。


(3)自分はどう思うか?

「週刊朝日」が廃刊となった。

学生時代、
図書館で毎週のように読んでいたことを思い出す。

抑制的な編集方針、
家庭で読まれる週刊誌、
ブラックアングル…。

また一つ、
貴重な雑誌が廃刊したことが惜しまれる。


(4)今後、どうするか?    

・週刊誌に関する記事をスクラップする。

・週刊朝日に関心を持つ。

・雑誌を読む。


…今回も自分の勉強がてら、
まとめてみました。
  

また一つ、
貴重な雑誌が消えてしまったと思うと、
残念でなりません。


皆さんも、
週刊誌を読みましょう。

新聞に書かれない情報の宝庫が、
雑誌にもあるからです。