今回紹介する記事は
2021年7月8日付けの
     
「朝日新聞」の記事です。
      
【デジタル化の「恵沢」 自由と権力 再考のとき】

 


    
というタイトルで、
名古屋大学教授松尾陽氏が、
自由も権力も、
ヒトとモノとのバランスで成り立つことについて、
紹介しております。

いつもどおり、
「4つ」の視点でこの記事を見ています。
 
(4つの視点についてはこちらをご覧ください)

  ☆新聞記事の紹介について

(発信者が重視するテーマに関してはこちらをご覧ください)

始めに読んでほしいブログについて


(1)内容の要約

 過去の自分を思い出そうとする時、
スマートフォンの中にある写真を探ってみるようになった。

旅先の記録、
おいしかったワインの銘柄などの写真が並ぶ。

インターネット上に自動的保存され、
スマホが壊れても残り続ける。

ネットの方が正確に、
また、
(人間の肉体がやがて死を迎えることを思えば)長期に、
「私」を記憶しているかもしれない。

 情報技術は急速な発展を遂げた。

仮にあなたがスマホを持っていないとしても、
社会はあなたを何らかのシステムに記録する。

方法技術がさほど発達していない時代でも、
そのようなことはなされていた。

しかし、
現在では、
人の能力をはるかに超えたデータの蓄積と処理が、
可能になっている。

 このようなことの推進が、
「デジタル化」と呼ばれる。

菅義偉は、
2020年10月の所信表明演説で、
デジタル化をさらに推進する方向性を示し、
2021年9月1日からデジタル庁が発足する。

デジタル社会形成基本法には、
デジタル化の理念が、
「情報通信技術の恵沢をあまねく享受できる社会」
を実現することだと規定されている。

日本国憲法の前文には、
「自由のもたらす恵沢」
という文言がある。

このデジタル化の理念においては、
自由が情報通信技術に置き換わり、
その恵沢があまねく行き渡ることが目指される。

 戦後まもなく作られた日本国憲法は、
デジタル社会の到来を念頭に置いているとは言えない。

一方で、
個人の自由という憲法的な価値を維持する方法、
他方で、
権力を適切にコントロールする方法を再考することが迫られている。

 自由は、
伝統的には、
他者からの不干渉だと定義されてきた。

憲法上は、
その他者は、
国家権力のことを指す。

 デジタル化はその地位をさらに揺るがす。

というのも、
冒頭の例が示すように、
デジタル化によって、
我々にとって多くの活動がますます情報技術と融合されていくからだ。

 自由は、
ヒトとモノとのバランスで成り立っていることを認識することが必要だ。

 モノには、
情報技術など、
我々の活動を可能にする環境が含まれる。

このことは、
バリアフリーをめぐる議論を見れば、
よく理解できる。

 「情報通信技術の恵沢」が、
あまねく享受されるためには、
人びとが多様であることを前提にしたうえで、
自由がヒトとモノとの関係によって成立していることをより強く認識する必要がある。

 他方で、
デジタル化の流れで監視社会が強化されるという懸念もある。

ただ、
監視のイメージには注意が必要だ。

監視社会といえば、
ジョージ・オーウェルのディストピア小説「1984年」のビッグ・ブラザーをイメージする人が、
少なからずいる。

少数の権力者が人々を管理する社会のイメージだ。

このような監視は、
19世紀イギリスの哲学者ベンサムにならって、
「パノプティコン(一望監視装置)」
とも呼ばれる。

 しかし、
現代の監視社会をこのようなイメージのみでとらえるのは、
間違いだ。

まず、
多数の者が少数の者を監視する
「シノプティコン」
の側面もある。

テレビで国民が国会の生中継を見ているのが、
その典型である。

次に、
多数の者が多数を監視する
「オムニプティコン」
の側面もある。

スマホを持ち歩き、
何か事件があれば写真を撮り、
ネットにアップし、
多数の者が見てコメントする。

オムニプティコンとは、
いわば監視社会の遍在化のことだ。

 少数が多数を(パノプティコン)、
多数が少数を(シノプティコン)、
多数が多数を(オムニプティコン)-、
情報技術が発達した時代における監視のあり方は多様である。

 このように監視には、
権力からの監視のみならず、
権力への監視も含まれる。

ネット上の誹謗中傷で情報技術を敵視し、
ネット上の言論を厳しく規制しようとする議論がみられる。

情報技術は、
他者を傷つける新しい道具となっていることも確かだが、
同時に、
権力を監視するツールであることも忘れてはならない。

 自由も権力も、
ヒトとモノとのバランスで成り立つ。

情報技術の発達がもたらす、
バランスという変化の内実を見極めることが重要である。


(2)なぜこの記事を切り抜いたか    

監視のあり方が多様であることに関して、
紹介された記事のため。


(3)自分はどう思うか?

菅義偉がやった功績って何?

そう言われると、
携帯電話料金値下げくらいしか思い浮かばない。

デジタル庁設置を功績と述べる専門家はいるのだが、
その弊害を全く分かっていないことの証明である。

日本国憲法前文において、
「自由のもたららす恵沢」という文言がどこにあるかというと、

日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて「自由のもたらす恵沢」を確保し…

と間違いなく冒頭ににあった。

自由も権力も、
ヒトとモノとのバランスで成り立っていることを認識することが必要である、
という言葉は重い。

ジョージ・オーウェルのディストピア小説「1984年」、
奇しくもその年生まれの自分は、
何の因果があるのだろうか。

「一望監視装置」であるパノプティコン(少数が少数を)は、
聞いたことがある。

テレビで国民が国会の生中継を見るシノプティコン(多数が少数を)は、
自民党広報局に成り下がったNHKは放送自体テレビでまともにしない上に、
インターネットで国会中継を視聴もしないのに、
野党は仕事をしないとほざく自(分棄)民党工作員やネトサポ(ネトウヨ)、
加えて専門家と崇められるえせジャーナリストが跋扈するため、
まともに機能していないのではないか。

安倍晋三街頭演説にヤジを飛ばした一般市民に対して、
令和特別高等警察と化した北海道警察の暴挙を証拠として残し、
ネット上に拡散したことで、
コメントをした人たちの一連の行為は、
オムニプティコン(多数が多数を)であり、
ある一定の機能はしているかもしれない。

情報技術は他者を傷つける新しい道具となる反面、
権力を監視するツールであることをわすれてはいけない。

この言葉は万物において、
通じることを肝に銘じる。


(4)今後、どうするか?

・松尾陽氏の記事をスクラップする。

・監視のあり方が多様であることを知っておく。

・自由も権力もヒトとモノとのバランスで成り立つことを忘れない。


…今回も自分の勉強がてら、
まとめてみました。

松尾陽氏の記事は、
以前も紹介しました。

日本国憲法前文における「自由のもたらす恵沢」は、
再考する必要があると思われます。


皆さんも、
監視社会の多様性に関心を持って下さい。

オムニプティコンが日常化する今、
シノプティコンの重要性や、
パノプティコンの恐ろしさを忘れないでいただきたいです。