今回の音の履歴は日本のプロテストソングについて

 

 

プロテストソングというと、

政治的抗議を内容としてもっている歌、

特にフォークソング系の歌だった。

1960年代の後半に学生運動や市民運藤の

高揚と共に日本でも盛んに歌われていた。

 

実は私がプロテストソングを知ったのは

70年代に入ってから。

やはり高校生になり、政治意識の先鋭な

同級生たちからの影響が大きい。

 

その頃多くのフォークシンガーに影響を与えていたのが

ボブ・ディランだった。

たぶんほとんどのフォークをやっていた人たちが

彼の洗礼を受けていると思う。

そこで、まずはボブ・ディランの曲を。

 

『Like A Rolling Stone』

 

1965年に作られた。
 

    Like A Rolling Stone

 

ここでディランはエレキギターを

持って歌っている。

ディランがフォークからロックに

転身した頃だった。

フォークのサイドからは

「裏切者」という声もあがった。

それでも、彼は自分の思いのままに

歌い続けた。

そして、世界的にプロテストソングを

牽引し続けた。チョキ

 

 

そのボブ・ディランの曲に

圧倒的な影響を受けて作られたのが、

 

『それで自由になったのかい』

 

岡林信康の曲だった。

 

    それで自由になったのかい

 

曲を聴けば分かるが、これは

岡林のLike A Rolling Stone』だった。

岡林信康もそれまでは、ギターを片手に

『友よ』や『手紙』等の名曲を

生み出していた。

バックの演奏は「はっぴいえんど」。

和製のロックを求めていた。

当時の全共闘等の学生に

圧倒的な支持を得ていた。

しかし、岡林は次第にそのような自分

ある方向に方向づけられた歌に

嫌気がさしていく。

「教祖」であった彼は、それを捨てることになる。びっくり

 

 

もう一人、この頃の日本のプロテストソングに

大きな力をもっていた人物がいた。

 

『死んだ男の残したものは』

 

歌っているのは、高石ともや。

作詞は谷川俊太郎、作曲は武満徹。

 

    死んだ男の残したものは

 

これは明確にベトナム戦争に対する

反戦の意志を示す歌だ。

高石ともやは他にも
ボブ・ディランやピート・シーガーの歌を

日本語に訳して歌っていた。

高石ともやこそが、

いわゆる関西フォークと呼ばれた

プロテストソングを歌う人たちの

中心にいた人物だった。

高石音楽事務所には先の

岡林信康らも所属し、

彼らの活動拠点ともなっていた。

が、しかし、高石ともやもまた

舞台の上で、その商業主義路線を

学生に直接批判されたりして、

次第に自分の音楽に疲弊していくことになる。びっくり

 

 

プロテストソングになるのか微妙だけれど、

大変有名になった曲。

 

『遠い世界に』

 

その頃を生きていた若者皆が知っていた。

歌っていたのは「五つの赤い風船」。

 

    遠い世界に

 

五つの赤い風船も、高石音楽事務所に所属していた。

中心となったのは、西岡たかし。

ほとんどの歌は西岡の作詞・作曲。

メロディーやコーラスが

独特の雰囲気を作り出していた。

またこの歌でも使われている

オートハープや、リコーダー等の楽器を

非常にうまく使っていた。

ちなみにこの映像の「中津川フォークジャンボリー」は

1969年から71年まで3年、3回行われた

岐阜県中津川市で行われた

フォークソングのフェスティバル。

当時の有名なフォークシンガーが

ほとんど参加していた。ニヤリ

 

なんと、私の通っていた高校では

文化祭で五つの赤い風船を呼んで

コンサートを行った。

『血まみれの鳩』や『まぼろしの翼と共に』等が

今も耳に残っている。ハート

 

 

さて、今回の最後に

極めつけのプロテストソング

 

『教訓Ⅰ』

 

加川良の作品。

 

    教訓Ⅰ

 

加川良は、上記第2回中津川フォークジャンボリーに

飛び入りで参加し、この『教訓Ⅰ』を歌い、

一躍有名になってしまったという。

上記の人たちの一世代後のシンガーだが、

その後もこの路線は変更されず、

まさにプロテストソングを継承していく。

『教訓Ⅰ』は福島原発事故の時にも、

集団的自衛権行使を決めた時にも、

加川良は新しい思いをこめて歌った。口笛

 

吉田拓郎に『加川良の手紙』という曲がある。

吉田拓郎がメジャーになっていくのに対し、

加川良はあくまでマイナーながら

自己の歌に忠実であり続けた。

この辺りが日本のフォークの

分岐点でもあったのだろう。チョキ