大きな騒ぎになってますね、兵庫県知事のパワハラ・おねだり・不正疑惑。毎日のように彼の記者会見や尋問が報道されていますが、私が気になっているのは「私の認識としましては」という、もう何百回も繰り返されてきたセリフです。

 

 「認識」という言葉は、基本的に「事実認識」を意味します。つまり、ある人物Sがある事実AをAとして記述しうるような認知的状態にある場合に、「SはAを認識している」と言われうるわけです。

 そしてもう一つ、重要なことは「事実認識」においては「真または偽」のどちらかしか存在せず、したがってあるものがAであるならば、それはA以外の何ものでもなく、例えば「見方によってはAでもBでもありうる」とか、「見る人によってAであるかどうかの認識が変わりうる」ということはない、という点です。つまり「認識」という言葉は非常に客観性の高い認知的状態を指しており、そこには思想信条、宗教や文化による相対的・主観的な要素は入り込んではいけない、という点は、認識が本来の意味における認識であるための必要不可欠な条件なのです。

 

 ですから、例えば「車止めから先は進入禁止であるということを知らなかった」のは「認識していなかった」ということであって、「当時の私の認識としては、車止めは便宜上そこに置いてあるものだと思っていました」という表現は、あまりにも粗雑で「認識」という言葉の本来の意味を逸脱しています。要するに、本来は客観的であるべき「認識」に個人的な感想を不正に導入しているわけです。

 正確に表現するならば、彼の「認識」は単なる「思い込み」であり、さらに正確に言えば「誤った主観的な思い込み」であった、ということになります。

 

 そこで知事の発言を以下のように訂正したい。「私は車止めから先は進入禁止であることを認識していませんでした。当時は車止めが便宜上置かれているものだと誤って思い込んでいました。」

 このように訂正すれば、責任の所在が明確になりますね、つまり、事実認識を怠り、誤った思い込みに基づいて自己利益にかなうようにルールを曲げた知事その人こそ、責められるべき存在であろう、ということです。

 彼の言う「私の認識」はすべて「私の誤った思い込み」に変換すると、正しい日本語の使い方になります。これから兵庫県知事の会見や尋問をご覧になる方は、どうぞお試しください。彼が何を言っているのか、非常にクリアーになります。

 

 パワハラに関しても「私の認識としては通常の業務の範囲内での叱責だった」→「私は通常の業務の範囲内での叱責だと誤って思い込んでいました」、公益通報についても「当時の私の認識としては公益通報には当たらない」→「当時の私は公益通報には当たらないと誤って思い込んでいました」と変換すれば、万人が納得する答弁になりますよね。

 

 ついでに言うと、これも彼が呪文のように繰り返している「県政を前に進めることが私の責務」という表現ですが、これも現在、世界で一番、兵庫県の県政を停滞ないし後退させているのは誰でしょう、という根本的な問いを無視している点で、彼の「認識」とやらの怪しさがよく分かるというものです。

 

 まあ、出身大学と知性の間には厳密な相関性はない、という貴重な教訓を与えてくれている、という意味では、彼は日本人の価値観の健全化に貢献しているといえるでしょう。兵庫県の職員や兵庫県民にしてみればいい迷惑ですけれどね。