「回文俳句」という空前絶後の芸術を編み出してからすでに一か月以上が経過した。

 最初、ふとした思いつきから「島涼み 浮かび飛び交う 水すまし」ができたので、回文を俳句にするのはまあ通常の回文より多少難易度が高くなるぐらいだろう、と思っていたが、それは私の大いなる勘違いであった。

 とにかく、難しい。頭と尻尾の5音はそれぞれ独立して意味をなしていなければならず、しかも両者は回文関係になければならない。そして、真ん中の7音はそれ自体で回文を形成していなければならない。さらに、「俳句」を名乗る以上、季語をどこかに入れるという制約が加わるため、さらに困難さに拍車がかかるのだ。

 そんなわけでこの一か月、私は文字通り呻吟しながら産みの苦しみを味わってきた。そんなことにのめり込む暇があるなら研究者らしく論文でも書いたらどうだ、という声が聞こえてきそうだが、それはその通りであるにせよ芸術とは呪いにも似ていて、いったんとりつかれたら最後、逃れられないのだ。だから萩原朔太郎、石川啄木、中原中也など多くの詩人、歌人は社会不適合の人間のクズであり、かつ偉大な芸術家なのである。人間のクズであることは、芸術に身をささげた者が払う必然的な代償なのだ。彼らを責めてはならない。たとえ、友人の飲み屋に中原中也が毎日入り浸って飲んだくれて金も払わず、しかも新しい客が入ってくると誰彼の別なしにケンカを吹っ掛けるため、誰も寄りつかなくなって最後には店がつぶれてしまったとしても、である。

 

 草ぞ舞い 那覇の菜の花 今ぞ咲く

 

 いかがだろうか。これが記念すべき第二句である。季語は言うまでもなく「菜の花」。冒頭で風にそよぐ草を描き春の訪れを予感させる、そして那覇の菜の花畑では今こそ花が咲いているだろう、と遠い沖縄の地に思いを馳せることで結ぶ。

 そしてもう一つ、この句には裏の意味がある。皆さんご存知の通り、かつて沖縄は戦場になり、多くの島民が犠牲となった。その、地獄の沖縄戦はまさに春に行われたのであり、その年の沖縄は日米両軍の砲火で大地が裂けんばかりの様相を呈したため、春風がそよぐ畑に菜の花が咲き乱れる光景など絶対に見られなかったであろう。

 「今ぞ」と強調が入っているのは、この点を指している。あの戦争から80年近くがたった今でも地球上では人類同士が戦い、互いに命を奪い合っている。沖縄には平和が訪れたが、今でも米軍の基地が多数存在し、日本でありながら極東に展開する米軍の橋頭保となっている。「今ぞ咲く」という結びの中には、そのような理不尽さに対する思いが込められているのである。

 

 それではまた、いつの日か。