田宮虎彦の文庫本です。彼の場合、著作集や全集が出ているので、厳密には「珍しい」本とは言えないかもしれません。しかし、文庫本はことごとく絶版状態ですので、この三冊は古本屋めぐりで見つけたものです。なにぶん古い本なので、ボロボロです。

 

 田宮虎彦はある意味、とても中毒性の高い作家です。この人の作品はとにかく暗い、主人公が幸せになるエンディングは皆無、だいたい悲惨な死を遂げて終わります。

 

 「幼女の声」という作品が有名です。この作品は、主人公の女の子が戦争直後の極度の混乱の中、朝鮮半島から日本に逃げ帰るお話なんですが、主人公の母と姉が相次いで死に、命からがら日本に帰国した後に小さな弟が死んでしまいます。それでも「主人公が生きているからいい方」なんですよ。

 

 私が好きな「小さな赤い花」なんて、主人公の少年は父親に虐待され、母親が死に、父親の愛人宅にネグレクト状態で置かれ、怪しげな孤児院に入れられ、最後は死んでしまいます。最悪です。

 

 しかも、最後に少年は「家から迎えが来る」と聞いて怖い父親が来る、と思い込んで孤児院を逃げ出して、懐かしいお母さんの幻影を追いかけて沼に入って溺れ死ぬんですが、実は迎えに来たのはお母さんのお父さん、つまり「お祖父さん」であり、お祖父さんの家は少年を温かく迎え入れてくれた唯一の「家族」だった、というところが哀切極まります。幸せになれたのに、という読後感がいつまでも重く心にのしかかって消えません。

 

 ちなみに、「小さな赤い花」にはショートバージョンがありますが、これはロングバージョンの中盤に出てくるエピソードで、全体の中では最も明るい内容ですが、それでも暗い。

 

 代表作の「足摺岬」も暗い内容ですが、この作中に出てくる「遍路の老人」は、田宮虎彦作品の中で重要な地位を占めています。というのも、田宮虎彦の著作の中には「黒菅物」と呼ばれる連作があるんですが、この「遍路の老人」は黒菅藩の生き残りなんですね。

 

 「足摺岬」の主人公は、生きることに疲れ果てた苦学生です。田宮虎彦自身、父親に疎まれて学費を止められたりして苦労しながら大学を出た経緯があるため、作者自身を濃厚に思わせるリアルな設定です。一方、「黒菅藩」は戊辰戦争で政府軍と戦って一藩ことごとく討ち死にした架空の存在ですから、この「遍路の老人」はフィクションです。

 

 リアルとフィクションが作品の中で交差するという構成は、巧妙な計算によって成立しているんですが、そのために「遍路の老人」が実在するかのような、あるいは突然リアルからフィクションの世界に引き込まれたような効果を発揮しています。

 

 私はこの「足摺岬」をきっかけに「黒菅物」を集め始めたんですが、これもまた暗い。まあ、滅亡した藩を描いた連作なので、明るいわけはないんですが、せめて心和むエピソードの一つぐらいないんかい!と言いたくなるほど、徹底して悲惨です。

 

 黒菅藩は東北の小藩ですが、周辺の諸藩が次々に新政府に恭順していく流れに逆らい、ただ一藩、抗戦の準備を整えます。しかし新式銃を装備した新政府軍の兵士に対し、火縄銃と弓矢では相手になりません。領内の住民も新政府軍に協力し、四面楚歌に陥ったあげく、次々に陣が破られ、ついに黒菅城の天守に火がかけられ燃えさかる中、藩主の山中重治をはじめ、藩士とその家族がすべて自害して果てる、という内容が、家老の山中陸奥を中心に描かれたのが「落城」で、その前後に「霧の中」「末期の水」など、いくつかの作品群が配置されています。

 

 しかし、黒菅藩が戦って滅亡するまでの経緯が問題で、山中陸奥の采配でいったんは恭順と決まった評定に反対する主戦派が新政府軍の使者を斬ってしまう裏切り行為、戦いの最中に背後から部下に矢で射殺される近習頭、鈴木主税の人徳のなさ、和平派の重役を襲撃するクーデターまがいの行為で藩を戦争に巻き込んだ主戦派の筆頭でありながら、決戦(つまり落城)の前夜に逃亡する藩の剣術指南役、山崎剛太郎の卑劣さ。

 

 他にも、最初は「三河以来の恩顧に報いる」などと気負い立って主戦派を焚きつけておきながら、戦況を目の当たりにして山中陸奥に泣きつく藩主、山中重治の姿など、少しも勇敢なところや潔いところがない。黒菅藩および藩士一同はただ、時流を見誤って自滅していく愚かな集団として淡々と描かれていきます。この「淡々と」したところがまた不気味で、重苦しい読後感がいつまでも消えません

 

 この「いつまでも消えない重苦しい読後感」が中毒性を持っているんですね。一度はまると病みつきになり、田宮虎彦が作り出す、カタルシスのない暗く悲しい世界に浸らないと落ち着かなくなってしまう。私はこういう作家を他に知りません。そういう意味では唯一無二ですね。

 

 田宮と彦作品の中で、私が知るかぎり最もハッピーエンドと言えるのが「崖の上の木」です。主人公は「父親に虐待された孤独な男」建象、そしてもう一人の主要人物が「主人公の兄の娘=姪」の久子です。主人公の健象は兄を溺愛し自分を虐待する父のもとで育ち、人と相容れることのできない偏屈な人間に成長し、生きていくのに苦労します。しかし、田宮作品としては珍しく、「50近くにもなって、小さな私立大学の講師に拾われ」ます。安定した生活を送っている主人公、というだけでも珍現象と言えるほど、他の田宮作品では誰もが沈みかけているんですね。

 

 一方、姪の久子は母親に疎まれ、結婚を約束した男に裏切られ(というより騙され)、行方知れずになってしまう、という悲惨さ、こちらが田宮作品としてはむしろ標準ですが、健象は自分が父に虐待され、兄が溺愛されるという歪んだ過去にもかかわらず兄と仲が良く、アル中で死んだ(これもけっこう悲惨です)兄に代わって姪の久子を守っていこうと決意します。

 

 父との間にはなかった愛情が兄との間にはあった、ということが健象を救っています。久子健象にとって「唯一の肉親」なんですね。だから彼は久子を守ろうとしますが、そのやり方が分からないため、読んでいてももどかしいほどに二人の間には親密さが育ちません。

 

 この、他者と分かり合うことのなかった不器用な男と、誰にも愛される経験を持たない薄幸の女が徐々に距離を縮めていくプロセス、そして行方知れずになった姪を探し当ててたずねて行った健象と久子の再開シーン、最後の場面で心を通わせ合った二人が交わす会話、これが泣けるんですね。誰にも助けられることなく転落していく不幸な登場人物を見慣れすぎているために、どう考えてもそんなに幸せでもない二人が、ものすごく幸せで満ち足りたように見えてしまう一種の魔術。これも田宮虎彦のテクニックだとすれば、完全に私は彼の術中にはまっているわけです。

 

 「父親に憎まれ、疎まれる子供」という設定は、田宮虎彦作品の中に繰り返し登場します。実際に父との不仲に苦しんだ田宮虎彦は、忌まわしい過去を小説に書くことで自分の魂を救済していたのでしょう。重く悲しくただただ暗い田宮虎彦の作品世界が、それでもどこかに繊細な美しさを隠し持っているのは、「作品によって作者が救われる」過程を読者も共有できるからかもしれません。

 

 どんな人生の中にも輝きがある、私の人生にだってあると思いたい(笑)

 

 今日も輝きを求めて頑張りましょう。

 

 May the force be with us all.