また、同年代(40代)の知人が悪性腫瘍で逝った。これで何人目だろうか。

●●さん、きっと最後まで良く頑張られたんだと思います。

御家族、特に御両親の心痛、想像すらできません。

しかし、もう、●●さんは痛みから解放されたはず。

どうぞ速やかに後生は善き所にお生まれください。祈ります。本当にやりきれない。


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悪性腫瘍は。もちろん、高齢者の病気ではないとはいうものの、

やりきれない。「悪性腫瘍は決して珍しい病気ではない」というのは疫学上の、

数字の話だ。家族、本人にとって、唯一無二の体験であることは変わらない。


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宗教者の荒行は、死に臨むものだとか、死に切ることだ、という。

若い宗教者はそういうことを誇らしげに言う。

生死の苦しみを味わいたいならば、悪性腫瘍になるといい。

毎日、「死」のボディーブローを食らい続ける体験を味わえる。

そうして生きる意味を考えさせられる。これほどの修行を強いられている。


住職資格を取るためとか、宗教者としての自分を高めたいとか、そういう動機ではなく。

ただ、突然そういう境遇に追いやられて、唯ひたすら死と、死を...通して、生を見つめる毎日。


そうして、悪性腫瘍が進行するにしたがって癌性疼痛が強まり、ココロが蝕まれていくのに、

医療関係者には「痛みはコントロールできますよ♪」などと言われる。

その痛みは、ココロの痛みなのに。
どうにか生還後しても、再発を心のどこかでちりちり感じる毎日は、

生死一如を理論ではなく肉体に叩きつける。この苦しみには意味がある。


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先ほど、悪性腫瘍が進行している女性からメールをいただく。

「ついに抗がん剤です」「今度会うときは太田さんみたいに頭つるつるです」。

その冗談は、第三者に笑って欲しいためのものではない。御自分を明るくするための冗談だ。
■■さんのココロと身体の痛みが少しでも軽くなりますように、祈念します。

跡数時間で夜が明ける。今朝の祈りは、すべてのがん患者の痛みの軽減にします。



■対人援助時の「無言」について■
教科書的には、「お相手が考えを整理する時間」といわれます。

だから「無言ではあっても無視ではない」とされ、無言の「間」はとても大事です。

無言の間(ま)の中に、こちらとお相手の間(はざま)で無言の対話が成り立っているとも言えます。


こちらに胆力がないときは、お相手の「無言」を停止させてしまいます。

すると、そこで言葉を超えた部分での「対話」は途切れます。


傾聴は、「ひたすら聴く」といわれますが、私はそれは違うと思っています

(姿勢としては、まさにその通りdと思いますけれども)。

言語的にはそうかもしれませんが、メタ言語というか非言語レベルでの対話です。

...

外国語に接するとき、逐語で理解できなくても(理解できないからこそ)、

お相手の言わんとしていることに感覚を澄ませば、

お相手の感情に直接リンクするような状況になります。

これも、「メタ言語の傾聴」ではないでしょうか。


私などペーペーで学びは浅いですが、断片的に接する釈尊の”語”録から推察するに、

釈尊は、この「無言」と「無視」の違いを自覚されており、

「非言語コミュニケーション」の達人だったのではないか、と。

道元禅師もそうですが、祖師方の偉大さは、

現代の対人援助の現場でも実感するところ大です。


日々是精進。今日も一日、頑張ります。

大乗仏教では二項対立を超えよ、
という。善がどうの、悪がどうのではなく、基本的考え方として。
そういった善悪なる対立概念から離れた境地を目指す。

悪を論ずるな、ただ憐れむべし、ともいう。しかし、どすグロい悪に、心が張り裂けそうだ。神戸市の事件。なぜこんな痛ましいことが起こるのか。殺される前、どれだけ怖い思いをしたことだろう。

...

犯人はなぜ、遺体を切断したのか。それは必然なのか。警察は、こういう鬼畜をどうして見抜けなかったのか。

普段、わたしは『全てのことが必然』などとしたり顔で謳っているが、この事件を前にしても、災害を前にしても、そんなことが言えるのか。

もちろん、そう思う。仏教って、ときに耳触りよくない。つまみ食いして、耳触りのよいことだけ御開陳するなら、それはもう淫祠邪教だ。



もちろん、このようなことは、自発的に発言する気はないのだが。


長田区の空き地という報道ですぐに震災を連想した。20年たっても、地域に傷跡を残している。

ともかく、今朝は彼女のために祈ります。身を切り刻まれる痛み、わたしになど、わからない。わかるわけがない。でも、その痛みに思いを馳せるべし。

なんて爽やかな秋の朝なんだ。これが世界の理法なのか。


おんかかか びさんまえい そわか。
おんかかか びさんまえい そわか。
おんかかか びさんまえい そわか。

南無地蔵菩薩様
我等の他に鬼畜がいるのではない。わたしは私と鬼畜を二項対立させない。みな、心に鬼畜を宿す。どうか我等を憐れみたまえ



生命の根源的な領域に踏み込むと、満たされながら吸い取られてゆく。どうしようもなく、町に戻るのが嫌になる。誤魔化すために、飲んでいる。宗教は万能薬ではないのです。


仙台にて