知人が書いた本なので、まずモームの著書を数冊読んでから本書を開くことにした。もちろん和訳で読む。これが滝沢馬琴とか井原西鶴だったら原文を読むかと言えば、やはり用語解説付きの現代語訳を読むような気がする。

何しろ、小説には「二つの歴史」という壁がある。一つは、書かれている内容が古びていくこと。例えば、ミステリーでも「DNA鑑定」とか「携帯電話」とかあればこんな事件は起きないだろうとか、鉄道を乗り換えるトリックでも現代ではバスの時刻や電車の何号車に乗ればいいとか指示され、スマホの電池切れに伴い都会でも大人の迷子になったりする。シェークスピアの「ロメオとジュリエット」でも、恋人同士でも相手が自殺したと勘違いして後追い自殺してしまうというクライマックスのところでも、携帯以前の世界を知らない世代(Z世代?)が読むと、「何で計画の概略をお互いに確認しないのだろう。方法は色々あるのに。」ということになる。
もう一つは、作家の心理。作家は(いまのところ)人間なので、その常識や心理については同時代の人間の域を出ない。核時代の人類とかLGBTQへの考え方とか奴隷制とか人種差別とか、現代とはいささか異なる。また本を書く以上、読んでくれる読者にある程度合わせる必要がある(特にモームは本の売れ行き、つまり自分の収入にこだわりがあった)。
ということで、大流行作家だったモームについては、国語の教科書の夏目漱石のような「書物の中での登場人物の心理」といった論点では、少し面白くないわけだ。モームはストーリーの天才であるわけで、モーム評論家の多くが「作品の罠」にはまっているように思う。
また、一方でモームの伝記というのも決定版があるようで、それによればモームはLGBTQのGだったようで、当時の英国ではGは刑務所行きだったそうで、それを防ぐために英国にはあまり住まずフランスを基点として世界各国に旅行をして小説を書いて凌いでいたらしい。(長編「月と六ペンス」とか短編「手紙」を読んでいて感じたのは、作家が何かに追われるような慌ただしさで結末を急いだような焦燥感だった)
ということで、海宝氏が編み出したのが、一冊ごとの小説と、書かれた時代の背景に触れるという方法で、多種多様な小説と多様な人生を組み合わせて、小説と作家を同時代性でまとめている。
ところで、海宝氏は、英国が大好きで、英国製の衣類(各種チェック柄とか)を愛用していてドラマや映画にも詳しい。私もホームズとワトソンはほぼ読んだし、007は映画だけではなくフレミングの著書も読んだのだが、彼とはズレているのは確実なので言わないことにしている。それと著者はモームに容貌が似ているのだ。