お寺の矛盾とは? | 野菜をおいしく頂く、お寺給食

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料理が苦手でも、体に優しくて癒しのヘルシーな料理が簡単に作れるお寺料理を中心に食について紹介していきます。楽しいは、きっとその先にあるはず。




どうもおしょうです!


ゴールデンウィークも終わりましたね。


と思っていたら、

あっという間に夏なのですが、


おしょうはゴールデンウィークは


名古屋からこられたプチ修行体験を行っておりました。



こうやって

名古屋からわざわざ来て頂いて、

お寺の文化を体験していただく、ホント嬉しい事ですし、

ありがたいことです。




そんな時に思うことは、


つくづく仏教というものは矛盾を持っているなと思うわけです。



どういうことか?




仏教というものは、

そもそも出家して世の中と切り離された生活を

前提として成り立っていたことがあります。




世の中と切り離された生活をしないと、


煩悩を断ち切れないとされていたわけですね。




今では禅やヨガブームで、


素敵な自分になれるとか、


シンプルな自分らしいスタイルが手に入ると、

夢を描いて思われがちですが、



そもそもはその「イメージ」が違ったりします。




仏教のいう幸せ?とは、


モノゴトが乱されない世の中場馴れした、

地味で淡々としていて静かな世界だったりします。




一方で、

最近ブームでイメージされているのは、


自分らしい自分、

シンプルな思考で悩まないという、


世の中の生活ありきでイメージされていることが大かったりします。




これはある意味間違いではないのですが、


ただ、禅をくんだからとて、

ヨガをしたからとて、


自分らしい自分になれるかといったら、


そうではなかったりします。



一時的な心身の休めみたいな効果はありますが、

それも一時的なものです。




じゃー長期間お寺にこもって修行すればいいのか?



というと、


おそらく多くの方はそれを望んでいないんじゃないかと思います。



お寺の生活というのは、

外から見れば品行方正でシンプルに生きているように見えますが、

シンプルな故に淡々としていて、

すごく地味な生活をしていたりします。



極端なことを言えば、


朝起きて飯食って寝る。


そんな生活の繰り返しです。




多分、お寺に籠って自分の望んだ自分に変えられる

と思って来られる方は、

そんな世界にショックを受けられるんじゃないかと思います。



なので、


仏教だけで幸せになる!


というよりかは、お寺でなにか文化や思想を

今後の生活に活かそうという軽いスタンスが一番良かったりします。



下手にどっぷりつかると、

社会に適合できなくなって

「私の望む未来ってこれでいいのかな?」

って本末転倒なことになってしまいますので。





ただ仏教にはもう1つのスタイルがあります。



それは共に生きるということです。



もう少し平べったくいうと、


煩悩だらけの世の中に仏教を見つけるというスタイルです。




つまり、

町場のお寺

もしくは、

道端のお地蔵さんみたいな感じです。



お坊さんを中心にみんなで考えて、


みんなで生活を良くしていこうということです。




これは、

昨今の禅ブームとは、

考え的に非常に相反する考えだったりします。



本来的な仏教の正しさで言えば、

もしかしたら間違っているかもしれませんし、

誤解を受けるかもしれません。



苦しみの根源である煩悩の世界に仏教を取り入れるわけですから。



ただここで大事なのが、


お寺や仏教を求めている人が、


なにを求めているか?

ということです。



僕が思うのは、


淡々とした地味な生活を望むよりも、


自分らしい自然体で世の中で生きる、


というものを望んでいる方が多いんじゃないかということです。



そこで思ったのが、



正しさよりも楽しさが正しいというスタイルです。


表面的な仏教の正しさよりも、


シンプルに今を楽しんだらいんじゃないの?


という考えです。




だって、


人生って楽しむためにあるわけですから。


無理に型にハマって、


自分を押し殺して生きるというのはどうかしています。



その楽しむうえで、

苦しかったり悲しかったり、

嫌な体験をしてもそれでいんじゃないかなと思います。



それを含めて

楽しいわけですから。



正しいよりも楽しい、

そしてそれが正しさになる。




そう思います。





写真は修行体験の後の写真です。

普通に楽しみながら過ごす、

簡単なことですがそれでいいんです。