第二次世界大戦後に、敗戦国の元帥が戦争を起こす上で国民を思い通りに操ることは簡単だと言っている。

それは戦勝国にとっても同じこと。

結局、戦争をやりたがっている奴がいて、その人物が相手の方から先に攻撃を仕掛けてきたと言い、自らの蛮行を正当化しようとする。

それがお決まりのパターンだった。

つまり、戦争というのは利害が絡む誰かに踊らされてやっているに過ぎず、必要だからやっているわけではない。

 

(いかなる形であれ、戦争になってしまったら失敗だということになる。通常であれば、一般人が凶悪犯罪をやることはないのと同じこと。そのように追い込むことが問題なのだろう。しかし、現実にそれが起きてしまった場合は、対処せざるを得ないが、それは基本的には戦争というより、警察のような機関による対応であるべきはず。相手が攻撃してきたから応戦するという国対国の戦いになるとそれは戦争になる。相手が法を破ったから警察が対応するということであれば戦争ではないのだろう。)

 

以下、某サイトから引用

 

 

 

ゲーリングは、肩をすくめて答えた。

 

「もちろん、一般市民は戦争を望んでいない。貧しい農民にとって、戦争から得られる最善の結果といえば、自分の農場に五体満足で戻ることなのだから、わざわざ自分の命を危険に晒したいと考えるはずがない。当然、普通の市民は戦争が嫌いだ。ロシア人だろうと、イギリス人だろうと、アメリカ人だろうと、その点についてはドイツ人だろうと同じだ。それはわかっている。しかし、結局、政策を決定するのは国の指導者達であり、国民をそれに巻き込むのは、民主主義だろうと、ファシスト的独裁制だろうと、議会制だろうと共産主義的独裁制だろうと、常に簡単なことだ。」


「しかし一つだけ違いがある。」と私(※ギルバート)は指摘した。

 

「民主主義の下では、国民は選挙で選んだ代表を通して意見を言うことができるし、アメリカでは議会だけが宣戦布告できる。」


(ゲーリングは答えた。)


「それはそれで結構だが、意見を言おうと言うまいと、国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。簡単なことだ。自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして、平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。この方法はどの国でも同じように通用するものだ。」

 

 

改めて考えたいゲーリングの言葉の意味 (blogos.com)