◇目次


・はじめに (前半)
・自衛隊がなぜ戦闘機を発進させたのか (前半)
・垂直尾翼に何かがぶつかったのか (前半)
・機体腹部に何かがぶつかったのか (前半)
・なぜ横田基地の手前で急に機体が左旋回したのか (前半)

・撃墜説について

・墜落後について

・TRONというOSにまつわる話について

・圧力隔壁説について

・日航123便で異常が発生する前の時点で垂直尾翼に問題があったとする説

・おわりに

 

 

 

 

 

・撃墜説について


この事故機が最終的には戦闘機に撃墜されたのではないかとの主張がある。

戦闘機は日航123便が墜落後に発進したはずだが、撃墜説は戦闘機2機が日航123便を追尾していたと仮定しての話になるのだろう。

一部の目撃情報によれば、ファントム2機が18時40分頃に群馬県吾妻郡上空を低空飛行していたというが、その時間は日航123便が山梨県大月市の上空で急な右旋回をして高度を22,000フィート(6,700 m)から6,000フィート(1,800 m) まで降下開始した時刻なのだから、その

時点ではファントム2機が日航123便を追尾していなかったという話になる。

非番の自衛隊員Kなる人物が主張する 「午後6時40分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム2機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。」 という目撃情報は、少なくとも18時40分には日航123便はまだ高度22,000フィート(6,700 m)を飛行していたのだから低空飛行はしておらず、位置関係を見てもその時ファントム2機はこの人物によれば大月市から約110km離れた場所を飛んでいたことになる。

ではその後で追尾したのかというと、18時46分に横田基地の手前で日航123便の機長が 「これはだめかもわからんね」 と言っており、18時40分から約6分後にはかなり緊迫した状況になっているため、この横田基地の手前での日航123便の状況にファントム2機が影響を及ぼしたかどうかは微妙なところだろう。

つまり、群馬県吾妻郡から約6分程度で日航123便の位置を正確に把握した上で横田基地への着陸を妨害できるのかと言うと、スペック上は可能かもしれないが、追尾していたのではなく、むしろ日航123便の前方方向からファントム2機が最大出力に近い速度(マッハ2)で飛んできたということになる。 (しかもそれは低空だったと言うのだから、相当の爆音を立てていたようだ。)

恐らく、着陸を妨害した上でその後、追尾し、さらに撃墜するつもりだったのであれば、そういう接近の仕方はしないだろう。

少なくとも、そういうやり方をした場合、後ろから様子を見て指揮官に報告するということはできないように思える。

三菱重工 | F-4EJ戦闘機 (mhi.com)

 

非番の自衛隊員K氏がファントム2機を見たと主張する位置と、日航123便が18時40分頃飛行していた場所とのおおよその位置関係(グーグルマップより)

 

 

また、 「18時45分頃、南の空からジェット機2機ともう1機大きい飛行機が飛んできた。(その後)ジェット機2機は、埼玉県の方へ行ってしまいました。」 という目撃情報もあるが、その時間は日航123便が急旋回しながら急降下した直後に横田基地の方へ向かっている場面になり、その後、ジェット機2機が埼玉県の方へ行ったのであれば、18時56分に墜落した日航123便がそのジェット機2機に撃墜されたかどうかはっきりしない。

18時45分頃から日航123便が墜落するまでの約10分間、群馬県多野郡上野村からずっと「ジェット機2機ともう1機大きい飛行機」を見ていて、追尾しているファントム2機がミサイル攻撃をして撃墜したのだとしたら、 「ジェット機2機は、埼玉県の方へ行ってしまいました」 とは言わず、   「後ろからジェット機2機が何かを撃って大きい飛行機にぶつけていました」 と言いそうに思える。

まさに自分達の方に迫ってくるB747をファントム2機がミサイル攻撃している場面を見たのであれば、ただ飛行機を3機見ましたと言うのかどうか。(その作文には、そもそも3機同時に見たとは書いていない)

つまり、一番印象に残りそうなことを作文に残していない。

18時45分から数分後に横田基地手前で左旋回しているため、一見すると日航123便が横田基地に着陸するのを妨害されたのだと思いがちだが、【可能性その4】で前述したように、その時刻は日航123便の油圧が切れて完全に操縦不能に陥っていた時刻と大体一致しており、戦闘機2機によって群馬方面の山岳地帯へ誘導されたのではないし、実は追尾していたという目撃情報は存在しない。

この目撃情報を元に撃墜説を主張するのは、位置関係が不明瞭で断片的にしか書かれていない小学生の作文をそのまま追尾したとか撃墜したいった話に結び付けてしまっているらしく、強引な気がする。

別々の人物が書いた作文を勝手に1つにまとめてしまっている印象もある。

例えば、 「18時45分頃、飛行機が3機飛んでいた。南の空から大きい飛行機が飛んできてジェット機2機がその後ろから追いかけっこをしていました。」 といった具合に自分の頭の中で別々の話がミックスしている人がいるのかもしれない。(あるいはそのように印象操作をしている)

現場付近では18時40分には日が暮れているため、日没から5分以上経過している状況を見ていたことになり、鮮明に見えていたとは言い難い。

話の信頼性としては、飛行機の音と大体の様子が分かっていたといったぐらいのことなのだろう。

上野村小学校付近と、日航123便が18時45分頃飛行していた場所とのおおよその位置関係(グーグルマップより)

 

 

 

生存者の客室乗務員の証言では、

「衝撃がありました。衝撃は一度感じただけです。いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて、顔をあげた。その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。固いもの、砂のようなものがいっぺんに、です。音は、まったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。
衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。大変な事故を起こしたんだな、と思ったのは、このときでした。」
http://jal123.blog99.fc2.com/blog-category-2.html

とあり、本当に戦闘機に撃墜されたのであれば、衝撃は2度以上あったはずだが、生存者の証言では1度しかなかった。(1度目はエンジンを空対空ミサイルで撃った時の衝撃。2度目は墜落して山にぶつかった時の衝撃)


しかし、wikipediaには


18時56分23秒に「右主翼と機体後部が尾根の樹木と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落」
18時56分26秒に「機体は傾いたまま右主翼の先端が稜線に激突し、衝撃で右主翼の先端とわずかに残る垂直尾翼と水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落」
18時56分30秒に「動力と尾翼を失った機体は高天原山の群馬県側北東の斜面にある尾根にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。墜落時の衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。」


とあり、3度衝撃があったということになっている。

これは、実際には3度衝撃があったが事故機に乗っていた人からすればあまりにも短い時間で何度も衝撃があったために1度しか感じなかったのか、それとも、調査結果として公表されている内容に誤りがあったのか、そのどちらかなのだろう。
現実を考えれば、墜落時に1度衝撃があってからその後は何も振動も感じないということはあり得ないため、突発的な衝撃を1度感じた後、機体が山中に落ちながらそれが止まるまでの間、ずっと衝撃や振動などがあったはず。

そういうことであれば、撃墜された可能性も否定できない。

 

しかし、最終的には前のめりに反転して背中から落ちていることがフライトレコーダーから分かっていることから、ミサイルなどで撃墜されたようには思えず、やはり低空飛行しながら機首を上げきれずに何度も主翼が山にぶつかったような印象を受ける。

ボイスレコーダーに残っている最後の言葉も 「頭上げろ」 というものであり、やはりミサイル攻撃を受けたようには思えない。

 

フライトレコーダーのエンジン出力を見ても18時56分時点でもエンジンは4つとも機能していることが分かる。

第4エンジンは18時56分20秒辺りで停止し、第1~第3エンジンは18時56分30秒辺りで停止している。

62-2-JA8119-11.pdf (mlit.go.jp)

 

これは第4エンジンが山腹にぶつかったことによるものであり、ミサイルや機銃で破壊されたことによるものではない。

ボイスレコーダーを見ても、墜落直前の18時56分16秒から 「pull up」と何度も警告音が出ており、その7秒後に衝撃音が記録されている。

62-2-JA8119-11.pdf (mlit.go.jp)

 

日航機事故30年:生還可能性に挑んだ技術者とパイロット | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 

 

現場から発見されたエンジンを見ても、ミサイルや機銃で破壊されたようには見えない。

62-2-JA8119-06.pdf (mlit.go.jp)

航空事故調査報告書(一部報告書分割掲載ページ) (mlit.go.jp)

 

 

結果として、群馬方面の山岳地帯へ向かってしまったことで、険しい山が多い場所であるにもかかわらず低空飛行を続け、しかもエレベーターが機能していなかったのだから高度を上げようにも上げられなかった。

墜落地点における日没は18時40分頃であったため、群馬方面の山岳地帯に入った18時50分頃には既に暗くなっており、さらに雨も降っていたため視界不良であることは明白だった。

その状況では誰が操縦していても山にぶつかってしまうだろう。

https://blog.goo.ne.jp/jfk1122zzzya/e/5e270c80d1e464e50f2eab9f6ce4f668

 

 

「墜落地点の南南西3~4キロメートルの地点での目撃者(4名)によれば、『同機は東南東の奥多摩の方向からかなりの低高度、低速度で機首をやや上げて大きな爆音をたてながら飛んできた。飛行機は、我々の頭上を通過したがその後北西にある扇平山(標高1,700メートル)の付近で急に右へ変針し東北東の三国山(標高1,828メートル)の方向へ飛行した。次いで三国山を越えたと思われるころ突然、左へ傾き北西方向へ急降下し、山の陰に見えなくなった。その後、同機が隠れた山影から白煙と閃光が見えた。』とのことであった」

 

という目撃情報もあることから、油圧も利かない状態で低空飛行を続けたことで山にぶつかったのだろう。

62-2-JA8119-01.pdf (mlit.go.jp)
(日没時刻については23ページに記載。目撃情報については7~8ページに記載。)

(18時40分という時刻は、この機体が急な右旋回をしながら降下し始めた時刻でもあるし、ランディングギアを降ろした時刻でもあるし、日没時刻でもあるし、機体が東京方面へ向いた時刻でもある。)

 

 

 

 

 

・墜落後について

 

現場に最も早く着いたのは米空軍のC-130 輸送機であり、その後、アメリカ海兵隊のヘリUH-1が厚木基地から現場に向かっていたがなぜか日本側が救助の申し出を断り、引き返すことになったと日本メディアが報じたらしい。

そしてそれは主導権をアメリカ側に握られたくなかったためだとする説がある。

しかし、アントヌッチ中尉(当時)はC130輸送機の乗員であってヘリコプターUH-1の乗員ではなく、 「米軍が当日横田や座間に保有したヘリにはホイスト(吊り上げ機構)や大型サーチライトは装備されておらず」 と元防衛庁 航空幕僚監部広報室長の佐藤守氏は指摘していることから、米軍ヘリがまだ煙と炎が酷い状況下で救助待ちをしている人達を吊り上げて運ぼうとしていたわけではなかった。

アントヌッチ中尉'(当時)は、いち早く現場を特定してヘリを誘導したという点で功績があったのであり、そこから先のことには関わっていない。

 

 

自衛隊のヘリが墜落現場でホバリングしながら何かを回収していたという地元住民M氏の目撃情報があるが、その話は生存者の客室乗務員の証言とも一部は一致している。
この人物は墜落現場の山の所有者と知り合いで、その息子と一緒に山に入って遊んでいたことがあり、大体どういうところなのかを知っていたとされるが、「墜落現場一帯は江戸時代は鷹狩のため一般の入山が禁じられていたとされる場所で、1963年営林署が唐松の植林を行った以外は人の立ち入りの無い原生林であった。」とwikipediaにはあり、この地元住民Mを名乗る人物はガセネタを流している可能性がある。

 

この地元住民M氏は、墜落直後に戦闘機がぐるぐる旋回している音とヘリの音がする方向を頼りに現場を特定して12日21時頃には山に入り、約7時間かけて真っ暗闇の険しい斜面を進んで13日午前4時頃に現場にたどり着いたと言っている。

そして、その時には既に暗視ゴーグルをつけた自衛隊員約100名がいたと言うが、暗視ゴーグル(ナイトビジョン)で見る映像は大抵、緑色をしていて、色を識別することはできない。

つまり、よく噂に挙がる赤色やオレンジ色の物体などを暗視ゴーグルをつけて探そうと思っても無理がある。

話としては妙に具体的であり、非常によく自衛隊員を現場で観察していたかのようだが、様々な面で不審な点がある。

https://milirepo.sabatech.jp/why-the-night-vision-image-is-green/

 

事故調査委員会の資料では、最初に現場上空に着いたヘリは航空自衛隊救難隊KV-107ヘリコプターであり、それは墜落から約1時間40分後の20時42分だった。

しかしそれは墜落地点から南西4kmの位置だったため、生存者の客室乗務員の証言に出てくるヘリコプターの音だったのかどうかは分からない。

その後も朝日新聞社のヘリコプター「ちょどり」や陸上自衛隊のUH-1Bヘリコプターや長野県警察ヘリコプターが何度も現場付近まで来ているが、すぐに救助が始まったわけではなかった。

恐らく、その時に現場を目視で確認することはできてはいても、当時はGPSがなかったため正確に墜落場所を特定することはできず、自衛隊が証拠隠滅のために時間稼ぎしていたというのは不自然。

レーダーから消えた地点が墜落地点というわけでもない。


また、「登山口から長戸沢沿いには登山道はなく、一部に以前木材搬出に使用したトロッコ道があるものの、土砂崩れによって歩行不能な地点が多く、また、現場付近は落石の危険が多い地域であった」とされており、仮に墜落地点をすぐに特定できていても墜落から数時間後の時点で100名ほどの自衛隊員が現場に徒歩で入ることはできなかったように思える。
https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-01.pdf の8ページ
 

中型ヘリ10機ほどがすぐに現場に到着してラベリング降下したというのも考えづらい。

(UH-1Bヘリコプターの積載量は兵員7名~11名)


地元住民M氏の目撃情報
「ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。」
「到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。また、私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。」
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-democ144783...html

生存者の客室乗務員の証言
「やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。」

http://jal123.blog99.fc2.com/blog-category-2.html

 


この点については、wikipediaには
「事故機には、貨物として医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が92個積載されていた。これらは8月14日から16日の間に64.8%が回収された。また、機体には振動を防ぐバラストとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐ現場へ入らずに別命があるまで待機するよう指示されたという。」
とあり、自衛隊は現場の安全のためにそれを回収していたのかもしれないが、それらの回収は14日から始まったらしく、地元住民M氏の発言内容とは異なる。

放射性医薬品輸送ガイド (jrias.or.jp)

地元住民M氏は、「山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です」と言っているが、墜落現場は13日午前4時~5時の時点ではまだ焦げ臭く、何かの燃料のにおいもしていたらしいため、墜落から数時間でそういう場所に狐や狸などが現れて遺体が食い荒らされるということが本当にあるものなのかと疑問に思ってしまう。

そして、既に自衛隊員100名程が到着していて、何かを回収中だったのであれば、尚更、狐や狸などがその状況で人を恐れず遺体を食い荒らすことなどないのではないか。

 

墜落後、機体、遺体、山林が激しく燃えていたことが分かっているが、機体に積まれていた燃料だけでそこまで燃焼することは不自然だという話もある。

しかし、この事故機は東京-大阪間を往復することになっていたため、「燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた」とwikipediaには出ていることから、18時12分に離陸してから全てのエンジンが脱落する18時56分までの44分間しか燃料を消費しておらず、2時間31分程度の飛行が可能な燃料はまだ残っていたことになる。
この事故機は山中に墜落したため、大量の燃料が木に燃え移ったことによって激しく燃え続けた可能性は十分考えられる。

ユナイテッド航空232便不時着事故でも、緊急着陸を試みた際に大破炎上している。

ユナイテッド航空232便不時着事故 - Wikipedia

 

 

日航123便 墜落 新聞 - Google 検索

 

現場にはガソリンやタールのにおいがしていて、一部の犠牲者の遺体の燃え方が激しいことから、自衛隊が何らかの証拠隠滅のために火炎放射器を使用したのではないかという話も本やネット上に出ている。

この事故では生存者が4人いるが、それらの生存者は機体後部に乗っていた人達であり、その機体後部は山の斜面を下って行ったことで自衛隊に発見されなかったという主張がある。(「本」の著者、某経済学者など)
https://www.youtube.com/watch?v=mtRrNgUfvBE&t=325s
https://www.youtube.com/watch?v=mtRrNgUfvBE&t=527s

 

しかし、「E部位の遺体は、破損した機体とともに沢に落下しており、比較的損傷が少なく狭い場所に集中した状態で収容された。なお、4名の生存者もこの部位より救出された」とあり、A,B,C,D部位の遺体は他の部位を乗り越えた状態になっていたり広範囲に散らばった状態になっていることから、E部位以外に乗っていた乗客は機体の激突により即死状態だったことが分かる。

生存者の証言では自分以外にもまだしばらくの間は生きていた人が多かったとのことだが、それは沢に落下したE部位での話であり、他の部位ではしばらく生きていたとは到底考えられないし、そもそもE部位だけが離れた場所にあったのだから、E部位の生存者が他の乗客を見たり聞いたりすることもできないだろう。
https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-01.pdf (25ページ)

 

 

 

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/zikenzikoco/kokuzikoco/osutakayamazikenco/itaieizoco.html
上のリンク先の写真を見ると、下半身は炭化しているが、上半身は下半身ほどには焼かれていないものがある。その逆のものもある。

また、遺体は炭化しているがその近くの樹木は焼けていないといった主張もよく見かけるが、本当に火炎放射器で人を焼いた場合、そのすぐ近くに樹木があるなら一緒に燃えるはず。

遺体だけが燃えているから火炎放射器だというのはおかしい気がする。

下の写真を見ても分かる通り、火炎放射器というのは対象のすぐ近くで使うものではないため、ある程度は離れて使用することになり、部分的に焼くというのは難しいのではないかと思ってしまう。

火炎放射器 - Wikipedia

 

また、ジェット機の燃料は灯油に近いものだが、灯油は火葬場でも使われることもあるのだから、ジェット機の燃料で遺体が炭化するはずはないというのは無理がある。

火葬場 - Wikipedia

 

「植物組織だけでなく人体を含めた動物組織も炭素化合物を多く含むため、重度の火傷では炭化する」

炭化 - Wikipedia

 


https://gangstalking-crime-databease.blogspot.com/2019/04/aoyama-t.html?m=1

上のリンク先の記事にあるように、現場で上野村の住民が拾い集めた塊からベンゼンと硫黄が検出されたという話が事実なのであれば、日航123便の燃料には含まれない成分なのだから、これは確かに不可解な点になる。

しかしその後、30年以上経過しているその塊がどのように保管されていたのかや、なぜその新事実が判明するまでそれほど長い時間が掛かったのかという点を考えると、評価の対象にしてはいけないのだろう。

警察がその「塊」を回収して保管し、どこの機関でその成分分析をしたのかという話なら信憑性が高いが、住民が拾い集めたもので、どういう保管状況だったのかも不明で、30年以上も経過して、どこの機関が分析したのかもイニシャルでしか出してこないのでは、証拠としてはどうかと思う。

 

また、ガソリンは、「硫黄や窒化物などの不純物が含まれているが、製品にする際は脱硫などの工程により大部分が取り除かれる」とあり、「本」の著者が主張するような硫黄が数値の大きい状態で検出されたという話は、やはり不自然。

ガソリン - Wikipedia


リンク先の記事には、それは墜落現場で火炎放射器や焼夷弾やナパーム弾が使用されたことを示唆するものだとあるが、

実際にナパーム弾や焼夷弾を使用するとどうなるのかという例を見ると、やはり墜落現場の炭化した遺体よりもずっと酷い状態になるのではないかと思う。

遺体だけでなく、機体の残骸も現場で発見された状態よりもずっと酷く燃えたはず。
「ナパーム弾の燃焼の際には大量の酸素が使われるため、着弾地点から離れていても酸欠によって窒息死、あるいは一酸化炭素中毒死することがある。」とwikipediaにはあり、本当に墜落現場にナパーム弾などを投下したのであればやはり生存者はいなかったのではないだろうか。

証拠隠滅のためにそのような強力な兵器を使うというのも現実的ではない。

逆に、もし、あともう一押しと思って陰謀論を広めている者が証拠の捏造をしたのだとしたら、相当悪質な部類に入る。
ナパーム弾 - Wikipedia

 

また、「機体残骸に火薬や爆発物等の残留物は検出されず」とwikipediaにはあり、当初、ナパーム弾や火炎放射器といった兵器で使用されるような残留物は検出されていなかったらしい。

 

地元住民M氏の目撃情報によれば、13日午前4時頃の時点では現場はあまり燃えていなかったと言っているが、その数時間前の12日21時05分頃、現場は巨大な火炎と黒煙が上がっていたと、航空自衛隊百里救難隊所属の救難ヘリコプターKV-107で救援活動に携わった元自衛官メディックが回想録を残していることから、墜落当初は激しく燃えていた。

それから約7時間後の時点であまり燃えていなかったのかどうかははっきりしないが、恐らく救出活動ができるほど鎮火はしていなかったのではないかと思う。
 

地元住民M氏
「林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。」

と言っているが、地元住民M氏が山に入ったのは12日21時ごろなのだから、まだその時点では現場は巨大な火炎と黒煙が上がっており、非常に危険な場所を目指していたことになる。

そしてその7時間後には現場は「それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。」という状態になっていたらしい。
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-democ144783...html

 

 

「Q7:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。」


「M氏:報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。」

 

地元住民M氏はこのようにも主張しているが、この機体のE部位以外の乗客は山に激突して散らばった状態になっていたり、折り重なるように発見されているのだから、事故調査委員会の報告は間違っていないように思える。

 

 

 

 

 

・TRONというOSにまつわる話について
 

国産OSであるTRONの開発者17名が日航123便に乗っていて、TRONプロジェクトを頓挫させるために米軍が日航123便を撃墜したとする陰謀論がまことしやかにブログやyoutubeなどで投稿されているが、TRONプロジェクトのリーダーである坂村健という人物は2022年1月時点でまだ存命であり、当然、その事故機には乗っていなかった。(しかしこの人物はプログラマーではないらしい)

他の開発者については不明だが、搭乗者の名簿にそれらの人物が載っていたというはっきりとした情報はない。

また、BTONはその後、未完成のままプロジェクトが終了したわけではなく、IBM-PC互換機に搭載された例もあるため、BTRONの主要開発者がその事故機に乗っていた可能性は低い。
アメリカ合衆国通商代表部の報告書で、日本における貿易障壁としてTRONが挙げられたのは事実ではあるが、それは1989年のことであり、この事故の4年後だった。

TRONプロジェクトが開始されたのは1984年6月であり、事故が起きたのはその1年2か月後であることを考えれば、1985年時点でアメリカ政府がTRONを脅威だと思っていたとは考えにくい。

1989年当時ではアメリカのOSであるMS-DOS、OS/2、UNIXが日本の教育市場から排除されつつあるという分析がなされているが、トロン協会はアメリカ合衆国通商代表部に抗議したことにより、トロンは通商問題から外されている。

しかしその後、日本の教育市場にマイクロソフトのMS-DOSが導入されている。

MS-DOSはCUIであり、BTRONはGUIであるため、当然MS-DOSの方が初心者向けではないが、なぜマイクロソフト製OSが採用されたのかという疑問が残る。

当時の首相だった中曾根康弘がアメリカとの貿易摩擦に配慮したためにそのような措置を取った可能性もある。

 

 

 

 

 

・圧力隔壁説について

この日航123便(JA8119)は1978年6月に一度、滑走路でしりもち事故を起こしており、その後のボーイングの修理や日航(JAL)の点検整備に問題があったことで圧力隔壁が飛行中に破損し、その後、垂直尾翼、油圧制御装置、APUが破壊されたというのが墜落の主な原因としては、一見、最も自然だと思える。
「9月6日、ボーイングによる修理ミスがアメリカ側の調査で判明し、それが原因で圧力隔壁が壊れたとニューヨークタイムズが伝えた。ボーイングは同日声明を発表し、『1978年の(伊丹の)しりもち事故の修理で、隔壁継ぎ目全体の17%に不備があった』ことを認めた」という記事がwikipediaにある。
だとしたら、一度、事故を起こした機体を修理して運用し続けたことでかえって高くついたということなのだろう。

少なくとも、修理後も徹底的に点検整備すべきだったが不十分だったために問題個所の見落としが起き、それが事故に繋がったことになる。

クルマでも人間の身体でもそうだが、一度、問題が起きた部分というのはまた問題が起きることがよくある。
JA8119が過去に尻もち事故を起こしていて、ボーイングの修理ミスがあったのであれば、「原因は圧力隔壁ではないです」という主張にはやはり無理があるに思える。

しかし、実際には単に圧力隔壁の修理ミスだけが原因というわけではなく、当時のこの機体には何らかの欠陥があったことで垂直尾翼とAPUの方に強い力が加わったと考える方がより信憑性の高い理由になる。

http://www.shippai.org/fkd/mf/MB0071008_06.jpg

 

 

圧力隔壁が飛行中に破損したことで急激に機体後部に空気が漏れ、それによって垂直尾翼と油圧制御装置が吹き飛ばされたのであれば、客室内で急激な減圧があったはずだが、それがなかったという話がよく出ている。

特に生存者の一人であり客室乗務員だった人物の証言によれば、 「パーンという音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって、酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。」 と言っているのだから、素人からすればやはり客室内で急激な空気の漏れ(減圧)があったようには思えなくなってしまう。

事故当時の機内の様子を撮った写真を見てもそのような状態には見えない。
この機内の写真を見ると、客室内の空気が後方へ漏れ続けながら与圧装置によって空気が供給されているような様子には見えない。

つまり、客室内で風が強く吹いているようには見えない。
 

日航123便 酸素マスク 写真 - Google 検索

 

 

しかし、航空工学の専門家が書いた本のアマゾンのレビューには次のようなものがあり、客室から空気が漏れていても客室内では風圧を感じないというのが真実らしい

 

「皆さんも子供の頃大きな風船をふくらませて中で遊ぶ、トランポリンのような遊具の中に入ったことがあると思いますが、あの遊具や東京ドームのような中に圧力をかけている建物では、出入り口を通るときに大きな風圧を感じます。ただし、出入り口をほんの少しでも中に入ると、もう全く風圧を感じないことはわかると思います。この123便の後部圧力隔壁の破壊も同じで、圧力容器の中の後部一カ所が破壊されただけであれば、著者が書いているとおりその中の人には全く風圧は感じないはずです。」

Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 壊れた尾翼 (講談社+α文庫)

 


2009年7月13日に急減圧事故を起こしたアメリカのサウスウエスト航空2294便の事例を見ると、実際には客室内で風が強く吹くといったことは何も起きなかったという。

「私は、すぐに急減圧を知覚したが、耳の苦痛がほとんどないのに驚いた。……ハリウッド映画と違い、何も飛ばされず、誰も穴に吸い込まれることはなかった。座席に置かれた書類もそのままだった。客室がやや冷え、薄い霧を見たが5秒ほどで消滅した。」
日本航空123便墜落事故 - Wikipedia

ここでは「薄い霧を見たが5秒ほどで消滅した」とあるが、この点に関しても生存者の客室乗務員の証言と一致している。

「やはり『パーン』という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。その霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えた、という感じだったのです。」

しかし、「このサウスウエスト航空2294便の事故は、後部胴体に空いた0.135㎡の穴からの急減圧で、日航123便の圧力隔壁の穴の15分の1しかない」とあり、単純に参考にしていい事例ではない。


また、日航123便(B747)の機体は大きいために噴出する空気が多かったという指摘もある。

プレッシャー・リリーフ・ドアが機能しなかった可能性も指摘されている。
https://geolog.mydns.jp/sky.geocities.jp/joggle_joggle/Link1.html

http://www.mimori.jp/ja8119/index.html

 

つまり、客室内では急減圧を感じなかったが、実際の空気の抜け方としては激しいものだったらしい。

一見、急減圧には思えないが、減圧そのものはあったはず。

そして与圧装置とエアコンによってー40度という温度まで下がることもなかったのかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=bOV6_6lI1ek


また、1986年10月26日にタイ航空機爆発事件が起きているが、この時は暴力団組員が「機体左後部のトイレ内で自身で安全ピンを誤って抜いてしまい、そのまま放置して手榴弾を爆発させた」ことで圧力隔壁が破損し、急減圧が発生した。

この時はプレッシャー・リリーフ・ドアから空気が一気に抜けただけで垂直尾翼やAPUの方へは空気が流れなかった。

日航123便ではそれが機能しなかったのではないかといわれている。
圧力隔壁に破損が生じると本来であればプレッシャー・リリーフ・ドアが機能するはずだが、実際には何らかの問題があり、それが正常に機能しなかったことで垂直尾翼やAPUに一気に空気が流れ込んで吹き飛んでしまうことを航空機メーカーが認めたからこそエアバスもボーイングも日航123便の事故後に改良を施し、同じ事故が起きないように対策を講じたのだろう

(この事故後に航空機メーカーはプレッシャー・リリーフ・ドアが期待通りに機能するかどうかをテストしたはずだが、従来型では役に立たないことを確認したのかもしれない。また、垂直尾翼の点検口に蓋がつけられたという話も見たがこれは真偽不明)

そもそも、プレッシャー・リリーフ・ドアが開いていたのに垂直尾翼とAPUが0.4秒程度で吹き飛んだのであれば、何のためにプレッシャー・リリーフ・ドアが設置してあるのか分からない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11250292786

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11162614846

 

「ボーイング社はその後に開発した B 747-400 型機に対しては新しく開発した専用工具を用いて、プレッシャー・リリーフ・ドアーの機能試験を行うように規程を改訂した。しかし、なぜか全く同一のドアーが付いている在来の B 747 型機に対してはこの機能試験を適用していない。」

https://geolog.mydns.jp/sky.geocities.jp/joggle_joggle/Link1.html

 

航空機というのは事故を起こすたびに改良を加え進歩していくといわれており、1971年10月2日に発生した英国欧州航空706便墜落事故でも圧力隔壁が崩壊したことで機体後部が客室内部からの与圧空気に耐えられず、尾翼が吹き飛ばされた。(これは圧力隔壁の設計ミスが原因)

英国欧州航空706便墜落事故 - Wikipedia

 

 

【参考】

 

1986年6月25日に航空宇宙技術研究所調布飛行場分室で行われたトルクボックス(垂直尾翼の背骨部分)破壊実験では、トルクボックスにコンプレッサーで空気を送り込むことによってどのように破壊されるかという内容になっているが、実際に垂直尾翼の内側から勢いよく空気が入ると吹き飛ぶことは証明されている。

上の動画を見るととそれぐらいで吹き飛ぶほど弱い構造には見えないが、実験をしたらそうなったのだからそれほど強度が高いわけではないらしい。

wikipediaより

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=bJQHvhRePto&t=1062s

この動画では圧力隔壁が破損して垂直尾翼から勢いよく空気が抜けたなら機体尾部から上へ空気が出るのだから尾部が下がり、機首が上がるはずだと主張している。

そしてフライトレコーダーのデータでは機首が下がっているのだから事故調査委員会が間違っているという内容になっている。

しかし、動画のコメントには次のようなものがある。

 

「機首下げ→プレッシャーリリーフドアの展開による下方への空気流

機首上げ→尾翼破損に伴う上方への空気流での上方加速」

 

また、爆発音と同時に機体が前方へ一時的に加速したというデータがあるが、それは機体尾部が吹き飛んで空気が後ろに勢いよく出たことによるものかもしれない。

この動画では客室内を撮影した写真と生存者の客室乗務員の証言から、空気の流れがなかったことは明らかと断言しているが、実際には客室内ではそれを感じないだけで、圧力隔壁のすぐそばであれば強い空気の流れを感じることを航空工学の専門家は説明している。

圧力隔壁のすぐそばであっても内側と外側では空気の流れの感じ方も違っているはず。

例えば、扇風機の後ろに手を近づけた場合と扇風機の前に近づけた場合、後ろより前の方が遥かに強い空気の流れを感じる。

 

 

 

 

 

・日航123便で異常が発生する前の時点で垂直尾翼に問題があったとする説

 

実は日航123便がフライトする前から圧力隔壁に重大な問題が生じており、JA8119は普段から圧力隔壁から空気が漏れていて垂直尾翼にダメージが蓄積し、たまたま日航123便のフライト時に金属疲労が限界に達したという指摘が動画のコメントにある。

 

「JALの整備士だった方が生前にブログでご自身の研究を残されてました 隔壁の隙間から少しずつ空気が漏れていて垂直尾翼が常に膨らんでいた 状態であったが、ついに金属疲労が限界に達し、尾翼の右側パネルが 剥がれ落ち瞬時に全体が崩壊。急激な減圧が発生しそれが原因で隔壁が パーンと破れた。隔壁が破れたから尾翼が崩壊したのではなく、尾翼の パネルが剥がれて崩壊した結果、隔壁が破れた。その時間差が1.5秒 くらいだったかと。普段の整備で尾翼を注意して観察していればパネルの リベットに膨らんだ形跡が認められたはずで、事故は予見可能だったと。」

https://www.youtube.com/watch?v=OcR5vq9aC1w

 

確かにこの話の方が日航123便だけで突然、圧力隔壁に異常が発生したというこれまでの説明よりも自然に思える。

これがもし事実だとしたら、その当時の日航(JAL)は、しりもち事故を起こしていたJA8119の圧力隔壁と垂直尾翼の点検整備が不十分だったことを証明することになる。

 

 

この話に対する反論として次のようなものがある。

 

「その方のブログは拝見していないのですが、『隔壁の隙間から少しずつ空気が漏れていて垂直尾翼が常に膨らんでいた』という説は成り立たないはずです 圧力隔壁より後ろの空間、つまり垂直尾翼があるセクションにはプレッシャーリリーフドアという圧力を逃がす為のドアがつけられていて、少しずつ漏れている程度であれば垂直尾翼が膨らむほどに内圧は高まらない構造になっているからです」

 

ここでもやはりプレッシャー・リリーフ・ドアという言葉が出てくるが、まさにこれに欠陥があって開かなかったからこそ起きた事故だったのかもしれない。

 

 

同じ動画のコメントで似たような考察もあるが、この場合はプレッシャー・リリーフ・ドアは開いていたが、それが開くよりも先に、既に弱くなっていた垂直尾翼が吹き飛んだという話になっている

 

「要するに圧力隔壁が尾翼を壊したのではなく、何らかの外力がそうしたんだとの主張なんでしょうね。 そこで圧力隔壁破断による与圧抜けを否定したい。 そこで外力なんですけど、飛行機は時速800キロで進んでいる以上、大きな空気抵抗にさらされています。なにかがぶつからなくても、尾翼前縁のリベットの頭がちょっと甘くなっただけで充分なんですよ。 

1)事故以前から隔壁には小さな裂け目があって、断熱材を「非耐圧区画」の隙間に運んでいた

2)断熱材は非耐圧区画を耐圧区画化していった。

3)そして運命の日、裂け目は大きく広がり、いくつかのセンサーケーブルを破断すると同時に、大量の空気を尾翼部分に送ってしまった。

4)目詰まりで応答の遅れたリリーフドアオープンとなるよりも早く、以前から弱くなっていた垂直尾翼前縁のリベット抜けがはじまった。

5)時速800キロの空気抵抗が垂直尾翼の動翼、本体の順にもぎ取っていった。

アラームが何だったのか、急激ではなかったが与圧抜けはあったと思いますね。もしかしたら機体の動揺でティルト状態がずれて離陸警報がなったかも・・・・それは否定できません。 しかし、垂直尾翼をもぎとった「外力」を、何かの固体物だという所にもっていこうとするのには同調できませんね。」

 

プレッシャー・リリーフ・ドアが目詰まりを起こしていて応答が遅れたという話だが、確かにそれも説得力がある。

 

 

もしプレッシャー・リリーフ・ドアに何らかの問題があったのであれば、

1.それが開かなかった

2.開くのが遅かった

3.開いたが何かで塞がっていた

という可能性が考えられる。

 

 

 

 

 

・おわりに

このような重大事故が起きた時は陰謀論が出てくることがよくあるが、実際には責任者による判断ミスが最も影響していることが多い気がする。
例えば、日航の経営者(当時)が安全性よりも利益を優先させ、JA8119を早く復帰させるために機体後部を丸ごと交換せずに修理を簡略化するように日航側がボーイングに注文し、さらに修理ミスまで発生したことが圧力隔壁破損の主な原因なのであれば、当時の日航とボーイングに責任が問われることになる。

もし、一部で指摘されているようにプレッシャー・リリーフ・ドアが機能しなかったのであれば、ボーイングの責任の比率が高くなるかもしれないが、日航側も一度、事故を起こしていた機体の点検整備を十分に行っていなかったのであればその責任は相当重いはず。
あるいは、話題性のある事故をいつまでも使いまわして、ネタ切れ感が否めないにもかかわらず金儲けのために無理にその話題を引っ張っているだけなのかもしれない。
結局のところ、陰謀論の類が出てくる時は何らかの責任逃れが絡んでいる場合が多いのだろう。

この件については何ら専門知識など持っていなくても、一つ一つ自分で確認していけば嘘を見抜くことはできるが、本やネットで流れている陰謀論などに多くの人が騙されているらしく、自衛隊が数十年間も疑いを掛けられ、やってもいないことで罰を受けているかのような状況が続いている。

自分の思い違いで誰かにあらぬ疑いを掛け、執拗に責め続けているのであれば、それこそ許されないことだろう。

 

この話題はカネになることは事実であり、自衛隊の不祥事ということにして本を売り、ベストセラー作家などとして活躍している人も現実にいるのだから、単なる責任逃れといった単純な話でもない。(作家であるため本名ではない可能性もある)

自分もこの話題に触れた時、本当に自衛隊が何かやったのかと思ってしまったが、それはかなり頭のいい人物がチームを組んで情報集めをしたり科学的な取り組みをする形で嘘を吐いたり証拠の捏造をしているために大抵の人は騙されてしまう手法を取っているからなのだと思う。

専門家に捏造された証拠を掴ませて真面目に分析させるというやり方をしているため、非常に悪質。

証拠の捏造をしているのだから勘違いの類ではない。