私は30代の躁うつ病患者である。別名、双極性障害とも言う。私は双極性障害という病名がしっくりこず、躁うつ病だと言っている。躁うつ病は10人いれば10人それぞれの特徴を持つ。躁うつだからこうだという定型はない。体調が悪くなる時は千差万別である。

 

 私は病気を発症したのが、おそらく中学1年生の時だったと思う。授業で発言をする際に声が尋常じゃないくらいに震えてしまい、そこから声を発する授業が恐ろしくなってしまった。当時は誰にも相談できずに、自分の精神力の甘さからくるものであると考えて、声や足の震えを我慢しながら授業に臨んでいた。

 

 そんなある日、中学校が終わり帰宅して自室にいる時に、とてつもない虚無感に襲われた。私は虚しい気持ちが自分を支配していくのが分かった。私はこれではいかぬと気分を変え、それから明るく生きることにした。夜遅くまでラジオを聞いたり、好きな音楽を聞いたりした。授業中に制服の裾からイヤホンを通してこっそりと聞いていたぐらいだ。部活動も楽しみ、女子の先輩から可愛がられた。

 

 楽しい時期を過ごしていたが、それでも声を発する授業は恐ろしかったし、震えを我慢するのに苦心した。それが続いて高校受験となった時に、私は受験を拒否したいと周囲に相談した。当時は中卒になる学生は全く授業についていけない人たちだったので、なぜ成績の良いあなたが高校にいかないのだと周囲は驚いた。説得に説得を重ねられて、しぶしぶ高校受験することにした。

 

 私はできるだけ、校則の緩い自由な高校へ行こうと決めた。私服で行けるらしい高校があると聞いて、そこであれば声を発することも苦労しないのではないかとの思いでそこを受けた。そこの高校は難関高であり、私の学年では誰1人も受けないところであった。しかし、私は合格してしまったのだ。周囲は喜んで驚いたが、私の心は不安であった。

 

 それから高校へ入学をする準備となり、制服やら教科書やらいろんなものを買ってもらった。私服と聞いていたが、それはどうも後々になってからでないと私服登校できないと聞いた。自宅からかなり遠くの距離にその高校があったため、寮に入りたいと言ってみたが電車で通学するようになった。それから入学をして、早朝に起きて片道3時間を要して学校へと行く。入学式の先生たちが発した、君たちには将来が約束されている、みたいなことを聞いて何が将来が約束されているだと斜に構えた考え方をしていた。

 

 声を発する授業はその高校でも当然のように行われた。そのたびに私は震えを我慢した。それは私の精神力の甘さであるから私は強くなろうと思った。そして、精神力や体力を使う部活に入部した。部活に入ったことで仲間は増えたが、夜まで部活があるので、片道3時間で通っている私は夜遅くに帰宅する日々が続いた。朝も早いので知らぬうちに疲労が蓄積されていった。

 

 頭がぼんやりとして授業についていけなくなり、私は落ちこぼれとなった。能力があると期待していた家族は私を鼓舞し続けたが、私はそれを圧力と受け取ってしまい、心を閉ざしていくようになった。

 

 高校1年生の時に私の人生はもう終わってしまったのだと思い、それであれば一度自由を求めに遠くへ行ってみようと思った。誰にも伝えずに飛行機に乗り込み、私は遠くの地へと到着した。そこの気温は3月でもぬくかった。お金のない私は公園で寝たり、1日に1食しか食べない生活を送った。夜の公園で夜空を見上げると低い雲がゆっくりと流れていて、それはそれで風情でもあった。

 

 いつまでこんな暮らしを続けるのであろうと、夜の坂道を歩いている時にふと思った。私はとたんに家族のことが心配になった。今頃、私を思って心配し続けているのだろうと思った。

 

 

 結局、家にはなんとか自分の力で帰った。ひどく怒られ、泣かれて、私も泣いた。

 

 

 高校では落ちこぼれの成績であったため、留年はすでに決まっていた。高校1年生で留年するのは相当な屈辱であった。私は入学してきた生徒たちと同い年に見せるために過ごそうと思っていたが、以前の同級生たちが私の教室を見にきて声をかけた。私はその瞬間から私が留年生であるとクラスメートに周知されてしまったのである。

 

 そこからの高校生活はひどいものだった。クラスメートに気を使い、声や足の震えを我慢して、部活はキツく、授業もついていけずに、片道3時間を要して高校に行く日々は耐え難いものであった。早朝に通学の電車を待っている時は、ほぼ毎日、飛び降りたら楽になれるかなと思っていた。

 

 

 留年生として高校1年生を過ごし、4ヶ月経って夏休み明けの日に明らかに私の中で違和感が起きた。周囲の人が発する言葉が分からない。聞き取れることはあっても、どう返して良いのか分からないし、目の前がぼやっと霧に包まれてしまった。昼まではなんとか授業を受けたが、さすがに耐えられないと思い、なんとか自力で片道3時間かけて家に帰った。

 

 自室から出ない私を家族は心配した。私は少し熱っぽいと言ったが、それから数日経っても学校に行けなかったので、家族が何があったのだと聞くが私は何と答えて良いか分からずに口を割らなかった。たまりかねた家族はなんとか私に言葉を発してあげようとお酒を飲ませた。私はそのお酒を飲み、少しずつ何があったのかと話した。話すのと同時にお酒も飲み、飲んで飲んで、気づいていたら、私は幸せになりたいと懇願するように言い放ち、涙がとめどなく流れて流れてしようがなかった。

 

 

 それから私はお酒が飲めた時は自分の考えを言えるのだと昼間からお酒を飲むようになってしまった。高校へは行かずに、お酒を飲み、スナックへ行って朝まで飲むこともしばしばあった。そんな生活が1ヶ月続いた後に、私は高熱が出て病院にかかった。一度心療内科で診てもらった方が良いとのことで、私はそこで初めて精神系の病院に通うことになったのである。それが17歳のときであった。

 

 それから30代になった今、人生の半分以上を躁うつ病と共存してきた。非定型抗精神病薬はずっと飲み続けている。これは死ぬまで飲み続ける。最初は死ぬまで飲み続けると言う言葉がずっしりと心に響いて落胆した。しかし、薬は破滅しかけた私を助けてくれた。薬を飲まなければ、アル中になっていただろうし、自死を選んでしまうことも十分にあり得た。

 

 

 薬を飲むのはメリットとデメリットはある。一生飲み続ける覚悟や副作用など。私の性質上、友達の前では薬を飲めない。それは偏見の目で見られたくないという思いもあるかもしれない。家族の前ですら、薬を飲んでいる姿はあまり見られたくない。それは私の考えであるし、躁うつ病が10人いれば10人違った性質があるように、考えをあえて変える必要もない。

 

 

 私は家族の勧めもあり、精神病院に行ったのであるが、実はそれを恨んでいた時期もあった。病院に行かなければ、私は病気にはなってはいなかったのだと思う時期も多々あった。そんな思いを抱えてまたうつになったりしたので、誰かのせいにはしないようにした。それが病にとっては効果的だと思うし、誰かの責任だと思って生きる人生は自分や周りをも悲しませる。

 

 

 この病気は私の経験から少し読み取れるように、本人も周りも病の進行について理解が掴めないところにある。今、自分(本人)がどんな状況にいて、無理していないかを文章に残して目で見て整理をするのも効果的である。また、人間は質の良い睡眠を取るのは重要に思う。自分がちゃんと眠れているか、夜中や朝方に何度も目を覚ましていないか、書き留めるのも効果的。そして、眠るためにはある程度、体を疲れさせてあげる。散歩などは効果的で1日8,000歩、歩くと程よい疲労が出て良い。逆に1日に3万歩とか極端に歩き過ぎると疲労が溜まりすぎて体調が悪化することもある。ほどよい距離をほどよく歩くのが疲労に関しては良いように思う。

 

 ちなみに、私は睡眠導入剤も病院にかかってから15年以上飲んでいる。こちらもメリットやデメリットはあるが、私の考えとしては眠れないのが一番苦しいので、眠剤の力は借りている。ストレスのかかる仕事をしていた時は眠剤を飲んでも効きにくいこともあったが、全く眠れないということはなかった。

 

 

 

 ある日の受診日に、私は主治医に気になって聞いてみたことがある。

 

「先生に一つだけお伺いしたいのですが、躁うつは、軽い躁状態を維持して生活をすることはできますか?例えば、人生経験を積んで人の気持ちが分かるようになり、薬の力も借りたりして」

 

 先生はすっと背筋を伸ばしてこう答えた。

 

「それが理想的です。でも、なかなか難しい。単極性のうつと比べて躁うつは気分の波がどうしてもあるので、やはり薬の力を借りながら社会や人生経験を積んで、休日はしっかりと体を休めるのがよいですね」

 

 

 私は一縷の希望を持っている。軽い躁状態を維持してこの世界を生きれたらどんなに生きやすいだろうかと。私はそれを目指してこれからもこの病と共存していきたい。