落合莞爾氏の著書が、これまで読んでた古代史や近代史では、

もっとも納得性が高い。

 

アマゾンでの落合莞爾氏の書籍評価では、

「京都皇統から」とか「さる筋」とか姿かたちが見えないところから仄聞(そくぶん)した、

ともっともらしいことを言って、内容は突飛すぎる、という評価もちらほらある。

 

これについては、落合莞爾氏が書いているように、

であれば、あなたの先祖も伝承でしかない場合は誰が証明してくるのか、

という話。

 

そして、新聞でも情報なんて好き勝手いじられているのに、

歴史については教科書を信じ切るのもおかしな話だろう。

 

ということで、落合氏の本を読んで、記紀について。

 

・神代はあまり気にしないでいい様子

・高天原は、北肥後にあった

・人代になったら、事績はそれなりに信じていい様子

・書かれたことより、書かれなかったことにこそ秘密がある、

 と考えるのが洞察。

 事績が書かれていないからいわゆる「欠史8代」として、

 架空とするのは愚の骨頂。

 自虐史観刷り込みの一環が、半島優位説の流布。

・欠史8代の中の皇族から生まれた氏族が「臣」の姓を得ている。

 「連」は、天孫に従ってきた有力豪族。

 鳥越憲三郎氏の説は正しい。

・ただし、系図については、継ぎはぎがある

 しかし、Y遺伝子については、ウバイド王統で繋がっている

・皇統は原則直系相続。

 兄弟相続が一般的など唱える学者や歴史家は噴飯もの。

 兄弟相続はエジプト流の系図操作の可能性がある。

・古事記は国内向け、日本書紀は海外向け、というのはやはりその様子。

 多人長説についての言及はないが、古事記が712年、日本書紀720年は

 彼も特段の疑義を呈していないので、それでいい様子。

・聖徳太子は実在するし、聖徳太子は竹田皇子。

 (聖徳太子不在説も、外国勢力による日本弱体化施策の一環)

 

他にも色々あるが、とりあえずこれくらいで。

 

ずっと自分に、記紀はそのまま読めばいいのです、

と諭して下さっていた方がいたのだけど、今更ながら反省。

申し訳ありません。

 

一人でも多くの日本人が落合莞爾氏の書籍を読み、

正しい(であろう)日本の古代史と近代史を知っていくことを願いたい。

読み進めるほどに衝撃を受けながら読んでいる。
落合莞爾氏の書籍はすごい。
 
大変内容が深い。
 
これまでも、石渡信一郎氏や澤田洋太郎氏などの書籍でも、
ファクトベースでの思考から考証を進められてはいて、
それらの書籍にも納得性を感じてはいた。
しかし、同時に何か判然としない違和感も持っていたのも事実。
 
その違和感が、自分の知識のなさなのか、
何か別の理由があるのかわかっていませんでしたが、ようやくそれがわかってきた。
 
各事象についての突き詰め方、気にすべき点を放置しない点が、
他の著者と落合莞爾氏では違うのだ、ということがわかった。
 
彼も鳥越憲三郎氏の論考を引用しているが、
「臣」、「連」についての区別が重要だということに触れている点が、
他の著書と違う点とまず感じた点だ。
 
氏姓制度は、古代日本において重要な制度であった、
ということは理解していても、どんな一族に「臣」と「連」使い分けていたのか、
というのは、これまで読んできた著者たちも言及していない。
 
あと、感じたのは、日本と世界の繋ぎ込み方。
ほとんどの著者は、日本と中国と朝鮮半島とで考えがちだが。
しかし、落合莞爾氏の視点は、ユーラシア大陸全般に及ぶ。
大変壮大。
 
通貨発行権を利用して、今世界をコントロールしていると言われる、
ハザール国の末裔の人々(ロスチャイルドやウォーバーグなど)も、
ワールドワイドであり、かつ、源流は古代エジプトやバビロニアにいきつく、
というように、古代の人々は我々が想像しているよりずっと活動範囲が広く、
そして、年代を経ても各地に散った人々のネットワークは保持されていた、
ということを感じる。
 
この年代を経ても後代に伝えられる例としてすごいと思ったのは、
日本史の大家上田正昭氏がユダヤ十支族の末裔であり
古代の話を引き継いでいたという話。
 
亀岡穴太村の上田家の天井裏には古代から引き継がれた資料があり、
縄文族や倭族やウバイド人(ユダヤ同様中東人だが別の人々でシュメール系)など、
ユダヤ十支族より先にいた人々に背乗りしてきたことを伺わせる、
様々なことが書かれているとのこと。
 
落合氏は、物部氏と尾張氏がユダヤ十支族系であり、
海部氏や海氏に背乗りしたことを考証し、
祖先の火明命を無理やり皇統に繋いだということを述べている。
 
古代史好きなら知っている、海部氏系図が実は偽造であったが、
上田氏が関わって無理やり国宝に指定されていった経緯なども詳述されおり、
他の著書と思考の範囲と深さが全く別物だということに驚かされる。
これに先代旧事本紀が水戸光圀に偽書とされた話も関わってきて、
ユダヤ十支族の執念の凄さを感じる。
 
つまり、古代日本史を考える上で、誰もが引っかかっているけど放置されている、
様々なことに解を出されているのが、落合氏が別格だと思ってしまう点。
 
彼の主張はにわかには受け入れがたい、突飛もない話が出てくる。
ウバイド人、ワンワールド勢力、国体勢力(日本の)などなど。
 
まだまだ、自分も受け入れきれていない点もあるが、
これまでの著者の話を下敷きにしながら、彼の著書を読み重ねていけば、
きっと見えていなかった古代日本史の姿が見えてくるのではないか、
という手ごたえを感じている。
いろいろな書籍を読んで今考えていること。

船や海に詳しい長野正孝氏によると、
中国で帆船が誕生したのは後漢になる頃らしい。
日本で帆船の使用始まったとされるのは、応神天皇の頃らしい。
ざっくり言って400年頃。
それまでは当初は丸太船で、その後準構造船での手漕ぎ船らしい。

平野も今より少なく、手漕ぎで人力のためこまめに停泊地が必要ということで、
その頃は瀬戸内海は平野が少なく、地元勢力はいても、
一つの勢力が航海を続けるには困難だったらしい。
また、丹後半島も手漕ぎで超えるには停泊地がなく無理だそうだ。
そのため、メインの航路は日本海で、丹後半島の西から川を遡上して、
途中から陸に船を揚げて船を曳いて、山を越えて川に出て播磨から瀬戸内海に出たらしい。
丹波、丹後、但馬(タンバと読める)、播磨辺りに1つの大きな勢力が存在してたとのこと。
ある学者が、淡路島をいれて、五丹王国と言っていたような。
播磨も転訛すれば、ハリマをバンマ→タンマ→タンバと逆算できるかもしれないとも思う。

そして応神とされる人物が帆船技術を導入して、
日本海側を手漕ぎを普通列車としたら帆船を急行的に運用して丹後半島を越えて、
敦賀を拠点として北陸や陸曳き船やら馬やらで琵琶湖まで出ていたため、
応神の足跡が敦賀あたりに神社で祀られることが多くなるらしい。
応神は豊の国を足掛かりに勢力を広げたので、
応神は宇佐神宮に祀られ、大分と丹後半島を西からぐるっと回った先のの伊根町に
舟屋と呼ばれる海岸に建つ2階建てで1階が船置き場で、2階が家屋という
独特の建築形態で共通し、共に海部郡や海部氏の痕跡があるのも頷けることになる。

その後、400年代に瀬戸内の航路整備(港が置かれる)がなされ、
帆船が瀬戸内を航海できるようになって日本海交易が廃れ、
それに合せて日本海側の古墳の規模が縮小するという事実とも一致。

こうして5~6世紀を迎える。

九州は、多分この時に日本書紀に書かれているような4つの国(連合体)があったはずだ。
あとは吉備地方を押さえて瀬戸内交易を支配した勢力、
近畿エリアを主に騎馬隊の武力で押さえた勢力、
九州勢力のどれかが瀬戸内を避けて友好を築いていた、
高知側の勢力、和歌山~東海にいくつかあった勢力が想定される。
関東エリアは騎馬民族に有利な平野が広がるので多分海洋族より騎馬系、
北陸の日本海側も平野がありつつ帆船による交易が必須だったので陸海勢力の混在、
東北は海洋族と縄文文化を残した人々が混在、という感じだったと想像。

手漕ぎ船全盛の時代は、琵琶湖~大阪湾までは川の水運が重要だったはずで、
帆船になったら騎馬民族が優位になったかなと思う。
ただし、物流をある程度押さえる勢力として、
日本海側と瀬戸内側両方に影響力をもった可能性がある。

あるタイミングで、同族とされる海部氏と尾張氏が丹波エリアと尾張エリアに分断され、
それぞれで存続を図った形跡は残っている。
しかも、これらの勢力下に出雲大社、伊勢神宮、熱田神宮があるので、
祭祀権はこの2氏が保有していた可能性が高い。
また和歌山にもイタキソ神社があって古いので、
この辺りに勢力をもった海洋系の勢力があったのかもしれない。

陸上特にある程度の平野があるところに、
騎馬民族系が存在していたと思われる。
つまり、大和は川と徐々に陸化していた大和湖と陸化した平野で、
どちらかというと騎馬民族優勢の水運系と騎馬系の共存だったと想像される。

いろいろな勢力が入り乱れていたのがこの時代の勢力図というのが現時点の結論。



武烈天皇と文武天皇の共通点。

それはいずれも新羅の実在した王の名前を持つ天皇ということだ。

ただし、文武天皇は淡海三船が最初諡号際には諡号されていない。
後々諡号されている。
ということは、文武天皇とされる人物の存在は疑わしいことになる。

最初、武烈天皇~文武天皇までが新羅系だったというのを暗に伝えているのかと考えたが、
武烈天皇の後に、これまた怪しい継体天皇がきているので、
とすると、武烈天皇までが新羅系だったという予測の方が正しい気がする。

とした場合、継体天皇が昆支と関係して百済系ということも繋がるし、
武烈天皇までは倭王武の範囲内であって、
倭王たちが執拗に百済の支配権を南朝に求めたことにも繋がる。

さらに継体の後の欽明も生年記述がなく、継体の死去時期に朝鮮の史書に王、
皇子の同時死亡記事があるなど、欽明もクーデターを起こした気配がある。

そんな欽明天皇の和風諡号は天国排開広庭であり、
隋書に出てくる阿毎多利思北孤の阿毎(あま:天)に繋がる。
また、間が飛んで天武天皇の和風諡号は天渟中原瀛真人で天が付く。

そこで以下のようなことを想像してみた。
前提は、継体が百済王族系とい話、天智が白村江で百済支持だ。

①継体が筑紫君磐井を滅ぼし、②欽明がクーデターを起こし、③乙巳の変、④壬申の乱という4つの出来事について、
①継体:百済系②欽明:新羅系③天智:百済系④天武:新羅系と交互になる。

また、欽明から天皇の系統が3系統出ており、それが敏達、用明、崇峻である。

物部氏と蘇我氏の争いが書かれていても馬子の妻が物部氏であったり、
壬申の乱でも蘇我系で分かれていたり、というように、
この辺りは同族争いに近い形で争いがあったということが想像がつく。

また、蘇我氏も物部氏も実は天皇(それに近い)であったとすると、
血なまぐさい争いが起こっていて、それが崇峻暗殺や物部氏と蘇我氏の争いや
王統の変更(崇峻から敏達の孫の舒明)などに象徴されているのではないだろうか。
(日本書紀通りに、蘇我氏が単なる豪族だとして、
 国記や帝紀など天皇が持つべき書物を持っているのもおかしい)

隋書でも倭国の初回接触では権力の二重構造が示唆されていて、
次回接触ではその二重構造を直した旨が記載されているので、
権力争いがこの時期あったのではないだろうか。

この頃の天皇の婚姻が、いとこ同士やおじ・姪など近親婚が続いているのも、
権力争い隠そうという意図の裏返しかもしれない。

本当は、いくつかの権力主体がいて、それぞれに嫁いでいたのに、
権力の主体を天皇に一元化して表現しなければならなかいので、
近親同士での婚姻になっているのでないだろうか。

つまり、この時期の天皇は架空か、
その時期もっとも有力だった人間が表現されていてバラバラの系図のつぎはぎ、
ということだ。

この時代の天皇の和風諡号が、橘だの息長だの泊瀬部だの豪族のような名前が続いているのも、
そういう権力争いがあったことを示唆しているように思う。

よくよく考えてみると、朝鮮半島があれだけ混沌としている中で、
日本国内だけが平穏であったはずがない。

日本国内には、渡来系氏族という形で表現されるが、
百済、新羅、加羅に出自を持ち、朝鮮半島に血縁や権益をもつ勢力が多くあり、
常に離合集散が繰り返されていたはずだ。

それが古墳で騎馬民族を想起させる武器・武具が副葬品として証拠としてある。

そして、かたや海洋族は常に海運業者であり、
お金(資産となるもの)を出してくれれば運ぶという姿勢で、
独立した勢力だったと想像される。
イメージは、戦国時代の瀬戸内の村上氏だ。

海洋族は独立勢力であって本州本土にも拠点が多数あっただろうが、
仮に騎馬勢力に脅かされた場合は島に逃げれば追われない。
(淡路島、瀬戸内の島の数々、隠岐、佐渡島、沖ノ島、姫島などなどで、
 多くが国産みで出てくることも興味深い。)

もしくは、高地性集落のような高地に逃げれば馬の運用は極端にしにくくなり、
海洋族でも扱えれば弓矢や剣での勝負もしやすくなるだろう。

高地性集落の存在理由についてはいろいろな説があるが、
個人的には高地性集落は海洋族にとっての住居群兼砦であったと考えたい。

この高地性集落の高防御度版が、九州を中心に西日本に点在する、
神護石や朝鮮式山城と呼ばれる施設と想像できる。

話変わって。

多くの権力主体があっても、その最高位に位置する「タマ」となる存在があったはずで、
おそらくそれが、在来になっていた周王室血統の他、百済王族血統(、新羅王族血統)だろう。

新羅王族血統だけカッコ付きにしたのは、新羅の一部は弁辰と呼ばれ倭に近い臭いがあり、
騎馬民族の一派が同化した流れもあるはずで、前者だと周王室、後者だと貴種性がない、
ということになると考えられるからだ。

逆に百済王族血統になぜカッコがないかというと、
百済のエリアもかつては馬韓で複数の国があったが、
その国のどれかが辰王と呼ばれる辰韓を治める王を出していたからだ。

その辰王だけなく、辰韓エリアに逃れてきてた秦時代の移民に土地を与えたのも馬韓であり、
百済エリアは少し他と違う性質をもっている。
よく平安時代に、源平が貴種として地元豪族の旗印になったと言われるが、
それの原始版がすでに古代日本に存在したということかもしれない。

そして、その最上位のタマに分類される1つが筑紫君であり、
筑紫君磐井を継体がどうかしようとしたが思いを果たせず、
彼は新羅に逃れたが、その血統と近いかその血統を取り込んだのが、
蘇我氏とされる王族かもしれない。

蘇我氏は、権力者として振る舞ったが、最上級のタマは新羅にいて、
新羅はそれを利用して加羅諸国をまとめていき、日本にあっては蘇我氏が連携をとっていた、
という想像はできないだろうか。

こういう想像に思い至ると、蘇我氏が仏教導入で百済との結びつきが述べられているが、
実はこれは真実を隠す意図で、蘇我氏は仏教導入を百済とは推進していないかもしれない。
新羅に逃れたタマが仏教を進めているとか言って、仏教を導入したのかもしれない。

妄想が多いと思われると思うけど、古代日本史は妄想が許される分野。
以前書いたが、古代日本は海や川の港を拠点とした都市国家の、
フラットな関係性に基づく連合体であったはずだ。

明治になって鉄道が敷設され、内燃機関の自動車が走り出すまで、
大量物流を担っていたのは船であり、
人口が少なくて地上の権力の密度が低い古代では、海洋都市国家が主導権を握っていた、
と考える方が理にかなっている。

しかも、古代ギリシャの都市同盟を見ても、海洋都市国家同士は横のつながりだ。
アテネが中心に都市同盟が成立していたが、その紐帯の力は、
その連合体にいることで貿易や物流による利益や便益だ。

そして、それぞれの都市国家に王的な人間はいても、連合は割とフラットな関係で、
支配被支配の関係ではないと想像できる。
アテネ中心の同盟か、スパルタ中心の同盟かいずれかを選ぶ自由も、それぞれの都市にあった。

また、利益をもとに繋がっているだけであり、
海洋民は土地から収穫を得て生活をしているわけではないので、
領土を求めての侵略戦争は起こしにくいだろうということが自然と推理できる。

農耕に立脚した都市国家と交易に立脚する海洋都市国家は、
互恵の関係が成り立っているので、原則殺戮を伴う争いは起きにくいことも想像ができる。
互恵の関係が崩れた場合は、おそらく農耕都市国家の方が人口が多いので、
武力によって支配被支配の関係になる可能性はある。

崩れるタイミングは、海洋都市国家から物資を得なくても
別の方法で物資を得られる手段を得た時だろう。
つまり、物流を複数の勢力が行う場合だ。

逆に言うと、そういうタイミングまでは、
侵略や征服というような表現は登場しにくいことになる。

このことが中国の史書にも反映されていると気づいた。

卑弥呼のところでの記述は共立。
倭国大乱の記事については、大乱の中身が記述されていないものの、
識者の中でも述べている人がいるが、この大乱は領土獲得戦争ではなく、
鉄などの交易利権の争いだったと考えられる。
時期も後漢が衰退している時期であり、高句麗や公孫氏が勢力拡大をしつつある時期だ。

卑弥呼の時代より200年以上後になるが、
倭王武は南朝の宋への上表文で国内の征服話と朝鮮の征服話を入れている。

この2つの記述の違いは、
倭王武の段階では、海洋勢力より地上勢力が権力を握れていることを示唆している。

また、共立ではない武力によって権力を保証出来ている王が存在していることも示している。

朝鮮と日本は、主に鉄を媒介にして強い結びつきがあったようであるが、
日本にある鉄を使い出したのは5世紀後半~6世紀初頭らしく、
それまでは鉄の塊を輸入に頼らなければならなかった。

そのため、海洋都市国家の交易船や新羅の交易船が鉄の物流を握っていた。

しかし、新羅の交易船の影響下にあった、もしくは、
利害が異なる海洋都市国家連合が複数来航できた地域は、
海洋都市国家との互恵関係が崩れ、支配被支配の関係が生まれた可能性もある。

その辺りが、山幸彦海幸彦の話に結集しているのかもしれない。

山幸彦に塩土老翁(しおつちのおじ)という海に関係する人間が力を貸しているので、
海幸彦に擬された海洋都市国家(連合)については、
山幸彦に擬された陸の勢力と塩土老翁に擬された海洋国家(連合)とが結びついて、
山幸彦を倒したことを象徴しているのかもしれない。

また、海幸彦が大綿津見神(海神)の娘の豊玉姫と結婚し、
ウガヤフキアエズノミコトを産んでいるが、
豊玉姫は肥前一宮である川上神社(佐賀市で有明海側)の主祭神であり、
豊玉姫は北部九州に足跡が多いようなので、
塩土老翁や大綿津見神に擬された勢力は北部九州や有明海側の勢力だったのかもしれない。

しかも、有明海側は徐福伝説が色濃くある上、
姫氏の末裔が熊本県の菊池郡あたり上陸したを示す文献(松野氏家系図)もあるので、
有明海側は中国系の勢力圏であり、宗教とも結びついて聖地化していたのかもしれない。

こう考えると、
阿蘇のピンク石が遠く近畿まで運ばれている説明もつきやすくなるかもしれない。

また、貿易航路が日本海側から瀬戸内海に広がる過程の中で、
宗教祭祀の総本山も有明海側から玄海側に、さらに宇佐に移った、
しかも、徐々に政治的権力は武力保持者に奪われ、
祭祀による宗教権力だけが残っており、
武力保持者の要請で居所を転々としたのかもしれない。

さらに、塩土老翁は時代が異なるが、武内宿禰との類似性も指摘されていて、
武内宿禰は海神の住吉神とも言われているので、
海洋都市国家の一派は、瀬戸内海航路に重心を移して栄え、
それが応神天皇の母神功皇后と夫婦の秘め事をしたとされる住吉神とも繋がってくる。

仲哀天皇が新羅に無関心に描かれているが実は親新羅派で、
それを排斥して親百済派だった武内宿禰が神功皇后とされる女性を娶り、
生まれた子供が応神天皇となったという筋書きも見えてくる。

神功皇后が新羅遠征しているのがその象徴として描かれていると考えられる。
そして、親百済派であったとした場合、武内宿禰の末裔とされるのが蘇我氏であり、
蘇我氏が親百済で仏教に執心していたのにも繋がるし、
武内宿禰が応神天皇の父(住吉神)なので、蘇我氏は応神系という理解もできる。

ただし、武内宿禰の末裔とされる氏族が葛城氏他いくつかあり、
山幸彦の兄弟に海部氏、尾張氏と始祖とされる火明命がいることも考えると、
海洋都市国家のいくつかには大きな祭祀権力を有した一族の血が入り混じっており、
どれもある程度正統性を持ちつつも、本宗とされる家柄もあり、
という状況だったのではないかという仮説も導き出すことができる。

ちなみに、火明命はニギハヤヒとも同一視されているので、
物部氏も関係してくる。

応神の五世孫とされる継体も、つまりは、上記の仮説に関係してくることになる。
とはいえ、応神自体は新羅人が多く住むと言われた豊国との関係性が深いし、
長野正孝氏のように応神は敦賀王国の国王だったという説を述べている。
応神が敦賀辺りに関係があれば、継体が近江や北陸に関係が深いのも繋がってくる。

百済王族の昆支が蘇我氏の実質的な始祖となり、
昆支の弟の継体が仮に親新羅派の応神系統に婿入りしていたとしたら、
在来の神道ではなく仏教にこだわった蘇我氏は、
継体が海部氏や尾張氏と関係を深めたおかで神道祭祀権を獲得できたことに反発し、
それが継体やその皇子がまとめて同日に死んだ旨の記載が朝鮮の資料にあるように、
実は継体ではなく昆支の息子とされる欽明が継体たちを抹殺して権力を握ったのかもしれない。
しかし、海部氏や尾張氏はこの行為に反発し、それが物部氏と蘇我氏の争いとして、
象徴的に描かれているのかもしれない。
(石渡説では、欽明が蘇我稲目)

こう考えると、物部氏がニギハヤヒの後裔であるとか、火明命とニギハヤヒが同一視されて、
物部氏が海部氏や尾張氏と同族とされるあたりも見えてきそうな印象だ。
継体の経歴や登場での記述に唐突感があるのは、
上記のようなことが関係しているのかもしれない。

海洋族と陸上民族の視点で考えると、
卑弥呼とその後の王権を同一の系統と捉えるには厳しい。

そして、そんな卑弥呼が、神武東征の先に落ち着いた大和に本拠があったとも考えにくく、
箸墓古墳が彼女の墳丘墓という可能性が低いし、
卑弥呼や箸墓古墳とセットで語られる纏向(巻向)遺跡は、
東海地方が最多で吉備地方の土器などが出てくることを考えると、
卑弥呼は東の人となってしまうこと含めても、
卑弥呼を大和に存在を求めるのは無理があると言えるだろう。
一つ大胆な仮説を思いついた。
隋書に出てくる、「阿毎多利思北孤」について。

通常、これはアマ タラシ(タリシ)ホコ(ヒコ)と読まれる。
ここでタラシが出てくるし、多分これをヒントに歴史捏造の日本書紀は、
タラシの名前を有する天皇家の人物を創作したという説もある。
神宮皇后も息長垂(タラシ)比売となっている。

ところで、このタラシ(TARASHI)だが、発音と聞き取りにおいては、
AとEは容易に転訛する。
ということで、TARASHIのうち、最初のAをEに置き換えてみたら、
TERASHIとなる。
これを阿毎多利思北孤に当てはめてみる。
アマテラシホコとなる。

アマは中国語表記で阿毎となっているだけで、日本でいくと天や海となるが、
天照シホコとすることができる。
ホコは、単純に矛であったり、ヒコとして彦としたり、ホコの別で法皇(法王)などの説がある。

なお、法王の場合は、蘇我氏が聖徳太子の真の姿として、
「上宮聖徳法王帝説」は蘇我法王に関する資料だという説もある。

別で書いたが、タラシを垂ではなく、
例えば日にあてた場合、天日矛となる書いたことがあった。

日は照と直接的に表現することを避けたと仮定したら、
天照矛となるし、天照で考えたら天照大神が思いつく。

物部氏の祖先とされるニギハヤヒの本名にも天照国照が付く。
そして、対馬にはアマテル神社が存在する。

以上のような事柄を考慮すると、以下のようなことは言えないだろうか。

・阿毎多利思北孤は天照法王(天照彦)というのが日本での呼び名。

・隋書で見られるように急に倭国王として傲慢になっているので、
 阿毎多利思北孤の時に日本がある程度大きな政治組織となった。

・それゆえ阿毎多利思北孤は、天照法王と称しつつ、
 天照大神を始祖神とする神話を創作していた。

・そして、同名の天照法王は神話を利用して自己の権威を高めようとした。

・仏教を推進した蘇我氏とされる阿毎多利思北孤は、
 天照を背負っている点からすると物部氏との関係性もあるが、
 仏教は百済系なので、物部氏の一派が百済と結んで日本で勢力を拡大した。

・物部一派から外れたのは、欽明天皇とされる人物の時で、
 百済の聖明王の「明」で想起されるように淡海三船は、
 欽明、用明、舒明、斉明と蘇我氏の事績と関わりが大きい天皇(実際は蘇我氏の分身)に、
 「明」を使った。

・欽明は継体の子とされるが、実際は昆支の子供という石渡信一郎の主張も考慮すると、
 継体はそもそも物部氏に関係する人物で、欽明の時に継体に叛旗を翻し政権を奪取した。

・海洋都市国家の連合体であった日本は、
 物部氏にしろ蘇我氏にしろ各地域の権力者同士の紐帯は重要で、
 蘇我氏が権力を握っても、実際は不安定な部分があり、それが乙巳の変に繋がった。

・蘇我馬子の時に蘇我氏の権力が安定し、天照が使われ、日本中の誰もが知っていたが、
 その後彼の事績を隠すために、創作された天照大神は最初太陽神らしく、
 男性であったのが女神とされ、蘇我馬子の事績消去工作がなされた。

・蘇我氏と物部氏同じ系統とした場合、物部氏は新羅と関係が深く、
 蘇我氏は百済と関係が深かったと仮定した場合、
 新羅と関係が深いスサノオと天照大神が姉弟という設定も、より納得できる。
 月読は、姉弟ながら影が薄いが、それは月読に仮託された一派が、
 九州や近畿から離れた東日本に勢力を築いていたとも想像できる。

・ただし、上記の予測だと、蘇我氏→親百済、天智天皇→親百済、天武天皇→親新羅なので、
 乙巳の変についての説明力が弱い印象となってしまう。
 蘇我氏は新羅の要素を持っていれば、
 天智天皇が対極の親百済ということも合点がいきやすいが、
 この親百済となってしまう点に考証が必要。
などなどが思いつく。

隋書からは当時の日本代表者が九州に近いポジションにある印象が大変強い。
遡れば、記述が怪しい筑紫君磐井の話も九州が舞台。

中世ヨーロッパの王家の動きを見ても、政略結婚で容易に支配域が広まったりするが、
つまり、当時の日本も朝鮮半島含めて、
婚姻関係で勢力図が容易に変わっていたのでないだろうかと思う。

その中で、外交に便利な九州に拠点を置いた勢力と、
内需における流通の要衝に拠点の大和に拠点を置いた勢力が、
同居していたのではないだろうか。

蘇我氏は、親百済でもあり親新羅一派も抱え込んでいて朝鮮政策に消極的である中で、
親百済の強硬派が乙巳の変を起こして白村江の戦いで敗れて勢力が後退し、
親新羅派の天武天皇が権力を握りつつ王権を強化し、
原日本書紀で蘇我氏を天照大神で顕彰しようとしたが、
藤原氏に邪魔をされて蘇我氏は天皇家としての存在を抹消され、
天照といえば蘇我氏であったのを打開するために、
天照大神を女神とする日本書紀を作成したということを推理してみた。

また、頭に戻って、天照矛が天日矛となり、
親百済でありつつも、天日矛が新羅に関係が深いように親新羅の匂いも残したか、
実は天日矛は百済で展開すべきところを百済と天照法王の関係性を消すために、
新羅を引き合いに出したのかもしれない。

まだ綺麗に整理されていないので、いろいろ考える必要があると思うが、
天照法王ということで思いを至らせるために、
古事記が彼の事績になる部分が推古天皇に置き換わり、
しかも、推古天皇までで記述が終わっているか、
という作者の意図ともリンクして考えることができる。

古事記は、太人長の創作説もありこれを支持するが、
イマイチ不可解な7世紀の謎解きのために書かれた書物なのかもしれない。
 
片山一道氏の「骨が語る日本人の歴史」という本を読んだ。
これも新たな発見をもらった。

弥生時代に該当する人々を弥生人とするのであれば、
その弥生人は地域によって千差万別とのこと。
そして、中国などの渡来人の形質を示すのは、
佐賀や福岡の北部九州の他、日本海側に見られ限定的で、
他のエリアは、縄文人的形質を残している人骨も多いとのこと。

この話は、実は長野氏の著書ともリンクする。

つまり、手漕ぎ船で日本海側を往来していたという記述と合致し、
その手漕ぎ船の担い手は渡来人であったということだ。

冒頭で書いた発見というのは、北部九州の中でも長崎などの北西部九州では、
渡来人の人骨が他の北部九州のように出てこない、という記述がきっかけだ。

長野氏の手漕ぎ船での移動では、航路にまんべんなく停泊地が必要ということであったが、
確かに長崎は海岸沿いに停泊地になりそうな平坦な土地が少ない。

前回書いた、有明海~筑後川~宝満川~陸曳き~御笠川~玄界灘というルートを想定すると、
長崎に渡来人の人骨が少ないことが理解できる。
交易のルートに長崎が入っていなかったということだ。

宗像氏と同族の水沼氏が、なぜ有明海側にいるのか不思議でしかたなかったが、
今回の発見で合点がいった。

玄界灘から有明海は実は、長崎を回る必要がなくダイレクトアクセスされていた、
ということが有力となる。

また、鹿児島側も長崎側と同様のようだ。
熊本での鉄の出土が多いので、おそらく熊本が海の交易ルートの終点であり、
広大な平野を背景にした人口密集地帯であったと考えれる。

有明海側の勢力がどういう勢力であったのか。
考察を進めていくにあたり少し前進した気がする。
長野氏の著書を読んで、理解できたことが他にもある。
大宰府と肥前国神埼荘の関係性についてだ。

平氏が大宰府への貿易品を私的に捌くため、神埼荘の管理権を欲した、
ということがどうしても理解できなかった。
博多湾に中国船が来てそこでやればいいのに、目につくから神埼荘にしたのか?
でも中国船はわざわざ有明海に回ってくれたのか?、
という疑問が残っていた。

大宰府は博多湾に注ぐ御笠川が大宰府の政庁の近くを流れ、
御笠川の東や南には、筑後川の支流宝満川が流れている。

日本の船は船底が平面で、江戸時代でも船曳きによって陸地を越えていた、
というのを目にして謎が解けた。
つまり、そもそも中国船を筑後川付近の神埼(当時は海に面していたと言われる吉野ヶ里のあたり)に来航させ、
そこで貿易品の取引をし、その後筑後川から宝満川を遡上して大宰府付近まで来て、
陸を越えて御笠川に入って大宰府に品物を届けたということが想像できた。
これでようやく、平氏がわざわざ神埼荘の管理権を欲し方も合点がいった。

そして、もう一つ理解できたことがある。

大和政権が全国的政権として語られることがあるが、
そんな全国的な政権を支えた豪族たちの支配地域が大和の平野部になく山沿い付近にあり、
それら有力豪族の大和以外の支配地域の言及がないのか不思議であった。

しかし、それも旧大和湖(かつて大和国のど真ん中に広く存在)があったことを知り、
つまり豪族の支配域は沿岸部にあったことが理解できた。

日本海側を手漕ぎ船での往来があり、陸の船曳きの後に琵琶湖に出て、
淀川から木津川を下って、また陸曳きして大和川や旧大和湖に出て、またしばらく陸曳きして吉野川に出る、
という物流の流れがあったのであれば、旧大和湖沿岸は琵琶湖沿岸にいくつも流通拠点の街が栄えたのと同様、
豪族の拠点もそういう物流拠点であったと想像できる。

ということで、豪族とされる人々は実は各地の王や有力者で、
その豪族の出張所としての交易の拠点があったとも想像できる。

海運力で力を有した各地の有力者という考えに基づくと、
物部氏が北部九州に痕跡があることも理解できる。

海運物流で考えたら、日本海側の海部氏と東海の尾張氏が同族なのかも理解できるし、
大和に拠点がある葛城氏や蘇我氏の祖先とされる武内宿禰が海と関係があり、
そんな彼が弥五郎どんとして鹿児島にも足跡が残っているか、ということも海運の有力者、
ということであれば納得もしやすい。
また、神話の大国主がいろいろなところに現地妻がいるのかも理解できるし、
大国主のモデルになった人間も海運の有力者ということに思いが至る。
それに、因幡の白ウサギが鰐(多分和邇氏の比喩)に傷つけられた話も、
海が絡むことも理解がしやすくなる。

海運関係者が有力者でありその有力者たちは、つまり、ギリシャのような都市国家と共和制とその中で共立される代表者がいた、
というモデルは非常によく理解でき、藤原京ができるまで、宮という名前で天皇の居所が転々とするのも理解できるし、
そんな宮も基本的にはある地域の有力者の出張所があったところ、ということが理解できる。

そして、居所を固定する藤原京を作った天武天皇は、海の有力者たちを従えた陸の覇者(共和制を否定)であったと考えられる。
長野正孝氏の著書、『古代史の謎は「海路」で解ける』を読んだ。
この本にはかなりの衝撃を受けた。

この本を読むと、出雲、丹波、丹後、但馬の謎だけではなく、
なぜ奈良に人々が集まったか、という謎が一気に解ける。
そして、それは古代日本の権力構造の読み解き、
山背大兄皇子~古人大兄皇子~大海人皇子時代の謎解きにも繋がって来ると確信した。

長野氏の著書で、衝撃的な話は以下の2つ。
・昔の日本の船は平底構造で西洋船のような竜骨がなかったが、
 これは造船技術の未熟さによるものではなく、
 帆が補助で手漕ぎが主流であった日本においては、
 海荒れの日の陸揚げやある程度の勾配の山であれば船を曵いて超えていた。
・中国でも帆船が普及し始めるのは、後漢の武帝の頃で、
 日本で帆船が登場するのは300年代。
 そして、この帆船が現れるまで、瀬戸内海を手漕ぎで越えるのは至難であった。
 つまり、神話で瀬戸内航海が描かれるのは時代錯誤。
 瀬戸内海の航路を開拓したのは雄略天皇とされる人物。

前者のことによって、出雲や丹波(丹後、但馬)の繁栄が説明されている。
出雲大社があるあたりは、当時は本州とは海で隔てられていて、
その間の海を進む際の停泊地として栄えており、
丹波エリアは船曵きの中継地として王国が栄えたと述べられている。

そして、後者の話しとして帆船で海運を始めたのが、
応神天皇とされる人間で、これまで手漕ぎで越えられなかった丹後半島を越え、
敦賀から畿内への曳き船ルートを押さえたことで、
敦賀王国が栄えて丹波王国は衰退したという推理が展開されている。
また、応神天皇とされる人物は、主に新羅エリアからの避難民を一旦豊前、豊後に移送し、
その後日本各地に植民させて行ったと書かれているが、
これも大変理にかなっている。

応神天皇を祀る神社が敦賀の気比大社で、
日本海側では敦賀界隈に彼を祀る神社が集中している、ということを書いている。
これは、手漕ぎで越えることができなかった丹後半島を回ったところにある、
現在の京都府の伊根町の名物の舟屋は、その風習があるのがこの町と大分だけ、
ということともリンクしてくる。
なにより、日本海側で特異とされる四隅突出型墳墓の存在と、
一部前方後円墳が入り乱れる状況の説明できるところも魅力を感じる。

古代の大量輸送は船であり、その船が曳き船で陸を通行し、
というショッキングな話は江戸時代でも記録に残っているらしい。
そして、敦賀~琵琶湖~大阪湾というルートと敦賀~琵琶湖~大和というルートが存在し、
そのルートを押さえた流通の元締めが権力を握っていた、
ということは大変理解できる話である。

そして、この海運と陸運が交わるのが、
古代では大きな湖が国の中央にあった大和であり、
大和は南にいけば吉野川~紀ノ川から太平洋沿いに東海に出られたわけで、
海部氏と同族の尾張氏が、それぞれ日本海側と東海側にいることは、
この曳き船交易の大きなネットワークで考えると繋がってくる。

ただ、海部氏の本貫地が大分なので、彼らは応神系とも関係が深いはずで、
しかし、曳き船文化圏と思われる籠神社(元伊勢)と関係があるため、
もしかしたら、帆船技術の導入に海部氏が大きな役割を果たしたと思われる。

この大きな流通ネットワークに大和も入っていて、
大和のど真ん中に大きな湖が存在し、その湖を囲むように、
古代豪族の本拠地とされるエリアが広がっている、という事実を考えた場合、
つまり、古代豪族とされる人々は海運と陸運を担った人々であり、
この時代の天皇所在地があちこち行き来するのは、
こういう運送業者が横並びで、その時々でカリスマ性がある人々がトップだった、
ということを想像した場合、それを裏付けることができると考えられる。

都市国家が横並びで共和制というのは、同じ海運で成り立っていたギリシャが彷彿とされる。

また、曳き船がネットワークを形成していたからこそ、
纏向遺跡が東海エリアの土器がより集中的にある事実も明快になると思う。
つまり、纏向遺跡は東海の流通関係者が集まるエリアで、
大和の環湖交易の拠点の一つが纏向だったとも想定できそうだ。

曳き船手漕ぎ船ネットワークでいくと、纏向と九州はもっとも遠いことになり、
そのため纏向遺跡で九州系の土器が少ないことも納得性が高くなる。

そして、手漕ぎ文化の祭祀の中心杵築大社(出雲大社)であり、
元出雲とされる丹波一宮の出雲大神宮であり、帆船文化の拠点が宇佐神宮であるとすると、
二礼四拍手一礼の風習が出雲大社と宇佐神宮だけというのも、納得性が高まる。
そして、海洋族が何かしらの論理の元に一つに近かったが故に、
前方後円墳が全国規模で無理なく広まったのではないかと思われる。
改めて書きたいと思うが一つ思いついた仮説。

山背大兄皇子が攻め滅ぼされ、2年後に乙巳の変となるように、2年間で蘇我氏関係者がこの世から消えている。

古人大兄皇子の立ち位置も微妙。
中大兄皇子が権力を掌握し、間が空いて生年不詳の大海人皇子が登場。

この辺りに秘密がありそうだと感じての仮説。