長野氏の著書を読んで、理解できたことが他にもある。
大宰府と肥前国神埼荘の関係性についてだ。

平氏が大宰府への貿易品を私的に捌くため、神埼荘の管理権を欲した、
ということがどうしても理解できなかった。
博多湾に中国船が来てそこでやればいいのに、目につくから神埼荘にしたのか?
でも中国船はわざわざ有明海に回ってくれたのか?、
という疑問が残っていた。

大宰府は博多湾に注ぐ御笠川が大宰府の政庁の近くを流れ、
御笠川の東や南には、筑後川の支流宝満川が流れている。

日本の船は船底が平面で、江戸時代でも船曳きによって陸地を越えていた、
というのを目にして謎が解けた。
つまり、そもそも中国船を筑後川付近の神埼(当時は海に面していたと言われる吉野ヶ里のあたり)に来航させ、
そこで貿易品の取引をし、その後筑後川から宝満川を遡上して大宰府付近まで来て、
陸を越えて御笠川に入って大宰府に品物を届けたということが想像できた。
これでようやく、平氏がわざわざ神埼荘の管理権を欲し方も合点がいった。

そして、もう一つ理解できたことがある。

大和政権が全国的政権として語られることがあるが、
そんな全国的な政権を支えた豪族たちの支配地域が大和の平野部になく山沿い付近にあり、
それら有力豪族の大和以外の支配地域の言及がないのか不思議であった。

しかし、それも旧大和湖(かつて大和国のど真ん中に広く存在)があったことを知り、
つまり豪族の支配域は沿岸部にあったことが理解できた。

日本海側を手漕ぎ船での往来があり、陸の船曳きの後に琵琶湖に出て、
淀川から木津川を下って、また陸曳きして大和川や旧大和湖に出て、またしばらく陸曳きして吉野川に出る、
という物流の流れがあったのであれば、旧大和湖沿岸は琵琶湖沿岸にいくつも流通拠点の街が栄えたのと同様、
豪族の拠点もそういう物流拠点であったと想像できる。

ということで、豪族とされる人々は実は各地の王や有力者で、
その豪族の出張所としての交易の拠点があったとも想像できる。

海運力で力を有した各地の有力者という考えに基づくと、
物部氏が北部九州に痕跡があることも理解できる。

海運物流で考えたら、日本海側の海部氏と東海の尾張氏が同族なのかも理解できるし、
大和に拠点がある葛城氏や蘇我氏の祖先とされる武内宿禰が海と関係があり、
そんな彼が弥五郎どんとして鹿児島にも足跡が残っているか、ということも海運の有力者、
ということであれば納得もしやすい。
また、神話の大国主がいろいろなところに現地妻がいるのかも理解できるし、
大国主のモデルになった人間も海運の有力者ということに思いが至る。
それに、因幡の白ウサギが鰐(多分和邇氏の比喩)に傷つけられた話も、
海が絡むことも理解がしやすくなる。

海運関係者が有力者でありその有力者たちは、つまり、ギリシャのような都市国家と共和制とその中で共立される代表者がいた、
というモデルは非常によく理解でき、藤原京ができるまで、宮という名前で天皇の居所が転々とするのも理解できるし、
そんな宮も基本的にはある地域の有力者の出張所があったところ、ということが理解できる。

そして、居所を固定する藤原京を作った天武天皇は、海の有力者たちを従えた陸の覇者(共和制を否定)であったと考えられる。