さて、病院の待ち時間はそれなりに長いのですが、わたしにとっては貴重な思索の時間。
番号をを呼ばれると、おおぅい、もうちょっと待ってくれ、と思うこともしばしば。
ということで、この時間にもうひとつ記事を書いておきます。
先ほど書いた、「オストメイトではなくなっている」ということについてです。
オストメイトである身体的状況は変わらないのですが、「オストメイトではなくなっている」というのはどういうことか。
結論から言うと、逆説的ですが、ある状況を受け入れると、その状況であるという意識は薄れていくのだと思っています。
受け入れる、というと恐らくマイナスイメージがつきまとうと思います。
何か、がまんしてその状況を受け入れなければいけない、そしてそのがまんをずっと続けなければならない、と。
でも、そう考える時に、その人はいったい何をがまんしているんでしょうか?
ストーマに関連していうと、
「普通の人間でなくなる」
「障害者であることを認めなきゃいけない」
「偏見に耐えなければいけない」
「処置の手間が大変すぎる」
とか、ですかね。
じゃあ、誰があなたのことを
普通の人間じゃない、とか
障害者だ、とか
言うのですか?
そう言い聞かせ、何度も念じ、自分をそうだと考えて縛り付けているのは、それを一番強くやっているのは、自分ではないですか?
確かに、オストメイトであることを明かしたことで、影で軽口を叩かれるというケースがはあると思います。そのことで仕事を失うことも実際にはあると思います。
でも、そういう対応をする人はストーマの知識があるかないかということではなく、
ただ単に、あなたにとって、やさしくないんです。
もしそれが組織なら、人にとってやさしくないんです。
わたしは結構な人数の知り合いに自分の状態を明かしました。いま通っている職場の責任者にもです。その人たちは、ストーマについて初めて知った、という人が多かった。
でも、嫌な対応を、嫌な言葉を投げつけられたことはありません。
ストーマについて知らないということは、関係なんです。
そんなことを言う人は、ただ、やさしくないんです。
そして同時にわたしたちは、偏見を持たれると感じる場面があったとしても、それは少数で、多くの人はそんな対応をしないことも知っています。
障害者手帳を見せても、ゴチャゴチャ聞かれたり、言われたりしたことはありません。
なのに、自分が自分のことを障害者だと強く思って、自分で苦しんでるなんて、損です。
ストーマの自分を受け入れられないと、貼り替えるたびにオストメイトである自分が許せなくなる。ベンを捨てるたびに、「普通」ではない自分を呪うことになる。
自分自身を呪ったって、何も変わりはしないのに。
そしてその度に、オストメイトである自分を、他ならぬ自分を、嫌うことになる。
一方で、受け入れるということは、その自分を呪うという連鎖を断ち切る、ということだと思っています。
自分を許す、自分にやさしくする、自分が豊かに生きられる心になる、そういうふうに言い換えてもいいと思います。
そうすると、オストメイト(嫌)=自分(嫌)、という関係が崩れます。
自分はオストメイトなんだけど、多少の手間以外では、そんなことはどうでもよくなってくる。
自分がオストメイトであることなんか、どうでもよくなってくる。
人がどう思ってようが、しようがないものはしようがない。
だから、「オストメイトではなくなっていく」と書きました。
オストメイトであることで泣いている方、
これからオストメイトになると言われて泣いている方、
どうか泣かないでください。
自分を呪うその心の有り様に、逃れられぬと思うその苦しみに、こちらまで悲しくなってしまいます。
ただ、最後にひとつ助言するとすれば、手術で誰が執刀するか、ということには徹底的にこだわってください。そこが、患者の最後の生命線です。
ちょっとでも信頼できなければ、そして状況が許せば、信頼できる医師を探してください。
術後のことは、その一点にかかっていると言っても過言ではありませんから。
ああ、もうお昼になるのに、まだ呼ばれない、、、。