2024年9月のテーマ

「ちょっと怖い本」

 

第二回は、

「ジーキル博士とハイド氏」

スティーヴンスン 作、村上博基 訳、

光文社古典新訳文庫、2009年発行

 

 

です。

 

この本の解説に、『あまりにも有名すぎて、かえって読まれることの少ない名作というものは、世に少なくない。』とあります。

 

全くその通りで、私自身これまでこの本を読んだことはありませんでした。

"ジキルとハイド"(ジキルはジーキルと発音するのが正しいらしいです。)という言葉が二重人格だとか、人間の二面性を表す言葉として、もはや慣用句のように使われているので、原作を読まなくても大体の内容はわかってしまうというのが物語を読もうという気をそいでしまうのだろうと思います。

 

この本をホラー小説と位置付けてしまっていいものか、私にはわかりません。オカルトというのもしっくりこないし、サスペンスというのもちょっと違う。怪奇小説というのがまだイメージに近いかもしれません。ただ、この本を読んだとき、私が恐ろしさを感じたのは確かで、それをハイド氏が"怪物"として描かれているからだと単純化するのは腑に落ちないのです。

 

内容を良く知られている物語ではありますが、まずはあらすじを。

慈善家として名高い医師・ジーキル博士の友人である弁護士のアタスン氏は、街中で少女を踏みつけて平然としている男・ハイド氏の話を、旧友から聞きます。

ハイド氏はジーキル博士の家に自由に出入りしており、ジーキル博士はことのほか彼に配慮している様子。

友人として心配になったアタスン氏は、ハイド氏のことを調べ始めます。ハイド氏の悪徳ぶり、凶悪ぶりを知っていくうちに、とうとうハイド氏による殺人事件が起こってしまうのです。

 

ジーキル博士とハイド氏がその後どうなっていくかは物語を読んで確かめてもらうとして、問題は、なぜハイド氏が生まれたのかということです。

ここから先はネタバレを含んでしまうので、本来なら書かないのが筋なのですが、物語があまりにも有名なので、ほとんどの方が大体の内容を知っているという前提で、今回は書こうと思います。

その結果、「え、思ってたんと違う!?」となる部分もあると思うので、そこから興味を持っていただけるんじゃないかと思うので。ネタバレ禁止の方はここで引き返してくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

ジーキル博士は生まれつき二重人格だったわけではありません。

人間の良い面と悪い面を分離する試みの結果、ジーキル博士の人格の暗い部分がハイド氏になった…というわけです。

人間にはいろんな面があって当たり前だと思います。どんなに高潔な紳士であっても、その人生において、人を憎む気持ちが全くない、常に自分のことよりも他人のことを優先して考えるような人はいないでしょう。

おそらくどんな人だって、自分がつらい状況にある時は物事を悪くとらえてしまいがちになるでしょうし、愛する者に害をなすような相手に対しては警戒したり憎んだりしてしまうこともあると思います。

そもそも人間を善悪の二面性だけで語ろうとすることが間違いなのでは?と私なんかは考えてしまうのですが、ジーキル博士は高潔な行いを心がけ実践している自分の中にも、悪徳に惹かれる気持ちがあることを認めていて、相反する気持ちを善悪ととらえたようです。

 

ハイド氏が生まれた結果、あろうことかジーキル博士は一時の解放感に浸り、段々とハイド氏でいるときの快感に抗しきれなくなっていきます。ハイド氏はジーキル博士の分身ですが、顔つきや体格まで変わってしまうため、同一人物とは誰も気づきません。

ハイド氏が世間で悪徳とされている場所に出入りしたり、暴力をふるって人を傷つけたりしても、ジーキル博士はジーキル博士でいるときにその償いを十分にするようにしており、それでプラスマイナスゼロだとさえ思っているのです。

 

ハイド氏が取り返しのつかないあやまちを犯してしまった後は、さすがに苦悩するようですが、私には、前述したジーキル博士の心理がとても恐ろしく感じます。

ジーキル博士にはもともと悪に惹かれる気質があったのに、それを押し殺していた結果、その気質が解放されたときに歯止めがきかなかった…と解釈するのは短絡的だと思うのです。

 

一つの面しか持たない人はいません。状況次第では誰でも"望ましくない自分"が出てくることがあるだろうし、望むと望まざるとにかかわらず、自分のとった行動や選択の責任は自分に降りかかってきます。

ジーキル博士は、ハイド氏の行ったことについてはある意味で"自分"ではないとして、責任を取らなくてもよい立場に自らを置いています。"自分"ではないので、ハイド氏が悪徳の行いで得る精神的な快楽だけを楽しんでいるのです。

それを思うにつけ、『自分が責任を取らなくてもいい状況ならば、人間は悪辣なことも平気でやってのける』ということの一例のように感じるのです。だからこの物語を、"ジーキル博士個人に起こった悲劇"というとらえ方ができませんでした。

 

もちろん、実際には、途方もない試みをやってのけたジーキル博士の物語なわけです。

人が見ていようが見ていなかろうが関係なく自分の信念に従って行動を変えない人もいるでしょう。

この作品を読んだからと言って、人間性をそこまで悲観することはないのです。

 

ただ、この作品が出版当初からすごい反響をよんでベストセラーになったことや、作品を読んでいなくても「ジキルとハイド」という言葉の指す意味が通じる現在の状況を鑑みると、この作品の読者は知らず知らずのうちに自らの中にも暗い一面が潜んでいると感じてしまうのじゃないかと思うのです。

 

人は誰でも誘惑に弱くなってしまうことがある。そんな時が訪れたらと思うとなんだか落ち着かない。

ハイド氏の行動がエスカレートしていくにつれ、読者自身も不安になってしまうのかもしれません。

ハイド氏については、フランケンシュタインやドラキュラと同列に"怪物"という扱いをされているのを映画なんかで観たことがありますが、本当の"怪物"はジーキル博士の方だったのではないかと私は感じました。

 

というわけで、私にとってこの本は「ちょっと怖い本」だったわけです。

ジーキル博士とハイド氏の結末を是非とも読んでみてもらいたいと思います。おすすめいたします。(*^▽^*)