2023年6月のテーマ

「"ホームズ"が出てくる本」

 

第一回は、

「辮髪(べんぱつ)のシャーロック・ホームズ 

 神探福邇(しんたんフーアル)の事件簿」

莫理斯(トレヴァー・モリス) 著、舩山むつみ 訳、

文藝春秋 2020年発行

 

 

 

です。

 

この本を読んだことが、今月のテーマを決めるきっかけになりました。

シャーロック・ホームズ物のパスティーシュ(模倣)で、舞台はコナン・ドイル作のホームズと同時代の19世紀末、香港

原著は2017年に香港で刊行された「神探福邇,字摩斯」です。中国語で"ホームズ"を"福爾摩斯(フーアルムオスー)"と書くそうなので、それを一字もじって"邇(アル)"に変えたタイトルを直訳すると、「名探偵福邇(フーアル),字(あざな)は摩斯(ムオスー)」となり、「名探偵ホームズ」というそのものずばりなタイトルです。

相棒のワトソンの方も、中国語ではジョンを"華生(ホアション)"と訳されているのを、同じ発音の字に一字変えて"華笙(ホアション)"とされています。

 

あらすじは…もう書く必要ありませんね。

コナン・ドイルのホームズのパスティーシュですから。

 

とはいうものの、当時の香港の複雑な社会情勢が物語の背景にあり、それを加味して物語を再構築してあるので、登場人物の設定のみならず、香港で起きる事件として不自然ではないように変更してある部分がたくさんあります。

そこがこの物語の魅力であり、読み応えのあるところだと思います。

 

具体的に挙げると、まず福邇のキャラクター設定として、満州人であり、イギリス留学帰り。西洋の知識が豊富でありながら、清朝の市民として愛国心を持っています。彼が香港という土地に住んでいるのは、『ヨーロッパとアジアが隣り合う地で、西洋のものを中国式に役立てる香港の制度を学び、長所を取って短所を捨て、いつか清が強国となって改革を進めるときに新しい道を開くため』なのです。

本家ホームズはハドソン夫人の家を間借りしていますが、この作品では福邇の持ち物である家に華笙が間借りするといった感じで、家事をするのは鶴心(ホーシン)という下女になります。福邇のことを「若様」と呼び、時には捜査に一役買うこともある少女です。

福邇が常人とは異なるというのは日常生活の描写からもうかがえて、その点はホームズらしい感じがするのですが、トータルで見ると礼儀正しく紳士的、社会的地位がそこそこ高いといった印象です。満州人ということも関係しているかもしれません。清朝では漢人よりも満州人の方が優遇されていますから。(ちなみに華笙は漢人)

ホームズ像が、当時の香港の社会で"少々変わり者だが尊敬されるべき地位におり、またそれにふさわしい振る舞いができる人間"という風に工夫されていると感じます。

 

それから、物語の方でも、事件の背景にある人間関係や登場人物のキャラクター造形で当時の香港の状況に合うよう工夫されているので、結果として二つ三つと元のホームズの物語を組み合わせて1つの物語に再構築してあったりして、シャーロキアンにとってたまらないサプライズになっていると思います。

どれとどれが組み合わさっているなんて小難しいことは置いておいても、香港の事情に合わせたうえでストーリーとして破綻がないように物語が作られていることがすごいと思いますし、私の場合は元ネタの話が一つでも分かれば、こんな風に変えてあるんだーと感心することしきりです。

 

先程から「香港の事情」を連呼していますが、例えば「中国人の夜の外出は基本的に禁止されていて、通行証を持っている人以外は家から出られない、出歩いている人は逮捕される」だとか、「正午を大砲の音で知らせる風習がある」とか、「清が当時フランスとベトナムの所有権を争っていたため、フランスの船が香港に寄港した時に港の従業員がストライキを起こした」とか、当時の香港の習慣・風習・統治のための法律などのしばりに加えて、清朝末期の歴史的事件が香港の社会情勢にも強く影響を与えていたことを加味してストーリーが練られているのでとてもすごいと思います。

 

だって、パスティーシュなんですよ?

作者の自由には限度があります。

原作から離れすぎるのはいけないうえに、作者が当時の香港をかなり忠実に再現することを試みているので、どれだけしばりがあるんだって感じです。

 

物語には、当時の実在の人物も登場します。

私は歴史も好きなので、香港版ホームズがどんな風に物語を紡いでいくのかという楽しみに加えて、当時の香港の息遣いを感じられるのも、この本の魅力だと思います。

 

ただひとつ難点を挙げるとすると、慣れるまでは読みづらさを感じるかもしれないということです。

中国ものの小説を読みなれていない方には、中国名の登場人物は区別がつきにくかったりもしますし、西洋風の地名が漢字になっているのもちょっとしんどいかもしれません。

加えて、私みたいに香港の地理歴史にあまり詳しくない人間には、物語を読む上での基礎知識が足りなくてちょっと歯がゆい思いをするかもしれません。

しかし、それらを凌駕する面白さで読めてしまう…。

 

最後に、著者の言葉を引用したいと思います。

 

『この小説は香港人である私からシャーロック・ホームズへの恋文であると同時に、シャーロキアンである私から香港へのラブレターでもあります。』

 

とても素敵な言葉だと思って印象に残っています。

香港についてもっと知ってほしい…そんな気持ちも込められたこの本、ホームズ物として珠玉の一作だと思います。

ぜひぜひおすすめいたします。(*^▽^*)