西寺郷太さん、吉岡正晴さん

世界の音楽界の衝撃。ディスコでも支持された天才ミュージシャン、アーチスト、プリンス殿下の訃報から間もなく一週間が経ちます。緊急特番や、サンデーディスコでのプリンス追悼DJ、西寺郷太さんの著書「プリンス論」を改めて読み直し・・・、などなど。バタバタな日々を過ごしていますが、ようやく冷静さを保てるようになってきました。それにしても、西寺さんの「プリンス論」は面白い!マイケルを愛し、レイチャールズを愛し、JBを愛し、ホイットニーを愛し、マービンゲイを愛し。数多くのレジェンド達への「愛」を自著している、日本を代表する音楽ジャーナリスト、吉岡正晴さんをもってしても、まだ成し得ていなかったプリンス本。ていうか、いまだかつて、プリンスについて特化した、論じた書籍を出版した人がいなかった事実にも驚きます。ある意味、西寺さんは確実にプリンスのDNAを受け継いだ、業界革命児、異端児であると私は思います。昨年末、WOWOWスペシャルで、西寺さんの番組に吉岡さんと3人で出演させていただきました。三宿で行われたバースデーパーティーにはDJとして声かけて下さったんですが、出張のため参加出来ませんでした() ごめんなさい<m(__)m> その時は、当然、バリバリに元気だったプリンス本人。そして、プリンス論もリリース直後好調なセールスで、みんながハッピームードだった空気をよく覚えています・・・・。



それにしても・・・・。()




先日のラジオ「プリンス追悼スペシャル」では、構成上、色々とやることがあって、意外と、自分とプリンスの関わりエピソードを話しておらず、知りたがっているリスナーさんが多く、遅ればせながら、このブログで少し触れさせていただきます(^^)

プリンスの存在。


ダンスフロアでは、ブラック・ソウルミュージックマニアだったDJスタイルの自分に、ロックやパンク、ニューウェイブの魅力を伝えてくれた人。食わず嫌いだったジャンルへの扉を開かせてくれた偉人の一人。

ビートの効いたギターロックやシンセ使いのエレクトリックサウンドへの魅力を気づかせてくれた人、かもしれません。

ディスコやクラブにおいて、LETS GO CRAZYI WOULD DIE 4 U では、踊れるロックを。ラズベリー・ベレエ、EROTIC CITYではニューウェイブ的なかけ方を学んだ。

ただ、私にとってプリンスの凄さをマジマジと感じたのは、実は「後追い型」なんです。

80年代初頭、MTV全盛時代に、私をブラウン管に釘づけにさせたアーチストたちは、ワム、デュランデュラン、カジャグーグー、デヴィッドボウイ、といったニューロマンティック系の超イケメンたち。そして、スーパーダンサー マイケルジャクソンのパフォーマンスに圧倒されました。 プリンスを最初に観た時の印象は、ズバリ、「グロテスクで変わった人」。

というのがぶっちゃけな第一印象でした。

もじゃもじゃな胸毛、奇抜なファッション、小刻みでコミカルなダンス、中性的なキャラと猫みたいなファルセットボイス・・・・。決して、時のハンサムガイという印象ではありませんでした。音楽的にも、マイケルやマドンナのような“スカッと爽やか、わかりやすいポップス”では決してなかった。メディアの露出も少なめで、謎めいたアーチストイメージ。しかし、音楽界では、マイケルはキング、マドンナはクイーン、プリンスは殿下、と呼ばれ、80年代、プリンスはマイケルと人気を二分する大スター。

3人は同じ歳、というところが、これまた凄すぎるんですが・・・。

どうしても、マイケルとプリンスが人気を二分する、という意味がわからないまま、私は80年代全般を過ごしました。

1982年から現場DJをスタートした自分。もちろんプリンスのアルバムは、ほとんど買ってました。かけてました。 が、しかし!

マイケルのダンスの方がカッコ良かったし、マイケルの作品の方がノレたし、歌いやすいわかりやすさがあったし、見た目も、晩年は逆転したけど()、最初はマイケルの方がカッコ良く感じた。

しかし、90年代に入って、DJと同時にFMラジオの仕事に携わることで、さまざまな音楽の歴史や文献を読みあさり、プリンスの才能の凄さに愕然とするようになります。

まさに、後追いでその才能の凄さに衝撃を受けた90年代。

プリンスは、ソウル、ファンク、ディスコ、ロック、R&B、ニューウェイヴ、テクノ、レゲエ、ジャズ、といった音楽形態をすべてポピュラーフィールドで作ってきた天才音楽家です。100年に一人現れるかどうか、とも言われている才能。ギター、ベース、ドラム、キーボード、それぞれの楽器を「超一流」の演奏力で備えているミュージシャン。あまりクローズアップされてはいませんが、それぞれの楽器の技術は超一流。その楽器だけでメシが食えるほどです。「第二のスティーヴィー・ワンダー」という触れ込みで、ミネアポリスで活動をスタートするわけですが。処女アルバム「For You」は、全て自分一人のプロデュース、演奏と言われています。

こういった、たった一つのエピソード、史実だけでも、後追いで学ぶだけでも衝撃だったわけです。あまりにも仰天するエピソードが多すぎて、どんどんプリンスの魅力に引き込まれました。

私が思うに、プリンスの動きは、一般人には「予測不可能」なクリエイティヴで満ち溢れています。それは、生まれてから57歳まで一切衰えることなく、一切「保守」になることはなく、常に時代の先を見続けて活動してきました。

「聴けば聴くほど」味が出る、意味がわかる、凄さがわかる、まるでスルメのような作品群。

斬新さから定番へ

革命から保守へ

大抵のライフスタイルはそのパターン。

最初に与えたインパクトは、歳月を経るにつれ、安心さ、信頼への定番、「お約束」に昇華する。

プリンスは違った。

デビューから、晩年までの40年間、

常に新しく。異端児。革命児であり続けた。

次に何が飛び出すのか予測不可能なアーチストでした。

定番の安らぎを目指して保守になることは無かった。

年に1枚平均アルバムリリース。約40枚のオリジナルアルバムを作り続けた。プリンスの基本は「一人で作る」。セルフプロデュースで、こんなにも最先端で質の高いアルバムを量産し続けたアーチスト、ミュージシャンは、そうは知りませんし、そうはいませんよ。

57歳の才能。音楽界にとって、あまりにも大きすぎるクリエイターの損失。

プリンスの意志を受け継いでいく、今生ける立場としては、彼の作品に触れ、語り、踊り、踊らせ。そんな、行動が何よりも供養になることを信じて、続ていきたいと思います。


余談

私の第二の故郷、横浜。90年代前半、横浜にあった大箱「グラムスラム」には、よく通いました。現在の横浜ベイホール。表向きの店舗プロデューサーは、プリンス。いわゆる、プリンスプロデュースのクラブでした。有明MZAのスタッフがオペレーション運営を行っていました。サウンドプロデューサーだったのはCANTAROさん。盟友西岡君も現場に入っていました。私はピストン西沢氏と一緒に毎週のように顔を出していたグラムスラム横浜。

殿下が座るための椅子が設置されていたのも特徴的。本人は一回だけ来場視察され、ゴミ集積場からSPに抱えられて出て行ったのが印象的、と西岡君から聞いたことがあります。

世は、ジュリアナ全盛時代。そんな中、横浜ではブラック系が8割で突っ張っていた。私は一切ブラック以外かけなかった時代。グラムスラムでは、ほんの少しジュリテク、ユーロ系がかかり、その時だけは少数扇子ギャルがようやく肩身狭そうに前に出てくる。そんな大箱でした。プリンスはどう感じていたんだろう・・・・。異端児、革命児な先端クリエイター、プリンス。そんな「妙」なダンスフロアの光景も、良しとしていたのかもしれませんね()