自由気ままな下手くそ小説 ~第二弾 マーチングバンドが舞台 「見えない手と手」~ -2ページ目

第165章―不思議な二人

 あの後、黙々と作業を進めていた二人だったが、そのペースがだんだんと鈍ってきた。そして時計の短針が8をさしたころ、いよいよ千香の集中力が限界になった。

「あぁー、もう!続きは明日っ!!楽器吹こう、楽器!!」

 自分の太ももをスカートの上からバシッとたたき、叫んだ千香。その瞬間、隣の一彰がびくりと身体を震わせた。

「……皆川、寝てたでしょ。」

 首をゆっくりと動かし、じと目で一彰の方を見つめる千香。けれども一彰は何も言わずに、手に持っていたトランペットを楽器ケースに戻すと、自分の席に戻ってトロンボーンを肩に乗せた。

「な、なんか言えっ!!」

「……早くホルン持ってこっちに来てくれ。」

「そうじゃないーっ!!」

 さっきの「付き合え!」もそうだし、居眠りしていたのもそうだし、今の態度もそうだし……本当の本当にこいつは何なんだ!!

 だけれどそんな事を言っていても仕方が無い。確かに腑に落ちない部分はたくさんあるが、いちいち気にしていたら疲れるだけだ。千香は溜まったものを吐き出すかのように大きなため息をついた後、手に持っていたユーフォニウムをホルンに持ち替えて、一彰の隣に歩み寄った。

「いつものコラール?」

 譜面台の教則本を覗き込み、開いているほうの左手で髪をかきあげながら千香は聞く。すると一彰は首を横に振って教則本をめくり、あるページを指差して答えた。

「今日はこれがしたいんだが……お前セカンド吹いてくれないか?」

「オケスタ(オーケストラスタディ)かぁ……難しそう、これ。」

 苦笑する千香。けれどもそれは仕方がないことだった。トロンボーン用に書かれた楽譜をホルンで演奏するときには、まず楽譜を読み替えなくてはならない。簡単に言えば、トロンボーン用にinCで書かれた楽譜と、ホルン用にinFで書かれた楽譜とでは、同じ音でも、五線上でのおたまじゃくしの位置が違うのだ。

 おまけに今回の曲はハ音表記。管楽器奏者はもちろん、ピアノ畑で育った人間にもなじみの無い楽譜だ。これをいきなり吹けというのは、マーチングバンドの人間どころか、毎日楽譜と向かい合っている吹奏楽部の人間でも、頭を抱えるであろう難題である。

「あ、あんた、相当エス入ってるでしょ……。」

「エスって?俺は覚せい剤なんかやってないぞ。」

「そうじゃなくって……。」

 一彰と話している間も、千香は譜面を睨み付け、つらつらと譜読みをしていた。そして話が終わるとともに、小さくこくりと頷いて楽器を構えた。

「いいわよ。」

「おう。」

 早い。一彰はそう思った。隣では、もともとつり気味の目を一層きりっと引き上げた千香が、マウスピースを銜えたまま、自分の準備が完了するのを待っている。

 それを確認した一彰は、トロンボーンのスライドで足元のメトロノームの針を突いた。メトロノームがコチコチと小気味の良い音で、リズムをうち始める。

「じゃあ俺が合図出すから、そしたら入ってくれ。」

「うん。」

 小さく頷く千香の顔は、真剣そのものだった。一彰はその顔を五秒ほど見つめた後、思い出したかのように楽器を構え直し、合図を出した――


 ―― 「すごいな、お前……。」

「ちょ、い、いきなり何?!」

 曲を吹き終えると、一彰は千香の顔をまじまじと見つめて呟いた。いきなりそんな事を言われた千香は、ビクリと身体を震わせて、顔をほんのり赤くする。

 千香の演奏はほぼ完ぺきだった、少なくとも大きなミスは無かった。この難題を、初見でここまでやって見せるのが千香の実力なんだと、一彰は改めて思い知らされる。

「……なぁ、前々から気になっていたんだが、お前の楽器の腕ってやっぱり才能なのか?」

「えっ……?」

「楽譜を読む力もある、音だってきれい、テクニックだってある。……それってやっぱり才能なのか?」

 視線を床に落とし、独り言を言うようにして訊く一彰。その雰囲気は、いつもの一彰と少し違っていた。

「ど、どうしたの?急に?」

 千香は少し焦った。いつもポーカーフェイスの一彰が、なんだか落ち込んでいるように見えたのだ。

「い、いや。なんでもない。次やろう。」

「えっ。う、うん……。」

 けれども、一彰はすぐにいつもの一彰に戻ってしまった。ひょっとしたら、気のせいだったのかもしれない。そう思ってしまってもおかしくは無いくらい、あっという間の事だった。

 それでも、千香は気になった。一彰は確かに一瞬、哀しそうで、苦しそうな表情を見せた。見間違えなんかではない……。

 さっきの顔の理由を知りたい、彼の気持ちを知りたい、何か力になりたい――。そう思った千香だったが、結局尋ねるきっかけを見つけられなかった。

つづく