先日、アンジェリーナさんのこちらのブログを拝見して
改めてなぜ夫やその家族は死に際に立ち会うことに拘らないのか、
逆に私は拘りたいのか、を考えてみました。
上記のコメント欄にも書かせて頂いたのですが、うちの夫は
「家族の死に目に立ち会う」という行為に重きを置かない人です。
日本とガーナという物理的な距離に阻まれているのならまだわかりますが
同じガーナ国内の車で1時間もあればいけるであろう、という距離にいても
変わりません。そしてそもそも病気で危篤という状態になったとしても
日本のように付き添っている家族から「危篤だから来て!」という呼び出しもないので
駆けつけようもない、という状態でもあります。
亡くなった直後に電話で連絡が来て、ああ亡くなったんだ、先週会っておいて
よかったなあ、くらいの話をするだけです。
今ではさすがに日本の文化を理解しているので、私の家族の死に目に立ち会いたい
という行為を邪魔しはしませんが、その心境については理解していないのでは
ないかと思います。
さて、この違いはどこからくるのか。
おそらく情に薄い・厚いの違いではありません。
夫はどちらかというと情に深い人で私はあっさりしたタイプなので、それが原因なら
反応が真逆になるでしょうから。
夫に今までその理由を聞いたことがないので、もしかしたら違う答えが
返ってくるかもしれませんが、アンジェリーナさんが仰るように宗教による死生観の違いが
一番それらしき答えになるのかもしれない、と思いました。
夫はクリスチャンですが、いわゆる新世界の訪れというものを信じています。
この世の終わりにハルマゲドンが来て神様が新しく世界を作り直す、というあれです。
その世界では今まで亡くなった人達もその姿で生き返りますから、今生の死は
必ずしも永遠の別れというわけでもないわけです。
一方、おおかたの日本人にとって輪廻転生を信じる信じないの違いはあっても
今の自分は今の人生だけに与えられたものであり、家族を含めた人間関係も
今の世だけのものです。
この刹那な状況を惜しむ感情が死というリセットを怖がらせ、別れを惜しませる
源なのかもしれません。
ちなみにお墓についても捉え方がまったく違います。
向こうでは派手なお葬式をしてお墓も見栄えのよい立派なものを建てますが
一周忌にその墓を親戚一同にお披露目した後は完全に放置プレイで
誰もその後墓参りなんぞに行きません。
墓地にいるのは埋葬直後の親戚一同や墓堀りの人、墓作り職人、
そして墓泥棒くらいのものです。
私はやっぱりなんとなく亡くなった義両親やお葬式に参加出来なかった
従姉妹や義兄弟のお墓に挨拶にいかないと不義理な感じがしてしまい
お墓の場所がわかる人のところには夫に頼んで連れて行ってもらいますが
オブロニ枠でなかったら単なる普通の変な人か怪しい人です。
いや定期的に墓場をウロウロしているんですから、オブロニであっても
普通に変な人ですね。
理解出来ないのにそれに付き合ってくれる夫はやっぱりいいヤツです。