オズモンズ・osmonds・ファンクラブ・活動日記 1969~ -2ページ目

オズモンズ・osmonds・ファンクラブ・活動日記 1969~

1971年「♪ワン・バッド・アップル」の大ヒットから半世紀、
今も世界の舞台で大活躍の〝The Osmonds オズモンズ〟
彼らのファンクラブ設立当時の活動史。
そして、ナベさんの「その後」と「今」(^^;)です。
(画像=1969年12月第1回大阪ファンクラブの集い)

■ファンクラブ活動日記~49年前にタイムスリップ!
 

■さて、そのトラブルとは・・・。

3月30日(土)「オズモンズ・フェア」(心斎橋三木楽器店小ホール)動員320名で大成功。

その成功に水を差すような電話が翌日入った。

4月1日(日) ヘルパーのYasuko松下から夜に電話。「フィルムコンサートで販売した写真の利益は、私のフィルムだから私がすべて受け取る権利がある」と。何をいきなり言っているんだろう・・とびっくり。「利益をすべて渡す約束などしてません!」と強く反論した。

先の3月26日(火)「第7回フィルムコンサート」(森の宮青少年会館小ホール)から「集会で得た利益は近畿支部で保管し活動費として使用してよい」との独立採算制をA.M.PMimiさんに認めていただき、収益を得ることを懸命に考えた。

まず、オズモンズのグッズを販売することを計画。初代ヘルパーのKumi清水に電話してオズモンズ1年来日時の写真のポジフイルムを受取った。Kumiは当時、近畿支部ヘルパーの写真担当で写真や8ミリフィルムを沢山撮影し保管していた。次に、ヘルパーのYasuko松下が71年来日時のオズモンズの写真を沢山持っているとのことで協力してもらうことにした。他にレコードやポスター・雑誌などヘルパーやメンバーが不要になった収集品を売ることにした。これらは一点もので値段を決めれないので当日舞台で即売会のような形式で、出品者に購入希望者が直接交渉。利益はそのまま出品者が受け取った。しかし、写真は新品で何枚もプリント可能ゆえ利益の一部をFCに入れてもらうことにした。

当時L判のプリント現像費が1枚カラー38円だった。これにYasuko松下の利益20円、FCの利益22円を加えて80円で販売することにした。結果、参加169名中61名が購入。その枚数はYasuko松下のカラー写真が148枚。Kumi清水のカラー写真217枚。モノクロ写真147枚、写真売上が35150円だった。ブロマイドではなく個人がバカチョンカメラ(当時のコンパクトカメラの呼び名)で撮影した写真ゆえピンボケもあり購入するファンは思ったより少なかった。Kumi清水の写真が多いのは、ヘルパーとしてステージ舞台裏とかホテル廊下とかで撮影した希少価値ある写真だから。

Yasuko松下は148枚の利益42円計6216円すべてを要求してきた。もちろん、僕は断った。集会でヘルパー達が準備・販売し、その後の作業としてネガから写真を選定・プリント・発送する写真の利益をすべて一個人に渡すなどあり得ない。きっぱりお断りした。

4月2日(月)Yuko小野から電話が入り、この日大阪梅田阪急三番街の喫茶店でYasuko松下と3人で会談。Yasuko松下は「私のネガフィルムだから利益すべては当然」と居直った。そのことより、Yuko小野が強く僕を非難してきたことが驚きだった。「言ってることがいつも変わる。信用できない」と。僕は「一度も利益すべてを渡すなど言ったことはない!」と強く反論。1時間ほど話したが、利益のことよりも、一番信頼していたYuko小野がこれほどもの分かりが悪く、また懸命にyasuko松下を擁護することにだんだんと嫌気がさし、「分かった。利益はすべてあげる。しかし、共に活動は出来ないからヘルパーは解散する!」と伝え席を立った(巻末画像に当時の日記)。

4月3日(火)Yasuko松下に利益6660円とプリント代不足分775円、計7435円を送付した(巻末画像に当時の日記)。ネガを貸してくれないのでプリントはYasuko松下にやってもらい、発送はFCがやることにした。
 

4月9日(月)利益の事よりも、一番信頼していたYuko小野と喧嘩別れになったこと、それに伴いヘルパー解散でこれまた一番頼りになるAoi山本とも別れることが一番辛かったので、A.M.PのMimiさんにお手紙で経緯を伝えて相談に乗ってもらっていた。Mimiさんは親身になっていろいろアドバイスを下さった。MimiさんもYuko小野とAoi山本のことは高く評価しており「お金のことはよく分からないけど、ナベくんから連絡しないと溝が深まるよ。二人は必要でしょ?」とお手紙をいただいた。

4月10日(火)Yuko小野に手紙を送付。「共に活動は困難ゆえ、ヘルパーは解散」と再度伝える。僕から連絡する理由はないが、このまま放置するとMimiさんが言うように決別になるので「あなたは、どう思ってるの?」という探りの手紙だった。

4月16日(月)Yuko小野から手紙。「私が言い過ぎたことは謝ります。もう一度話し合いたい」との内容だった。居直らず、思ったとおり素直な子なんだ・・と一歩進展した。

4月21日(日)夕方、Aoi山本から電話。「さっき、みんなで話し合ったんです。私たちはこれからどうすればいいんですか・・・」と涙声。これには参った・・・。関係のないAoi山本まで巻き込んでしまった・・・。幼い頃のことは記憶にないけど、小学3年頃からこれまで女の子を泣かしたことなど一度もない(結婚してからカミさんはよく泣かしたけど~(>_<))。これには正直参った・・・。なんか、自分が悪い男のように思えてきた。

ヘルパー5人の中でも意見の相違があり、Yasuko松下、Siyoko冨士谷Mituko小比賀は脱退すると聞かされる。Yuko小野は残ってくれた。

5月1日(木)Aoi山本に手紙を送付。「僕が言い過ぎたことは反省している。もう一度一緒に活動しましょう」という内容。

5月4日(日)Aoi山本から手紙。同時に夜に電話が入る。いつもの明るいAoiに戻ってた。

5月7日(火)Yuko小野へ夜8時電話。お母さんが出られて「疲れていま寝てます」とのこと。9時半、Yuko小野から電話。4月2日以来約1か月ぶりの声。お互い素直に謝った。明るいOnoに戻ってた。Mimiさんが心配していたので、電話を入れるように伝える。同時に、Aoiへも電話して、Mimiさんに電話を入れるように伝える。

これで、トラブルは一件落着。残るべくしてAoiとOnoが残ってくれた(^o^)/ 二人は一年後に僕の跡を継いで二代目近畿リーダーになった。

5月10日(金)さっそく、Aoiから夜9時電話。別に用もなく雑談。Aoiはよく電話をくれた。携帯電話のない時代の自宅黒電話から。オズモンズの情報はそれ以前から、ほとんどAoiから教えてもらっていた。

つづく~

※今回は、暗くて面白くない話だったので、オズモンズの72~74年の写真をどうぞ(^^)v

 

★FC近畿活動史の中の74年4月2日の記録。「決裂する」と記載。それより・・汚い字だね~~(^^;)

 

「第7回近畿フィルムコンサート&ミーティング」の収支日記。カラー写真現像費38円、モノクロ写真20円でした。入場料は300円でした。

 

★4月3日、Yasuko松下へ利益全額6660円、プリント代不足分775円、計7435円を現金書留で送付。右の〇印に書の文字は書留の意味。当時は口座入金ではなく現金はすべて書留送付でしたね。今・・現金書留使うことってあるのかな??

 

★オズモンズの当時のフォト(*^^*)

 

 

 

 

 

 





 

■ファンクラブ活動日記~49年前にタイムスリップ!

3月30日(土) 「オズモンズ・フェア」動員320名で大成功。
4月1日(日)  その大成功に水を指すように、ヘルパーのYasuko松下からの電話でトラブルが起こる。

 

※そのお話の前に、歴代ヘルパーの事、まとめておきます。


〇初代ヘルパー(70年8月~71年6月 10カ月)
Kuniko宮川(19歳)、Kumiko清水(18)、Keiko奥秋(17)、Kiyoko隅埼(17)、Koko田淵(15)、Yasue吉岡(15)

僕がFCの近畿リーダーに選ばれた時、大阪のFC活動を盛り上げるため手伝ってくれる方を、親しくなったメンバーの中から指名した。最初〝大阪企画委員〟とするつもりが、東京FC本部の東京企画委員から「同じ呼び名は止めてください(格下なんだから~('ω')」と言われて、お手伝い=〝ヘルパー〟という呼び名にした。※カッコ内は僕の想像です(^^;)

FC活動の始動期でオズモンズも70年・71年と続けて来日「ファンクラブの集い」(今でいうファンミ)や「ミーティング」(FCの集い)などを開催し、一番活動が活発で楽しかった時期。僕は高校3年生でメンバー5人とは歳も近く、僕の事を「ナベくん」と君付けで親しく呼ばれていた。

〇二代目ヘルパー(71年8月~73年3月 1年7カ月)
Kumiko清水(19)、Keiko奥秋(18)、Yasue吉岡(16)、Hiroe土屋(17)、Yuko品治(16)、Reiko吉田(15)

初代ヘルパーを僕が勝手に選んだので、公平公正に選挙で選ぶことにし公募。約60名の応募の中から面接で22名にしぼり、71年8月の「第4回ミーティング」の舞台で立会演説。メンバー約200名(オズモンズ来日の年ゆえ最大の動員数)の投票で選ばれる。初代のKumiko清水とkeiko奥秋がトップ当選だった。Koko田淵とKiyoko隅崎は東京企画委員といろいろ衝突し「活動を制約されるならもうヘルパーなんてやらない」と立候補しなかった。

「ミ―テイング」など大集会を5回も開催し、なんとか活動を盛り上げようと試みたが、肝心のオズモンズが来日しないためだんだん活動が下火に。加えて、Kumiko清水以外は学業が忙しいのか定例会などの出席も悪かった。結局、自然消滅、解散になった。

〇会報作成グループ(73年4月~73年8月 4か月)
Siyoko冨士谷yasuko松下Keiko中浜Mayumi藤原Aoi山本Yuko小野Megumi楊Mituko小比賀Kaoru谷口、・・17名

73年4月、以前から顔見知りだったメンバーのSiyoko冨士谷が「大阪の活動を盛り上げるため会報を独自に作りましょう」と提案してきた。森の宮青少年会館でオズモンズのレコード即売会を開催し、集まったメンバーにその話をすると17名が署名してくれた。以前より知っていたのは前列の4名。Aoi山本やYuko小野とは話したことはあったがさほど親しくはなかった。

会のリーダーに提案者のSiyoko冨士谷を抜擢するが、人数多すぎてまとまらず、やる気がないのか欠席者も多く、森の宮青少年会館会議室での定例会14回のうち中止が8回。そのうち活動を知った東京企画委員から「勝手に会報作成など止めてほしい~(格下なんだから~('ω')」と言われこの企画は没に。会は自然消滅。僅か4か月だった。※カッコ内は僕の想像です(^^;)

〇中心メンバー五名(73年9月~74年4月 7カ月)
Siyoko冨士谷yasuko松下Mituko小比賀Aoi山本Yuko小野

会報作成グループは解散したけど、自然に活動好きで親しいメンバー5名が残った。73年9月大阪梅田阪急三番街の喫茶店に集まり結成。ヘルパーの名称はもう使わなかった。Aoi山本、Yuko小野が参加してくれた。

73年11月「第6回フィルムコンサート&ミーティング、」(京阪モール小ホール)開催。そして、前回ブログに記載した74年3月「第7回フィルムコンサート&三―テイング」を開催。

 

この直後、これから記載する利益配分のトラブルが生じて、Siyoko冨士谷、Yasuko松下、Mituko小比賀が脱退し、Aoi山本とYuko小野が留まった。

※その後の事を先に書いておきます。

〇サブ・リーダー(74年5月~75年3月 10カ月)
Aoi山本Yuko小野

74年4月に上記5名の内、3名が脱退。残ってほしいと思っていたAoi山本とYuko小野が残ってくれたので、5月1日に手紙で三代目ヘルパーに任命した。この頃になると僕も就職活動があったし、先のメンバーとのトラブルでだんだん活動に嫌気が差していたし、世代の違いも感じていたので、いつかこの2人に活動を任せようと思うようになっていた。メンバーには、ヘルパーの名は使わず、サブリーダーとして紹介していた。

2人とはこの後、74年8月「第8回」、75年1月「第9回フィルムコンサート&ミーティング」を開催。そして同年3月、5回目来日のオズモンズを出迎え、帰国後の4月に僕が学校卒業と同時にFCも卒業。75年4月2人がFC二代目近畿リーダーに就任した。

当時、僕、Aoi、Onoの3人では活動が無理なので、74年6月に大阪・神戸・京都・奈良に各2名の準ヘルパーを選出した。これが良かった。オズモンズ来日直前のチケット販売活動で大変助かった。その思い出話はこの後また少しづつ書きます。


○準ヘルパー(74年6月~75年4月 10カ月)
大阪 MIzue田村(偶然私と同じ町。中学の後輩)、

   Keiko中浜
神戸 Tizuru東Megumi和田
京都 Etuko山本 Junko芝原
奈良 Yoko谷口 Midori谷井


※今思えば・・・彼女たちみんな、明るく利発で可愛い高校生でしたね。色々意見の相違や言い争いもあったけど、彼女たちがいたからこそ、ファンクラブ活動が楽しかった(^o^)丿 ただ、今でこそ思い出しながら〝可愛い〟なんて書いてますが、当時は歳も近くみんな仲間・同志といった感じで、異性という感覚は全く無かったこと、書いておきます(^^;)

 

オズモンズのサブ・マネージャーToshi中下氏が73年にダニエル・ビダル(フランスの17歳の歌手)を担当された時の雑談。

Nabe:「Thshiさん、ダニエル・ビダル可愛い~ですね。いつも一緒でいいですね~」

Toshiさん:「バ~カ。男のファンがドッ~と押し寄せること想像してみてよ('ω') オズモンズのファンはみんな女の子。キャ~なんてよっぽど可愛いよ。オマエはみんなに囲まれていいね~」と言われた(>_<)

つづく~

 

★1973年~75年当時、お手伝いしてくれていたFCメンバー。丁度、中央がYuko小野さん(後に、二代目近畿リーダー)。その右が高校の文化祭に招待してくれたKiyoko福永さんとそのお友達。その右がよく連絡を取り合ったMegumi楊さん(アメリカに移住されて航空機のCAになられ、最近、ブログをご覧になられて連絡をいただきました(^o^)丿)とお友達。下段の左から二番目がこの時期よくお手伝いしてくれたMituko小比賀さん。その隣がAkemi上野さん台湾からオズモンズのレコードを安く仕入れてくれて「FCの集い」で販売しました。右端が京都の元山さんかな? 一番上左が会報作成の発案者Sihoko冨士谷さんAoi山本さんは、あいにく欠席でしたね。

懐かしい~~~~(T_T)/

 

★上と同じ、森の宮青少年会館でのFC定例会。大阪でFC会報を独自で発行する計画でした。マークの横のロングヘアーがYuko小野さん。その隣の白い服がMegumi楊さん

 

★初代ヘルパーというより〝仲間〟だった5人。右上からKoko田淵さん、右にKumi清水さん

右下からKyoko隈崎さんYasuko吉岡さんKuniko宮川さんKeiko奥秋さん。※71年4月大阪グランドホテルにて。イラストはKokoが制作、翌日の「ファンクラブの集い」(ファンミ)でご披露。オズモンズのママさん大喜びで米国ユタの実家に持ち帰ったそうです。

■ファンクラブ活動日記~49年前にタイムスリップ!

 

★3月30日(土)「オズモンズ・フェア」開催~三木楽器店小ホール


■会場となる大阪心斎橋筋三木楽器店に午前9時に着く。すでに店の前にファンの女の子約30人の列。中には知っているFCメンバーもいて声をかけてくれる。「ナベさん、早く入れて下さいよ~」って・・。開演午後1時までまだ4時間もあるよ~(+_+)

ヘルパーのAoi山本(後の二代目近畿リーダー)と、昨年11月「第6回ミーティング」で、なぜか泣いていて? 話しかけたら親しくなってお手伝いしてくれた高校1年生のMegumi橋本が来ており、喫茶店で昨夜作成した整理券を手直ししてもらう。9時半にYuko小野(後に二代目近畿リーダー)Mituko小比賀Mizue田村(自宅が近所で中学の後輩)Yasuko松下が来て、打ち合わせ。

はじめに、列に並んでいるファンを解放してあげることから始めることに。Aoi山本とMizue田村が整理券を渡し一旦列を解散させ、その後も三木楽器店前の心斎橋筋で整理券を配ることに。あとの4名と僕は4階のホールに入り、椅子を並べる作業。途中、教映社の映写技師さんが来られたので、僕は壁にスクリーンを張るお手伝い。

そのうち、主催のA.M.P社長(青山社長ではなかった)、ディレクターのMimi井上女史、同じくFumio井上さん(この男性とは、72年6月隣のファッションビルパルコで開催した「フィルム・コンサート」でお会いしていた。A.M.Pの方と知ったのはこの日))。FCの東京企画委員(FCの幹部~全員高校生)の女の子4名が到着。Mimiさんに紹介される。大阪には僕やヘルパーがいるのに、なぜ東京から4名も??と思った。東京企画委員4名はFCの会報販売とFCメンバー募集担当。大阪のMegumi橋本、Mayumi藤原はポスター販売担当に。

※東京企画委員の事を少し。

(作成中)

○1回目開演 午後1時。動員120名満席
僕たちは長蛇の列のファンを階段で4階へ誘導。司会はプロの女性 中山ニナさん(巻末参照。残念ながらお顔を思い出せない・・・)。

プログラム
①司会者 中山ニナさんのご挨拶
②オズモンズの近況のスライド上映~僕がホール後方からプロジェクターをレコードのバックミュージックに合わせて操作。1枚1枚スクリーンに映し出す。約50枚。
③オズモンズからのメッセージ~テープを流し、ニナさんが訳しながら話を盛り上げる。
④スタジオ・ライブ・フィルム上映ジミーマリーダニーの新しいTV放映フィルムと、先日放送されたオズモンズの「Goin' Home」「Let Me In 」「Last Day」等の演奏フィルム(※YouTubeで見れます)。
⑤ロス・フォーラム・ライブ・フィルム上映~72年6月お隣のパルコで上映し、オズモンズの人気・変貌ぶりに驚いた話題のライブ・フィルム。
⑥カルピスCMフイルム~これまで放映された全巻一挙公開。

1時間半、大盛況で幕。動員120名立ち見客も。終わるとファンを静かに階下まで誘導。店前には2回目開演待ちの長い列。心斎橋筋は今も昔も観光客で賑わう大阪の人気スポット。沢山の観光客が若い女の子ばかりの列を見て「何事??」と気にしながら通るので、オズモンズのポスターの立て看板でも設置しておけば良き宣伝になったのに・・・と後悔。

○2回目開演 午後3時 動員120名満席
1回目と同じように階段で4階小ホールまで誘導。大阪ヘルパーや東京企画委員の女の子も慣れてきててきぱき動き、僕は暇に。ホールの外でMimiさんやFumio井上さんと雑談。スライド上映の時は映写機の操作をするためホールの中に入る。

ライブ上映の時は教映社の映写技師が操作。僕はまた暇になりホール外の平台にある販売用の会報やポスターを見ていると、東京企画委員が「ナベさん、今後の打ち合わせをしましょう」と言ってきたので、企画委員2名と大阪ヘルパーの中心 Aoi山本、Yuko小野、Mituko小比賀、Yasuko松下と僕の7名で隣のパルコ7階の喫茶店に入り今後の打ち合わせ。根底に「大阪は勝手なことばかりする」との前・東京企画委員と前・大阪ヘルパーの対立があるので話がだんだん尻すぼみになり・・・そのうち、Aoi山本やYuko小野がオズモンズのことを話し出し、なんとなくうち解けてきた。

丁度その時、すぐ横のテーブルに、なんと!同じ大学の友達がガールフレンドと座ったのでビックリ! 僕はその席に移り雑談。近い内に東京へ研修に行くとのこと。友達はみんな就職活動に追われていた。僕はファンクラブ活動に追われていた(>_<)

○Yuko小野、スカウトされる(^_^)v
ホールに戻ると、ヘルパーが「ナベさん、110番社の方が探してましたよ」と。ライブ・フィルム上映中のホールを探すとおられたので外でお話。先日、大阪グランドホテルのロビーでお会いした大西さんとその上司の小田原さん(初対面)。「今日来たのは、先日ホテルで会ったYuko小野さんをアイドルとして売り出したい」とスカウトに来られた。「レコード会社でレコーディングし、キャンペーンも大々的にやります」とのこと。僕は、〝あまり期待できそうな会社ではないなぁ~〟と最初から思ってたので「いや~本人がどういうか・・・見た目よりしっかりした子なのでどうかなぁ~。直接聞いてみれば如何ですか?」と(しっかりした子は芸能界に入らないという意味ではないですよ~(^-^; Yuko小野を探して連れてくるようにヘルパーに頼むとYuko小野が来てホール外の廊下で4人で立ち話。大西さんの説明に、Yuko小野は最初戸惑った様子・・・。でも最後はきっぱり「興味ありません」とお断りしていた。A.M.Pからお誘いあれば快諾したかもね(^o^)丿

※Yuko小野さん
先日ブログで記載しましたように、黒い瞳が綺麗な可愛い高校2年生。なにより大阪弁で気取ったところがなく明るい性格、いつも笑顔でメンバー誰とでもすぐに親しくなり、僕の卒業後、これまたしっかり者で可愛いAoi山本とFCの近畿リーダーになりました。

この話、後日談があり、四日後の4月4日(水)夜8時、小田原さんから僕の自宅に電話が入り「どうしても諦めきれないので、Yukoさんともう一度話をさせてほしい」と懇願された。この前々日からYuko小野とは喧嘩別れで疎遠になっており、Yukoの電話番号を教えた。でも、後でYukoに聞くと「お断りしましたよ~」とあっさり一言。

○もう一つスカウトのお話(^-^;
同じ頃、A.M.PのMimiさんが来て「ナベくん、○○さんというFCメンバーは顔見知り?」と聞くので、「○○さん・・・いえ、ヘルパーではないし・・話したこともないですね。どうかしましたか?」と聞くと「連れて来ている弟さん(小学生か中学生だった)がすごく可愛いので、社長がスカウトしたんだけど・・あっさりフラれた(>_<) 知っているならナベさんにもう一度説得してもらおうかと・・・」。それならYukoをスカウトすればいいのに・・・と思った。

※アイドル

「誰でもアイドル」の今の時代なら、芸能プロダクションに街でスカウトされれば即OKになるかも分かりません。この1970年代は確かにアイドルのはしり「新御三家」(郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎)や「花の中三トリオ」(山口百恵・森昌子・桜田淳子)など若い子が台頭して来ましたが、それなりの実力を兼ね備えていましたね。だから街中でスカウトされても、まずは〝疑いの眼〟ありきで、「自分が芸能界!?」と信用はしなかったと思います(^^;)

○3回目開演 午後5時 動員80名
2回目を観るため同じメンバーも多く、時間が押し迫っていたのでスライド映写はカット。お手伝いしてくれたヘルパーも手が空き、後ろの椅子に座ってロス・フォーラムのライブ映像とカルピスCM映像全編を見て楽しんでいた。

午後6時過ぎに幕。急いで椅子やスクリーンのあと片づけ。売れ残った会報やポスターはヘルパーに分散させて持ち帰り保管してもらう。思ったよりも売れなかった。三木楽器店の樋口さん達にお礼のご挨拶。A.M.Pの社長、MImiさん、Fumio井上さん、司会の中山ニナさんとは三木楽器店前の心斎橋筋でご挨拶してお別れ。僕は、お腹が空いた~と嘆くヘルパー達を連れて心斎橋筋の大きな喫茶店ミリオンで食事して9時頃解散した。食事代、いつもはみんな割り勘だったけど、この日は26日「フイルムコンサート」の収益から出すことができた(^o^)丿

4月2日(月)の夜に、Mimiさんからお礼のお電話が入る。たまたま私はまだ帰っておらずが出た。

 

※オズモンズ・ツアー

このオズモンズ・フェアの時、Mimiさんと雑談中に「今度、オズモンズ・ツアーを計画しょうと思ってるんだけど、ナベくん思う? 参加してくれるかな~?」と。僕は「ツアーって・・なんですか?」と聞き返すと、Mimiさん「アメリカ公演に日本のファンを連れて行こうかと思ってるの」。「アメリカ!!(゚Д゚;)」貧しい学生の僕はびっくり!  何しろアメリカまで一人30万円! バイトの1日の日当が1000円のこの時代「参加するかなぁ・・・?」と思った。でも、Mimiさんの行動力は凄かった・・・(このお話はこの後に、つ・づ・く~)

 

司会を担当してくださった中山ニナさん

ネットで調べると心理カウンセラーとして大活躍しているそうです(巻末画像)。
(間違いであればお詫びし削除します)

つづく~~

 

「オズモンズ・フェア」で販売したオズモンズのポスター。

 

★同じくポスター。当時、左下に僕や親しきメンバーと一緒に撮影した写真を貼り、

部屋に飾ってました(^^)v

 

★1974年5・6月号ファンクラブ会報。

 

★僕のレポートがFC会報に1頁で掲載されました(^^)v 

★右頁下の左がA.M.P青山ヨシオ社長。若くてイケメンでしたね。

 

笈田育子(おいだ いくこ)さん
★中山ニナという芸名でDJアシスタント、司会、モデルとして活動の後、40代から心理カウンセラーに。目白大学大学院心理学研究科臨床心理学専攻修了。NPO法人カウンセリング教育サポートセンター 代表理事。2022年7月、カウンセリング心理士会 会長就任。

 

 

 


















 

■ファンクラブ活動日記~49年前にタイムスリップ!

■前日までのあらすじ

3月26日(火)「第7回近畿フィルムコンサート&ミーティング」(森ノ宮青少年会館小ホール)に次いで、すぐに「オズモンズ・フェア」(心斎橋三木楽器店小ホール)の準備に取り掛かる。準備と言っても主催はファンクラブではなく招聘元のA.M.P(青山ミュージックプロ 旧・青山音楽事務所)ゆえ、僕やヘルパーは裏方のお手伝い。

(当時の詳しい日記が見つかったので、前回と重複箇所もありますがそのまま転載します)

1月19日(土)Mimi井上さんからお電話をいただき、会場手配を頼まれ大阪市内の貸しホールをいろいろ当たり厚生年金会館中ホールか毎日新聞会館小ホールどちらかに決めようかと何度か電話で報告していた。

2月15日(金)Mimiさんが「高島屋(ミナミ)か三越(北浜)のホールを借りようと思う。安いので」と言われた。僕は正規の高い貸ホールばかり当たっていたが、さすがMimiさん、百貨店の中には催し物などのために使う小ホールがありそれらを安く借りれるか交渉されていた。発想がまったく違った。決定したのが心斎橋の三木楽器店小ホール。なんと無料!

3月20日(水)大阪グランドホテルで夜7時半、Mimiさんと打ち合わせのお約束。初対面で一人では不安なのでヘルパーのYuko小野(後に二代目近畿リーダー)を連れて行く。ロビーで待つがお互い初対面で顔が分からない。

8時頃、女性三人連れの一人から「ナベさん?」と声をかけられ、後方にいた女性に引き合わされる。これがMimiさんと初対面の瞬間。声をかけてくれた女性ともう一人の女性が、A.M.Pからデビューしたフォーク・デュオ「乙女座」水沢有美さんふるや杏さん、二人とも女子大生。本来なら東京へ帰る予定が遅くなったのでホテルに宿泊するするとのこと。

Mimiさんが「食事しながらお話しましょう」とロビー内にあるカフェへ。「何でも注文してね」と薦められたが、僕とYuko小野の前に、パンタロン(今はフレアパンツ?)姿の美人のMimiさん。横のテーブルには可愛い女子大生の乙女座の二人。高校生の女の子の中に入るのは慣れていた僕でも、すっかり揚がってしまって汗ダクダク・・・。食事なんかできるはずがなくジュースをお願いした。ホント、Yuko小野がいてくれて助かった。彼女は明るい性格の高校生。Mimiさん相手にオズモンズやファンクラブのことを話し、Mimiさんは食事しながら楽しそうに聞いて下さった。

途中で若い男性が来た。Mimiさんの以前からの知人で110番プロダクション大西さん。今、東映で制作中の「ザ・ヤクザ」(監督シドニー・ポラック、出演ロバート・ミッチャム、高倉健)で音楽の仕事をしているとのこと(「なんとなく・・いい加減で軽い感じの男・・」と日記に記載、ゴメン(^-^; )。

次に、年配の物腰の柔らかそうな男性が来た。元青山音楽事務所大阪支社の社員さんで、今は大阪でオリジナルプロデュ―スという芸能プロダクションの代表になられた家村さん。今回の乙女座の公演をプロデュースしているとのこと。

結局、9時半まで大人の輪の中に入り楽しく雑談。明日、Mimiさんをオズモンズ・フェアの会場となる三木楽器店に案内するお約束でお別れ。大阪グランドホテルから大阪駅まで歩いて20分ほど。家村さんがYuko小野と僕を大阪駅まで送ってくれる。僕というより、Yuko小野を送ってくれたんだね。それほど、Yuko小野は可愛い女の子でした。それがこの後のオズモンズ・フェアで証明されるんです(お楽しみに・・)。

3月21日(木)朝10時半、大阪グランドホテルにMimiさんを迎えに行く。寝坊されたと11時に降りて来られた(^-^; タクシーで心斎橋の三木楽器店へ。タクシーの中でMimiさんのお身内が大阪の大手有名商社の創業者だったり、有名女子学園の理事長だったり、何かと大阪にご縁があることを知りびっくり!

三木楽器店に行くがあいにく担当の樋口さんが出かけているとのこと。約束しているのに?? Mimiさんは気にも留めず「お茶でもしましょう」と隣にある大丸百貨店のカフェに。Mimiさんはジーンズ生地のミディアムスカートで上はふかふかセーターの半袖でお洒落。まだ3月末ゆえ人目を引き、僕はなんとなく優越感に。

1時間ぐらいしてお店に樋口さんが帰られたと電話が入る。三木楽器店の4階事務所で打ち合わせ。樋口さん時間に遅れていながらホールを無料で貸すので大きな態度・・('ω') 僕は気分が悪かったが、Mimiさんは慣れているのか終始笑顔で対応されていた。ホールを下見。今まで大きなホールばかりだったので「狭いのでは・・」と思った。

Mimiさんはこれから「小坂明子」のステージ(大阪厚生年金会館)を見に行くとのこと。「ナベくん、一緒に行く?」と誘ってくださったが、あまり興味がなかったのでタクシーに乗せてお別れした。↓見ておけばよかった・・・・絶頂期!

小坂明子=1973年ヤマハ主催の第6回ポピュラーソングコンテストにて、自身の作詞作曲による「あなた」でグランプリを受賞。12月に「あなた」でプロデビュー。1974年 「あなた」が200万枚を超える大ヒット。年末にはNHKの『第25回NHK紅白歌合戦』にも出場した。

3月26日(火)「第7回近畿フィルムコンサート&ミーティング」開催

※前回に記載。新たに日記から追加

当日、機器類の中でスライド映写機用の延長コードの手配を忘れ、20日に会ったばかりのオリジナルプロデュ―スの家村さんに借りようと電話すると、すごくお怒り!「30日開催オズモンズ・フェアの連絡が何もきていない! 観客整理の事、プロジェクター(投影機)の事などどうするのかね!!」と。僕に言われても・・・。こっちも今、160名を前にフィルムコンサート開催中で、機器類の用意ができてなくて大変なのに、30日の機器のこと今言われても(T_T)・・・ともあれ一応丁重にお詫びしたけど・・・頭の中は延長コードのことばかり。

夜、Mimiさんに電話すると、「電話したけど家村さんお留守で女子社員に伝えている。ナベくんからもう一度伝えて」と。

3月27日(水)家村さんに電話すると留守。女子社員が「プロジェクトはいつも教映社で借りている。直接交渉してください」と。教映社へ電話すると「プロジェクターは午後1時からと聞いている」。「1時ではなく10時です」と僕。「では25000円が30000円になります」と。16ミリ映写機1台と技師で30000円は高い。昨日のフィルムコンサートの森ノ宮青少年会館は5000円でした。〝青少年育成のための健全なファンクラブ〟が使用するので格安です(^-^; 300人収容の独立した舞台付円形ホールが4時間6000円でした。

この夜、3日後の30日「オズモンズ・フェア」で渡す入場整理券をマイプリンターで3色に分けて計360枚印刷。ヘルパー達に9時半集合と電話で伝える。

つづく~~~

 

★1974年当時のオズモンズ。

 


★1974年春のファンクラブ会報

 

「ファンクラブ・フィルムコンサート&ミーティング」では、オズモンズが当時出演していたカルピスCMの撮影オフショット(カラー)をスライド上映しました。

 

★大阪府立青少年会館。1969年開館で僕たちが使用していた当時は新築で綺麗な建物でした。各階に会議室があり、「青少年育成のため」に登録すると無料で使えました。すり鉢状の客席で舞台もある300人収容の小ホールは左手前の大きな建物。本館から渡り廊下で独立し、アマチュア劇団がよく公演に使用していました。僕たちはこの小ホールで7回「ファンクラブ・フィルムコンサート&ミーティング」を開催。本館会議室での月定例会は45回でした。2009年閉館。思い出の場所、今はマンションになってます。

 

★毎年春に会館に申請書を提出し審査を通れば小ホールが6000円、会議室は無料です。1970年最初の登録の時に窓口の桑原さん(男性)に「なんで、ロックグループのファンクラブの活動が、青少年の育成になるの~??」としつこく言われましたが、2年目からは継続ですんなり審査はパス(^^;)

 

 

★青少年会館の案内パンフ。毎月催し物パンフが会館ロビーはもちろん、市役所など大阪市関係の建物に置かれてました。ファンクラブは僕たちのオズモンド・ブラザーズ・ファンクラブが唯一の存在でした(^o^)/

 

★当時のファンクラブのマーク入り封筒。中は、青少年会館の申請書や領収書でいっぱい。

 

★青少年会館からお叱りのお手紙(+_+) 「後から使用するグループに迷惑をかけないように・・」「使用状況が悪いため・・・」。これはFCメンバーの名誉のためにいっておきますが、申請書や利用届が遅れたこと、あと片づけが遅くなったりしたことによる注意。オズモンズのファンは、いつも礼儀正しい物静かな、育ちの良いお嬢さんばかりでした~(^o^)丿

 

 






 

■ファンクラブ活動日記~49年前にタイムスリップ!

 

■前日までのあらすじ

〇1972・73年とオズモンズ来日ニュースが流れては消え・・ファンクラブ活動も下火になってきた翌74年は、それを取り戻すかのように春先から忙しくなってきた・・。


3月11日(月キョードー大阪佐野氏からお電話。

3月12日(火)大阪梅田のキョードー大阪で佐野氏と会談。
ポップスアイドルのデビッド・キャシディ来日公演にオズモンズのファンクラブメンバー動員の協力要請。「ファンの性質が異なるのであまり期待はしないでください」と伝えた上で協力することに。

3月20日(水)オズモンズの招聘元(株)A.M.Pのデイレクタ―Mimi井上女史来阪。
26日開催「第7回フィルムコンサート&ミーティング」、30日開催「オズモンズ・フェア」の打ち合わせ。

3月21日(木)Mimiさんと、心斎橋三木楽器店へ打ち合わせ。
30日「オズモンズ・フェア」の会場が三木楽器店のホールを借りての開催ゆえ。

3月24日(日)デビッド・キャシディ大阪公演 
1回目公演は客席半分の入り。2回目公演は「一部無料で客を入れ座席を埋めた」と後で関係者からお聞きした。
僕も、引き受けた沢山のチケットがぎりぎりまで残り、その販売に泣かされた・・。

3月26日(火)「第7回フィルムコンサート&ミーティング」開催。

3月30日(土)オズモンズ・フェアー」開催。


〇僅か1か月の間に3つの催し物に関わり、毎日時間に追われる超忙しい日々でしたが、それがとても充実していて楽しかった。

~~

■「第7回フィルムコンサート&ミーティング」午後1時~5時 森ノ宮青少年会館小ホール


〇それまで会の名称は「ミーティング」と話が中心だったが、スライドや16ミリフィルムの上映などが増え、この会より「ミーティング」改め「フィルムコンサート&ミーティング」とした。


〇当日 私鉄すべての大規模な交通ストで正午まで全面運休となった。開演の1時になっても人数が集まらずイライラしながら待機。結局、先に来ているメンバーに開演を1時間遅らせて2時とお伝えする。メンバーは会館の所々でオズモンズの写真など見せ合ったり雑談しながら時間を潰していた。

〇またトラブル発生! 会館担当者への連絡不足で、マイク1本、レコードプレーヤー、16ミリ映写機しか手配しておらず、スライド映写機、延長コード、マイク追加1本を会館事務所に借りに行くが、担当者の桑原さんに「急に言われても用意はできない」と冷たく断られる。機材なんて倉庫にいくらでもあるのに・・・。この桑原さん、ファンクラブがこの会館に無料使用のため会員登録していることを日頃より快く思ってはいなかった。「なんでファンクラブが青少年育成になるの??」と(^^;) 僕は以前、映写機を借りた機材店に電話をかけ、お手伝いしてくれていたMizue田村Mayumi藤原の二人にタクシーで20分の本町まで受取に行ってもらいなんとか間に合わせた。

〇舞台裏では、Yuko小野Mituko小比賀が中心になり、オズモンズの写真販売のため見本写真を大きな白い紙に貼りつけ廊下の壁に掲示する作業を行っていた。この会から利益は大阪で貯蓄していいと念願の独立採算制になったので、オズモンズの写真を販売することにした。これが後日、大きなトラブルになるとは思ってもいなかった・・・(+_+)

〇いつしか自然にヘルパーが復活した形になり、ヘルパーYuko小野Mituko小比賀、準ヘルパー大阪のMiue田村Keiko中浜Mayumi藤原、奈良のYouko谷口 Midori谷井の7名が受付や写真販売を担当。僕は機器類の操作を担当することに。ヘルパーのAoi山本は病欠。Siyoko冨士谷は欠席、Yasuko松下は手伝う気はなく、販売する写真を遅刻して持ってきた。

〇午後1時で数人だったメンバーも、1時半には約100名が並び、最終的に160余名を動員。小ホール定員300席の半分が埋まり、やれやれと・・。

〇午後2時いよいよ開演

1、リーダーのご挨拶
僕は表情が少し強張っていた。ヘルパーのYuko小野、Mituko小比賀、Yasuko松下を舞台に上げて面白可笑しく紹介するが3人は舞台に立つのは初めてで相当揚がっていた。観客160名、笑いもせず静かに聴いていた(^^;)

2、ファンクラブの歩み紹介
僕が面白可笑しく話す予定だったが会場シラけてしまっており、急遽ヘルパーに交代するがヘルパーも揚がってしまい原稿の棒読みに・・・。

3、オズモンズの近況紹介
引き続きヘルパー3名が舞台に上がり話し始めるが、終始会場はシーンと水を打ったような静けさ・・(>_<)

4、オズモンズからのメッセージ
オズモンズ(ダニー、マリー、ジミー)からのメッセージテープを舞台裏でMizua田村とKeiko中浜がテープレコーダーで流すがこれが回転数が遅く、会場に流れたダニーの声が低音のおっさん声になり、ここで初めて会場がドッ~と沸いた。

5、オズモンズ近況スライドフィルム上映
カルピスCM撮影の未公開スライドフィルム。僕が会場中頃の通路で映写機を操作。1枚1枚スライドフィルムを映し出し、ヘルパーが舞台で説明。ようやく客席のメンバーから笑い声や歓声が聞こえた(^o^)丿 要するに僕たちの話はいらないということ(+_+)

6、16ミリフィルム上映
72年6月パルコの「フィルムコンサート」でメンバーが熱狂した「オズモンズ・ロスフォーラム・ライブ」の再上映。

映写機を借りたのだから当然会館事務所が上映してくれるものだと思っていたら、技師が来ない。慌てて事務所の桑原さんに言うと「技師の予約はなかった」と。もう何を言っても無駄(-_-;) 自分で地下室の管理事務所に行って会場ホール後ろにある映写室の鍵を借りて入る。大きな映写機があり、触るのは初めてだがテレビや映画でリールを取り付けているのを見た事があり、見よう見まねで取り付けスイッチを入れるとフィルムを切ってしまう(゚Д゚;) あちこち触っているうちに上手く上映できた! さすが男子(^_^)v 2回視たいとアンコールの声がかかるが時間がなく1回上映だけ。

7、洋書、ポスター販売
この会より独立採算制になったので、売れるものはなんでも売って利益を貯蓄しておこうとヘルパーやメンバーの不要になったオズモンズ関連グッズを販売することに。当日、僕はバタバタの忙しさで値段を決めるのを忘れ、舞台の上で僕やヘルパーがグッズを個々に見せて希望者と交渉、値段をその場で適当に決めての販売となった。

8、写真販売
こちらはホールの廊下で写真を貼りだし、横の机で奈良のYouko谷口 Midori谷井の二人が希望写真の番号と送り先を書いてもらいお代金を受け取り、後日発送という形をとる。

9、午後5時閉演
予定どおり午後5時に終了させて急いで会場後片付け。会館5階屋上出入口の空きスペースに使わない椅子やテーブルなどが置いてあり、会議室が借りれなかった時に無断で使用していたので、そこでヘルパーと収支計算や写真のプリント・発送手配の打ち合わせ。

お手伝いのお礼に食事でもと思ったが主なメンバーが用事があるとのことで、小雨の中、Koko田淵(初代ヘルパー、懐かしい~!観に来てくれた)とMituko小比賀とMiaue田村と僕は地下鉄で、Yuko小野、Yasuko松下、Keiko中浜は環状線で帰ることに。

※終始バタバタの会だった。帰宅して休む暇もなく、4日後の30日「オズモンズ・フェア」の準備に取り掛かる。

つづく~~

 


★オズモンズ・ロス・フォーラム・ライブ ジャンプスーツの左からアラン、ダニー、ジェイ、ウェイン、メリル。

★フィルム・コンサートでは、このライブ映像16ミリを上映しました。

⇓以下同じ。

 

 

 



★1974年デヴィッド・キャシディ大阪公演のチラシ。当時はデビッドでした。左下がブロマイド。右下の赤い葉書がオズモンズ・ファンクラブ・メンバーに送付された案内状。

 

★キョードー大阪のプレス。デビッドの経歴が事細かに書かれてましたね。