★74年1~3月★1本のお電話でF.C活動再始動!★osmonds | オズモンズ・osmonds・ファンクラブ・活動日記 1969~

オズモンズ・osmonds・ファンクラブ・活動日記 1969~

1971年「♪ワン・バッド・アップル」の大ヒットから半世紀、
今も世界の舞台で大活躍の〝The Osmonds オズモンズ〟
彼らのファンクラブ設立当時の活動史。
そして、ナベさんの「その後」と「今」(^^;)です。
(画像=1969年12月第1回大阪ファンクラブの集い)

■ファンクラブ活動日記~48年前にタイムスリップ!


●1974年1月~3月

 

★青山音楽事務所のMimiさんから「フェア」「ミーテイング」開催協力の要請(^o^)丿

 

ファンクラブ設立から4年目の1973年は、11月に「第6回ミーティング」を開催したくらいで、ファンクラブの活動はどんどん衰退していた時期でした。

 

なにしろオズモンズが72年、73年と2年も来日せず、ファンが少しずつ離れると同時に、活動を盛り立てていた初代・二代目ヘルパー達も進学・就職で活動から離れていきました。それに伴い、僕も近畿リーダーの職を暫定的に二代目に引き継ぐことにしました・・・。

 

ところが、1974年1月新年早々、1本のお電話で、雲がサッーと流れ太陽が顔を出すがごとく、再び、ファンクラブ活動の始まり~~(^O^)/

 

〇1月10日
マリー・オズモンドの「♪幸せのバラ」が大ヒット!

 

昨年12月にソロ歌手としてデビューしたオズモンド8人兄弟の紅一点、マリー(14歳)のデビュー曲「♪幸せのバラ」が、新年早々幸先良く大ヒット! 伸びのある声量で、14歳とは思えないほどの歌唱力と、〝かわいい~〟から〝きれい~〟の変貌ぶりに、当時、僕やメンバーはビックリ! しました。

 

そのマリーが、この後、兄のダニーとTV「ダニー&マリー・ショー」の冠番組を持ち、ラスベガスのシーザース・パレスで定期的に公演を行い、半世紀経った今も米国の芸能界の第一線で活躍しているということ。やはり、音楽一家の血筋は争えないものですね。


〇1月19日
青山事務所のMichiko井上さんからお電話をいただく(^o^)/

 

青山音楽事務所はこの頃、株式会社A.M.P(青山ミュージックプロモーション)に社名を変更し、東京六本木に本社、さらには関西支社も大阪梅田の繁華街のビルの一室にありました。

その東京本社のMicjiko井上さん(愛称Mimiさん)からお電話をいただきます。肩書はパブリシティ・ディレクター。事務所の方からのお電話はMayumi後藤さん(愛称Mamiさん)以来、3年ぶり。お互い「初めまして」のご挨拶から始まり、要件は、春に「オズモンド・フェア」を開催するので会場を探してほしいとの依頼でした(^O^)/ 

 

このお電話で僕は活動を再開することになり、以降、Mimiさんにお世話になります。楽しい思い出もたくさんできました。正にファンクラブ活動後半の74~75年は、Mimiさんからのこの電話、そして出会いから始まりました(^○^)


〇2月6日
久しぶり!オズモンズTV出演「ポップス・イン・ピクチャー」(近畿TV)

 

題名どおり、海外ポップスの動画を公開するTV番組で、この日はオズモンズの2月に発売されたばかりのLP「♪The Plan(ザ・プラン)」のデモ映像から「Let Me In(レッツ・ミー・イン)」「Going Home(ゴーイング・ホーム)の2曲が放映。これが実に素晴らしかった!

 

YouTubeにアップされていますのでぜひご覧ください。僕は、思い出として記憶に留めている方がよいのですべてを見てません(^^;)  「Let Me In」、メリルの静かなソロ、顔のアップから始まり、ジェイのスローのドラム、ウェインのアップ・・・感動の記憶って半世紀経っても消えないものですね。

 

※「♪ザ・プラン」は、大ヒット曲「ワン・バッド・アップル」(71年)以降、ハードな曲が多かったオズモンスですが、「人が生まれ、育ち、やがて神に召される〝人生〟」をテーマ―に、全曲、オズモンズのプロデュース、作曲、演奏の作品で、〝人の一生〟を表現する名曲が散りばめられています。

 

僕は、晩年ではなく、若くして、このような壮大なテーマのアルバムを発表する音楽的才能に当時、驚きました。オズモンド・ファミリーが熱心なモルモン教徒であることも大いに関係しているのでしょう。

 

マリーのデビュー盤「♪幸せのバラ」のヒット! オズモンズの集大成「♪ザ・プラン」のヒット! 正にファンクラブ活動再開に相応し年明けになりました(^^)v


〇2月19日
悲報!神戸のメンバーInoueさんが病気で亡くなられた・・。

 

うれしい出来事の最中、悲しいこともありました。事務所のMimiさんからの要請で活動再開となり、「オズモンズ・フェア」の会場探しなど手伝ってくれるメンバーを募るため、大阪、神戸、京都、奈良の顔見知りのメンバーに電話でお願いしていた時、神戸のあるメンバーに要件を伝え「あなたの友達のInoueさんにも伝えてね~」というと、「彼女・・・今年、肺炎で亡くなったんです」と。ショックでしたね。

昨年11月の「第6回ミーティング」で会った時、何かお手伝いしたいと言っていたのに・・・。まだ15歳ですよ・・。3カ月前ですよ・・・。小柄な可愛い高校生でした。

 

余談ですが、僕は、この数年前の高校2年の時にもクラスメートをやはり病気で亡くしてます。ラクビー部でいつも笑顔。クラスの人気者でよく遊びました。時折、首周りの吹き出物を指で触りながら「また出来てん。痛いねん・・」と。僕らは「ニキビやろ~」とジョークで茶化してました。それから間もなく学校を休みだし、担任が「入院した」、時を得ず「亡くなった・・・皮膚癌やった」と発表がありました。まさか吹き出物がそんな大病だとは誰も思ってなかった(T_T)

夏の暑い葬儀の日、小さなお家ゆえ中に入らず、クラスの友と外で立っていると、お母さんが気丈に笑顔で僕たちに冷たいお茶を振る舞いながら「来てくれて、ありがとう」と。その光景が今も記憶に残っています・・・。

 

これまでの長い人生で、若くしてのお別れはこのお二人だけでした。人の寿命なんてまったく分からない・・・。健康に恵まれたことに感謝しています。

 

〇3月11日
キョードー大阪の佐野氏より、デビッド・キャシディ公演の動員協力依頼

 

僕の名前を事務所から聞かれたのか、夜にキョードー大阪佐野氏よりお電話をいただきます。要件は、「3月、米国のアイドル、デヴィッド・キャシディの来日公演があるので協力してほしい」とのことでした。もちろん、僕は「お役に立てれるならなんでもやります」と、二つ返事で快諾しました。

 

デヴィッド・キャシディは1950年生まれの俳優・歌手。1970年にTV「パートリッジ・ファミリー」で一躍全米のアイドルになり、1971年「♪チェリッシュ」で歌手・デビュー。惜しくも2017年11月に67歳で病死されましたね。


〇3月12日
キョード―大阪で佐野氏と協力の打ち合わせ

 

キョードー大阪は、創業1969年、この時まだ5年目の小さな会社で、イベントの企画・運営を手掛けてました。当時、外国の歌手を日本に招聘する会社を〝呼び屋〟。その公演の運営やチケットの販売をする会社を〝イベント屋〟と呼ばれていて、小さな会社が出来ては消えましたが、キョードー大阪は半世紀経った今、業界のトップとして繁栄しているようです。

 

午前10時、大阪梅田の繁華街、小さなビルの一室にあるキョードー大阪に出向く。佐野氏の協力要請は「デヴィッド・キャシディの大阪公演に、オズモンズのファンクラブ・メンバーを動員させたいので、メンバーリストを貸してほしい」とのことでした。僕が学生ゆえか、なんとなく上から目線の佐野氏の態度と、〝アイドルはみんな同じ。だからファンも同じ〟という言い方に嫌悪感を抱き、「オズモンズのファンとデヴィッド・キャシディのファン層はまったく違いますよ....それに、協力すれば、メンバーに割引とかあるんですか」と尋ねると、「その辺のところはこちらで検討しますので、とにかく貸してください。あと、良い席を確保しますので、メンバーやそのお友達用にまとまった数をファンクラブで買い取ってくれませんか」とのことでした。リストを貸してメンバーに案内状を出すのだから、ファンクラブが買い取ると重複するのでは・・・??

 

この直後、A.M.P(青山音楽事務所)Mimiさん来阪された時に相談し、リストは貸すことにしましたが、チケットの販売は「たぶん売れない」と判断しお断りしました。これが正解でした。

 

〇3月24日
「デヴィッド・キャシディ・ショー」
大阪フェステイバルホール 昼・夜2回公演

 

まったくの不入りで、1回目は客席の半分の入り、2回目はさらに少ないので、街行く人々にチケットを無料で配布したと後から関係者に聞きました。まぁ、チケットが思うように売れてなかったから急遽、苦肉の策でメンバー・リスト借用を思いついたのでしょう。

 

後日、メンバーリスト受取のため、キョードー大阪に出向くと、佐野氏の開口一番「オズモンズのファンクラブ、まったく役に立たなかったね~」だと。「ファン層が違うと言ったのに・・・二度と会うことはないやろな・・( ˘ω˘ )」と、心の中で思った。

 

で~~この方と約1年後にまた会わなけれならないことになるとは・・・(>_<)

 

このお話は、ブログ>テーマ:活動時期のアイドル達>「☆74年☆デヴィッド・キャシディ①☆来日公演協力要請☆osmonds」に記載しています。


〇3月20日

事務所のMimiさん、女性デュオ「乙女座」と来阪、初対面のご挨拶


東京からA.M.P(青山音楽事務所)Miichiko井上さん(愛称Mimiさん)が来阪され、しばらく大阪グランドホテルに滞在されることに。事務所からデビューする女性デュオ「乙女座」のプロモートと、3月26日に予定しているオズモンズ「第7回大阪ファンクラブ・ミーティング」と、3月30日ミナミの心斎橋 三木楽器店での「オズモンズ・フェア」の打ち合わせのため

 

僕は、Mimiさんとはお電話でお話したことはあったが面識はまだなく、次期リーダーのYuko小野とホテルへご挨拶に。お会いした途端、僕もYukoも、美人で明るく、気軽に話しかけてくださるMimiさんに一目惚れ(*^-^*)。青山音楽事務所の女性は、副社長のTakiさんが通訳や司会でテレビに出演され、いつも輝いておられたので、以前、お会いしたMayumi後藤さん(Mamiさん)はじめ、みんなオシャレで美人でしたね(#^.^#) 

 

乙女座のお二人も、すごく明るく清楚で可愛い女子大生。即ファンになりました(*^-^*)。大阪の芸能プロ「オリジナルプロデュース」のプロデューサー家村さんも同席。こちらは乙女座の大阪公演のプロモートの打ち合わせで。

 

Mimiさんが乙女座のお二人のどちらか忘れましたが、「美空ひばりの〝♪りんご追分〟(戦後の大ヒット曲)を作られた、◯◯さんのご親戚」といわれたのが記憶に残っています(記憶違いかな?)

 

乙女座水沢有美 ふるや杏(古家杏子) 
ソフトロック・女性デュオ。1950年 乙女座生まれの二人が、1973年にヤマハポプコンで出会い、パーカション(ボンゴ)とピアノの構成で関西を中心に「乙女座 ゆみ&杏」として活動。2005年12月、水沢有美デビュー40周年記念ライブを機に再結成し、2013年9月には乙女座結成40周年記念ライブ、現在も不定期にライブ活動を行っている(ネットより)。

 

今も第一線で大活躍されていらっしゃるんですね。

うれしいですね(^O^)/

YouTubeにたくさんライブ動画がありますので、ご覧ください。

 

つづく~~。

 

 

★「壮大な人生」をテーマにしたオズモンズのプロデュース、作曲、演奏によるLP「♪ザ・プラン」。

 

★マリー・オズモンド、ソロ・デビュー曲「♪幸せのバラ」。14歳とは思えない歌唱力。曲も素敵です。

 

★マリー(右)と兄のダニー。左がデビュー当時の1973年。右が現在(2020年)。

 

★少し大人っぽくなってきたマリー。1978年頃ですね。

 

★外国TVシリーズ「パートリッジ・ファミリー」で一躍アイドルに踊りでたデヴィッド・キャシディ。

 

★1973年初来日のコンサート・チラシとブロマイドとメンバーへの案内ハガキ(赤)。

 

★乙女座の水沢有美さん(右)、ふるや杏(古家杏子)さん。

 

 

★水沢有美さんの定期ライブに、乙女座の相方 ふるや杏(古家杏子) さんが出演された映像です。

(YouTubeから転載)