実は『1995年の話』は⑫まで書いてたのですが、読み返して、全部消しました。
1995年の話⑥
改めまして・・・
1995年11月に向かう道は最低のスタートでした。
1994年の春、『この試合で勝てなかったら死ぬ』そう決めて出た試合で、最優秀勝利者賞を当たり前に取りました。
体力別はいつも
『優勝は当たり前』
『最優秀勝利者賞を獲らないと意味がない。』
そう思って出ていました。
だから、ライバルは同じ階級の選手なんかじゃなくて、他の階級の選手がどんだけ一本勝ちして上がってきているか?
そればっかり気にしていましたね(笑)
試合後、土居さんに『凄いな~!こんな圧倒的な勝ち方は、佐和田先輩以上ちがう!』と、KOを量産して、パウンドフォーパウンドの一人に挙げられていたいた、先輩に例えられて、
『それだけの選手になったんだな。』
と改めて思いました。
セコンドも二回戦で私の右手が折れても余裕で、準決勝は『かさい君に殺されたら可哀想やから(笑)』と、ほとんどの先輩が栄次郎のセコンドに行ってしまいました(笑)
相手側のセコンドの多さに、結構ショックでした(笑)
最優秀勝利者賞は獲りましたが、試合前から痛めていた、右膝半月板と、二回戦で折れて、ずれた右手の手術が必要でしたが、モスクワから支部になりたいと申請があり、そのセミナーに現役王者が行くことになり、終わってから手術することになりました。
手術後は、70kgあった握力が一桁となり絶望的な気持ちでしたが、OFF期の稽古で少しずつ回復していきました。右手の可動域も戻り、本当に手術して良かったと思いました(※手術前は財布から小銭を取り出すことさえできませんでした)
が!?
しかし、1995年春の試合は回避しました。
もともと94年の試合で最後のつもりでした。
ま~毎回、『これで最後、もうこんなにつらい稽古はこれで最後にする。』って思って試合に出ていましたけどね(笑)(※この大会は、栄次郎、北川が準決勝まで来たことや、決勝の相手や色々な要素があり、真剣に最後にしようと思いました。)
それに正直、遅らせて手術したことで重症化したことや、ロシアセミナーでのある出来事で、試合できる身体と心ではなかったです。
つづく・・・
次回『1995年の春と後悔の念の巻~』