いつもお世話になっております。

ブログをご利用ありがとうございます。

 

本日は僕が活動している、加悦鉄道保存会が

保存・継承している、

加悦鉄道について、概要を紹介したいと思います

 

「概要」

 

京都府丹後半島に位置する加悦谷と呼ばれる地方は

300年以上にわたる絹織物の産地として開けた

地域ですが、

公共交通機関には、全く恵まれていませんでした。

 

そんな中、国が改正鉄道敷設表に

「京都府山田より出石を経て豊岡に至る路線」

明記し、通称「山豊線」として計画され、

 

その後鉄道省(現国土交通省)による、測量と設計

が行われて、建設するはずでしたが、

 

不幸に関東大震災によって、測量図や関係図書が

すべて失われ、白紙になったため、

 

加悦谷の人々は、経験のある技師にその測量と設計

はお任せしたところ、

線路は5.7キロで、軌条・車両を中古であれば

30万円で敷設可能であるとの結論が、大正13年

4月に出され、

 

地域では早速、30万円の株式会社を設立するため、

公募株式を募集したところ、823人の出資者が

でました。

このうち、地域の株式主が多く、まさに地域住民が

願いを込めた鉄道と言えましょう!

大正14年に加悦鉄道株式会社が設立され、

 

そして大正15年12月5日、鉄道の営業を開始し

ました。

 

その概要は全線単線区間で、

路線距離は与謝郡山田村(現与謝野町下山田)の鉄道省

峰山線(現京都丹後鉄道宮津線)の丹後山田駅(現与謝野駅)から、

同郡加悦(現与謝野町加悦)加悦駅間の5.7キロで、

駅は5か所とされました。

 

加悦鉄道開通記念に「加悦鉄道を中心とせる地方交通網」

が発行され、

そこには、加悦から出石を経て豊岡に至る路線が赤い

点線で書かれ、

国の計画の一部を加悦鉄道として、建設しましたが、

その先は国の計画であるとの意味かもしれません。

しかし国が建設することはありませんでした。

 

1927年3月7日に丹後大震災が発生し、加悦鉄道

も全線にわたり、被害を受けましたが、

6日後には全線復旧し、沿線の復興資材運搬など、

震災復興に従事し、改めて鉄道の必要性を痛感したの

です。

 

1934年からは乗合自動車事業(バス事業)を開始

します。

 

そして1939年には大江山ニッケル工業(のちに

日本冶金工業と合併)の経営権を譲渡し、

戦時中は大江山鉱山から精錬工場までのニッケル

鉱石輸送に明け暮れますが、

終戦により鉱山閉山により、戦後は営業線のみで、

細々と旅客営業をしていた加悦鉄道でしたが、

1952年より、精錬工場(のちの大江山製造所)

の精錬再開に伴い、貨物輸送が復活し、

並行してバス事業も再開されました。

 

その後は地域の交通機関としてなくてはならない

存在で、

1977年には加悦駅構内に「加悦SLの広場」

を開設し、観光鉄道を目標としていましたが、

 

1985年5月1日に鉄道事業が廃止され、

60年にわたる鉄道事業に終止符を打ちました。

 

廃止後のその後はカヤ興産と改称し、存続した加

悦sl広場とバス事業を継承し、

バス事業は1999年に、加悦フェローラインに

分社化されますが、2009年に75年間の営業を

終了しました。

 

加悦sl広場は1996年に加悦駅内から鉱山駅跡に

移転され、継承されてきましたが、

2020年3月をもって閉園となりました。

 

現存するのは加悦鉄道資料館となった、旧加悦駅舎

のみ残ります。

 

「在籍車両」

 

(蒸気機関車)

 

(2号)

 

1873年にイギリスで製造され、

大阪~神戸間の開業に先立ち、輸入されました。

 

その後、国の鉄道院・鉄道省(いずれも現国土交通省)

に所属したのち、簸上(ひかみ)鉄道に譲渡されて

同鉄道2号となり、

 

開業に合わせて加悦鉄道が譲り受けました。

1956年に、ボイラーのお水漏れのため使用を中止

して、82年間にわたり鉄路輸送に活躍しました。

 

 

(4号)

 

1921年に長野電鉄が製造した機関車で、

加悦鉄道には1934年に来ました。

 

戦中のニッケル鉱石輸送のため、空気ブレーキ

を取り付けたため、エアタンクが特徴となりました。

 

戦後は旅客列車を引き、大江山製造所再開後は

岩滝専用線の貨物列車を牽引し、

1967年11月に引退しました。

 

(1号)

 

開業翌年に相模鉄道より譲り受けたもので、

加悦鉄道では団体・臨時列車を引く程度で、

 

あまり活動もせずに、1937年に廃車となり

解体されました。

 

話題が少ない機関車です。

 

(3号)

 

開業に合わせて、伊勢鉄道より譲り受けた機関車で、

わずか8tの小型機関車で、

出力不足で対した活躍もなく、1936年に廃車されました

 

メーカーズプレートが旧加悦駅舎 加悦鉄道資料館

にて保存されています。

 

(1088号)

 

元国鉄の1088、1941年に仲間入りして、

鉱石輸送に活躍しましたが、

終戦により使用中止され長期留置の末、

復活することなく、1955年に廃車・解体されました。

 

(Ⅽ160号)

 

第2次世界大戦中に製造された機関車で、

戦時中は鉱石輸送に活躍しました。

 

戦後は旅客列車に使用され、1949年~1957年まで

福井県の犬見鉱山専用線に貸し出された経緯があり、

 

返却後は貨物列車の入れ替えなどで活躍後、1966年

に廃車されて、

京都市に寄贈されたのちに、大宮交通公園で保存さ

れましたが、

2019年に加悦鉄道保存会が譲り受けました。

 

(1260号・1261号)

 

簸上鉄道5・6号機関車が前身で、その後同鉄道

の国有化で1260号と1261号になりました。

 

1943年に大江山製造所が購入し、鉱石輸送に活

躍しました

 

1260号は戦後昭和電工富山工場へ転勤し、

1261号は加悦鉄道で、旅客列車や岩滝専用線の

貨物列車を牽引し、1967年に引退しました。

 

(101・102・103号)

 

101号は1942年、102・103号は1944年に製造

され、鉱石輸送に活躍しましたが

 

戦後は北海道上芦別鉄道に譲渡されました。

現在は102号のみ、鉄道関係の協会が非公開です

が、管理されております。

 

(無番機)

 

詳細不明の機関車で、戦時迷彩塗装の無番機。

加悦鉄道資料館にある資料によれば、この機関車は

160号とされていますが、

とある加悦鉄道ОBはⅭ161号と言っていたと言い

います。

 

資料をたどると1957年に売却とあります。

(DB201号)

 

1953年に森製作所で製造された10t型機で、

燃料経費消滅を図って導入しました。

 

森製作所の機関車の多くは、蒸気機関車の足回りを

再利用するのを得意するメーカーでしたが、

当車は足回りも含めて新品で製造。

 

無骨なセンターキャブにジャックロッドという足回り

の典型的なスタイルで、

竣工後は旅客列車を引いて活躍しました。

1975年に休車。

(ⅮⅭ351号)

 

青森県の南部鉄道が製造した機関車で、

1967年に日本冶金工業が譲り受け、

 

加悦鉄道は借りて使用しておりました。

主に岩滝専用線で貨物を牽引し、

ⅮⅮ352号竣工後は非常動員(予備車)になりました。

 

(ⅮⅮ352号)

 

1974年に日本冶金工業が発注・製造した機関車で、

竣工後は岩滝専用線で活躍しました。

 

廃止後は神奈川県の森工業に譲渡され、石巻臨海運輸

に配属されました。

(TMC100BS)

 

ラッセル式雪かき装置を備える排雪モーターカーで、

1978年に国鉄より譲り受け、

廃止まで保線・除雪作業に使用されました。

 

廃止後は加悦sl広場で、展示車両の入れ替えに使用さ

れました。

 

(キハ101号)

 

1936年の開業10周年を記念して製造された気動車で、

 

当初はガソリンカーとして竣工しましたが、

戦時中はガソリン不足のため、木炭ガスを燃料として

使用。

戦後ガソリンカーとして復活し、1968年にディーゼル

エンジンに交換されました。

 

12m車でありながら、バケットと呼ばれる荷物台を

前後に設けたり、片ボギー台車と呼ばれる台車を

持ちます。

(キハユニ51号)

1936年に芸備鉄道(現JR芸備線)が製造した大型

ガソリンカーキハユニ18がルーツで、

 

翌年に芸備鉄道の国有化でキハ二40921とし、

戦後は舟木鉄道に譲渡されてキハ二51となり、

 

1962年に加悦鉄道が譲り受けて、加悦機関区で整備

して、同年7月よりキハ51として使用されました。

 

キハ10形が転入するまで主力車として活躍しました

(キハ08形)3号

北海道での気動車不足のため、オハ62形3両を気動車

に改造し、キハ40として竣工しました。

 

1966年にキハ08形と改番されますが、

客車改造であって、自重が重くて効率も悪く期待した

ほど成果はなく、国鉄では10年足らずで全滅し、

うち1両を1971年に購入。

 

加悦機関区で整備し、1972年から使用開始され、

廃線まで活躍しました。

冬は暖房完備のため重用されました。

(キハ10形)18号

 

1956年製のキハ10形18を1980年に国鉄より

譲り受けました。

国鉄時代は福知山・豊岡機関区に所属していました。

同年12月から使用され、主力車として廃線まで

活躍しました。

(ハブ3号)

 

1889年にドイツで製造された客車です。

客室は普通車と荷物室となっています。

 

形式のハは普通車、ブはブレーキ付きを意味し

手ブレーキは荷物室内にあります。

 

1922年に国鉄から伊賀鉄道に譲渡されて、

ハブ2号となり、

 

加悦鉄道では1927年から1969年まで使用され

ました。

1970年の大阪万博に出展されたという珍しい

経緯があります。

 

 

 

(ハ20号・ハ21号)

 

1895年に鉄道作業局新橋工場で製造された客車です。

 

車体は非貫通で側面に外開きドアが並ぶ、マッチ箱と

呼ばれるタイプで、車内は進行方向と直角に畳敷きの

座席が8列並びます。

 

1928年に譲り受け、1935年に車体改造で幅広い車体に

着せ替えられて、一般的なボックスシートの室内と

なりました。

ハ20は1969年に廃車、展示を前に改造前の車体に復元

されて、ハ4995号となりました。

ハ21は1972年まで活躍しました。

(ハ10号)

 

開業に合わせて製造された木造客車で、

明かり窓のついた二重屋根をもち、

 

客室は普通車とグリーン車に分かれていて、

窓3個分のところに仕切りがありましたが、

これは戦後取り除かれて使用されました。

 

なおグリーン車のところは、戦時中戦没者の

遺骨を迎える英霊車として使われました。

 

1969年に休車となり、以後加悦駅構内で

展示。

1995年に製造時の姿に修復されて、グリーン車

と仕切りなどを復元されました。

 

 

(フハ2号)現役時はハブ2号

 

1916年に旧伊賀鉄道が製造した客車です。

形式のフはブレーキ付きを意味し、

片方のデッキにブレーキハンドルを装備

しています。

加悦鉄道では、1927年から1969年まで

使用されました。

 

(ハ2・6号)

 

戦時中の従業員輸送のために、和歌山電鐡より、

譲り受けたものですが、人手・資材不足のため、

1946年に竣工とされ、主にラッシュ時や臨時列車

に使用されました。

 

2両とも1962年に廃車されました。

(サハ3100形)3104

 

元東京急行電鉄(現東急電鉄)のサハ3104で、

加悦鉄道ではラッシュ時の客車として1968年に

譲り受けました。

しかし客車として使用されたのは3年ほどで、

 

廃車後は加悦sl広場の休憩車に改装されて、

広場移転後は「カフェトレイン蒸気屋」に

再改装されました。

 

(ワブ1形)3

 

室内に手ブレーキを備える有蓋貨車です。

開業時に製造したト1形1・2号を1943年に

有蓋貨車に改造し、ワブ2.3号としました。

 

車番がなぜ2・3号となっているのは、開業以来

ワブ1号が在籍していることです。

 

(トム51形)

 

1942~1944年にかけて30両が製造された

無蓋貨車で、

大江山鉱山からの鉱石輸送に活躍しました

が、鉱山閉山で不要となり、

 

20両は売却されて、10両は国鉄乗り入れに

在籍していましたが、

国鉄乗り入れが禁止されたため、

1966年以降に順次廃車となり、トム53号の

みの車籍が廃線時まで残り、加悦駅構内で

留置されていました。

 

(ワ1号)

 

1930年に鉄道省(現国土交通省)から譲り受け、

主に縮緬(ちりめん)輸送に使用されたとなって

いますが、詳細不明な点が多いです。

 

(ワブ20号)

 

1932年に愛知電気鉄道(現名古屋鉄道)から

譲り受けたもので、主に縮緬輸送に使用された

となってますが、詳細不明な点が多いです。

 

これで終わります

ありがとうございました。