加悦鉄道(かやてつどう)とは、与謝郡野田川町(現与謝野町)の丹後山田駅(現与謝野駅)と同郡加悦町(現与謝野町)を

結んでいた私鉄です。

 加悦鉄道マーク

 

「概要」

 

かつて丹後山田駅と南西部の加悦町を結んでいた路線で、ここは古くから絹織物産地として知られ、これらを京都市や京阪神地区へ輸送する目的で設立。

 

当初は丹後山田駅から加悦、出石(いずし)を経て豊岡へ結ぶ計画でしたが、測量図を国に託した矢先に関東大震災が発生、

書類おろか測量図がすべて灰となってしまい、結果地元823名の出資で設立されました。

 

大正15年12月5日に開業し、開業初日は多くの人が、一目乗ろうと見ようと訪れました。

開業式典は加悦高等小学校(現加悦小学校)で行なわれました。

 

しかし開業から3カ月後に丹後大震災で被災し大きな被害が出ましたが、早期復旧に努めた結果、6日後の3月13日に全線の運行を再開しました。

 

1934年からはバス事業を行ない、1939年に経営権が日本冶金工業に譲渡され、新たに大江山ニッケル鉱業が設立され、この子会社となりました。

 

1942年から大江山から取れるニッケル鉱石を輸送することになり、1940年に大江山側線、1942年に岩滝側線が開通し、一斉輸送が行なわれました。

 

しかしこれも終戦で大江山鉱山が閉山してしまったため、採取不能となり、大江山側線は線路が撤去され(ただし、廃止まで廃線届がだされなかった)、岩滝線側線は戦後工場再開の時に輸入ニッケルを輸送するため存続しました。

 

戦後は主に交通機関としての役割を果たしますが、戦後1948年に加悦谷高校(現宮津天橋高校)の開港で、通学客が減少したため、1970年に加悦谷高校前駅をつくりました。

しかし、モータリゼーションの波を受けて、利用者が減少する中、明治時代に作られた古典客車や、客車改造気動車など、宝庫として人気を達し、1977年に加悦SL広場加悦機関区の横に開設し、観光鉄道に向けて、グッズ類の販売にも力を出すようになりました。

 

しかし、赤字は止まず、徐々に事業を廃止していき、大部分を示してきた貨物輸送のトラックへの移行もあり、赤字額がアップし

結果1985年4月30日にさようなら運転をし、翌日全線廃止となりました。

廃線後は加悦SL広場・バス事業・加悦駅舎は残りますが、バス事業は2009年、

加悦SL広場も2020年に廃線となり、残るは加悦駅舎(加悦鉄道資料館)

のみとなりました。

 

「車両」

 

蒸気機関車

2号

 

元簸上(ひのがみ)鉄道の2号機関車で、開業時に導入したもので、1956年にボイラーの水漏れ大のため

休車となり、1970年に復元運転のために修理されました。

国の重要文化財・日本遺産・産業遺産指定。

 

1号

元相模鉄道の100号で、1927年に入線しました。

しかし臨時列車以外は稼働せず、1937年に廃車・解体されました。

走っている姿の同車写真はなく、まともに稼働していないこととなります。

 

写真の1号は加悦駅構内で、前照灯がないことから、

留置?されているところと思われます。

 

3号の証であるメーカーズプレート

 

3号

 

元旧伊勢鉄道の8tクラス小型機関車で開業時に導入しますが、出力不足のため使用できず。

1936年に廃車・転売か解体されたと思われます。

加悦時代の同車を撮影した写真すらなく、どんな機関車だったかは不明です。

 

4号

元河東鉄道(現長野電鉄)の3号機で、1934年に購入しました。

1940年に鉱石輸送に先立ち、空気ブレーキを取り付けています。

戦中は鉱石輸送に、戦後はおもに貨物列車を牽引し、1967年に休車、1969年には廃車となりました。

 

1088号

 

元国鉄の1088で、1941年から使用開始され、鉱石輸送に従事しますが、

終戦とともに使用中止となり、その後再起することなく、1955年に廃車・解体されました。

同車が貨物を引く写真など数枚が、日本冶金工業にて残されています。

ただ非公開です。

 

Ⅽ160号

鉱石輸送に合わせて新製された機関車で、戦中は鉱石輸送に従事し、戦後は旅客列車を牽引しました。

また一時期は福井県の犬見鉱山専用線に出張(1949~1957)したという経緯があります。

加悦帰還後は入換用や貨物牽引用だったと思われます。

1966年に廃車され、1969年に京都市へ寄贈の上、大宮交通公園で保存されましたが、

2019年に里帰りし、加悦鉄道資料館で保存されています。

1260・1261号

 

元国鉄の1260・1261で、1943年2両ともに入線し、鉱石輸送に従事しました。

戦後1260号は昭和電工富山工場へ、1261号は加悦に残り、旅客や貨物を牽引する役をしていました。

DC351入線に伴い、1967年に休車。

101・102・103号

 

101は1942年に、102号・103号はに製造された機関車で、鉱石輸送に使用されましたが、加悦での活躍は短く、

4~5年間で、1948年には3両とも北海道の三菱鉱業線に譲渡され、おもに芦別鉄道と尺別鉄道線で活躍しました。

102号が非公開で保存されています。

 

 

 

無番機

 

詳細不明の機関車で、車番では「Ⅽ161号」とされ、

Ⅽ160号とも似ていますが、若干(じゃっかん)違うところも

見受けられます。

写真は迷彩塗装姿のもので、1947年撮影となっています。

岩滝線敷設工事に使われていたとも言われています。

 

なぜ番号が与えられなかったのかも、ハッキリ分かっていません。

 

 

 

ディーゼル機関車

 

DB201号

 

1953年製で、森製作所で作られた10t型小型機です。

森製作所の機関車は、多くが蒸気機関車を改造して竣工していましたが、

同車は足回りも含めて新製で作られました。

 

主に旅客列車を引き活躍し、1975年に休車となりました。

DC351号

 

元南部鉄道のDC251で、1967年に日本冶金工業が購入し、加悦鉄道は同車を借り入れて使用されました。

岩滝側線の貨物列車を引き、合間をぬって旅客列車も牽引しました。

DⅮ352入線後は非常動員となりました。

←加悦駅にてDⅮ352(左)

ⅮⅮ352号

 

1974年に日本冶金工業が新製し、加悦鉄道が借り入れていたものです。

おもに岩滝側線の貨物列車を牽引しました。

廃線後は森工業を通じて石巻へ売却されました。

 

気動車

 

キハ101

加悦鉄道10周年の時に新製したガソリンカーで、戦中に木炭を燃料にし、この装置の撤去は1949年頃です※。

1968年にディーゼルエンジンとなり、1980年に休車となりました。

しかし実際は廃線時まで在籍扱いでした。

日本で一番長生きしたガソリンカーで、唯一残るバケット付動態車両です。

キハ51

 

元舟木鉄道のキハ二51で1962年に入線し、加悦機関区で整備されて、同年7月より使用開始されました。

前歴は芸備鉄道のキハユニ18で、国鉄キハ二40921を経て、戦後に舟木鉄道が購入したものでした。

定員109名は大型で主力として活躍し、キハ1018の入線まで時々使用されました。

 

後から江若鉄道より、変速機・台車などを譲り受け搭載したほか、北丹鉄道より暖房装置を購入し取り付けたりしました。

キハ08形(083)

 

元国鉄釧路機関区のキハ083で、1972年から使用開始。

大型で基準を超えていたことから、許可を経て使用されていました。

しかし加悦鉄道ではキハ10形入線まで主力でした。

冬は暖房装置搭載であったため、評価されていました。

キハ10形(1018)

 

元国鉄豊岡機関区のキハ1018で、1980年に入線。

特に改造されたところはなく、

5年間でしたが加悦鉄道の主力車として活躍しました。

 

加悦SL広場移転後に、車内がゲームセンターに改装されました。

 

客車

ハ20形 (20・21)

元国鉄のハ4995と4999で、1927年に入線。

1935年に車体が更新されています。

前歴は1893年製の国鉄ハ4975形客車でした。

 

20号は1969年に廃車となったあと、加悦機関区で倉庫としていた同車車体と

ハ4999の台車を組み合わせて復元されました。

21号は1972年まで使用されていました。

ハブ3号

ドイツ製の元伊賀鉄道の客車で、1927年に入線。

前歴は讃岐鉄道(現JR土讃線)で使われていたものです。

※九州鉄道で使用との解説がありますが、説があります。

1969年に廃車となりました。

1970年の大阪万博に出展された経緯があります。

 

今は加悦鉄道資料館で保存されています。

ハブ2号(フハ2号)

 

元伊賀鉄道の客車で、1928年に入線。

ロングシート車で、1969年に廃車となっています。

 

※加悦SL広場ではフハ2号となっていますが、現役時代はハブ2号でした。

 

ハ10号

 

加悦鉄道開業時に新製された客車で、明かりどりの二重窓をもちます。

同車は普通車とグリーン車とありましたが、実際はグリーン車が設定

されませんでした。

 

戦中はグリーン車室は英霊室として使用していました。

 

戦後に普通車とグリーン車の間にあった仕切りが取り外されました。

1969年に廃車。

 

サハ3100形(3104)

 

元東急の電車で、1969年に入線。

 

加悦機関区で小改造しラッシュ時の客車として使用されましたが、2年で終わり、

加悦機関区で倉庫として使用されたあと、加悦SL広場の休憩車に改造し、さらに広場移転後にカフェトレイン蒸気屋(や)に改装されました。

 

そのため本来よりも車体幅が広くなってしまっています。

 

ハ2号・6号・7号・8号

 

元和歌山鉄道の客車で、1943年に入線。

日本冶金工業の手配によって手に入れたと言われ、

戦中の鉱山労働者・工場関係者輸送に使われていたものです

 

おそらく他2両は人手・資材不足で着手が遅れ、1944年2両のみ完成したとされています。

7・8号は未完成で終戦を迎えたと言われています。

ハ2・6号は加悦鉄道で戦後もおもに朝夕ラッシュ時や臨時に使われました。

1962年に廃車。

 

貨車

 

ワブ1形 (1~3)

前歴はト1形で、これを1943年に有蓋貨車に改造したものです。

おもに貨物列車最後尾に連結されていたと思われます。

 

ワブ1号は新製、ワブ2・3号はト1形から改造です。

 

ワブ20号

 

1927年に愛知電気鉄道(現名古屋鉄道)から転入したものです。

記録がないため、そのまま使えたかは不明です。

転入理由は絹織物輸送のためかと思われます。

1947年に休車となり、1950年廃車とされています。

 

話題の少ない車両です。

 

ワ1号

 

1930年に国鉄から導入し、前歴は1896年製のワ154とされ、絹織物輸送用として手にいれた

と言われています。

 

終戦後の1946年1月時点までは稼働していたと言われていますが、後年廃車されたと思われます。

こちらも話題が少ないです。

 

ト1形 (1~7・101~116)

 

1号と2号は開業時に新製、3から7号は1941年に加越鉄道から転入した同形車で、101から

116の16両は日本冶金工業が手配して国鉄から転入したものです。

 

1号と2号はワブに改造され、他は戦中の鉱石輸送に使用されたと思われます。

なおこの中から捕虜輸送貨車に改造されたものもありましたが、車両番号の記録がなく

どの車両が使われたかは不明です。

 

トム51形

 

鉱石輸送に合わせて新製されたもので、計30両が製造。

 

鉱石輸送では5両編成で使われたと言われ、戦後は不要となって、多くが他社へ売却され、

残る10両は戦後の精練工場再開時に輸入ニッケル輸送用に国鉄乗り入れとして使用されましたが、

 

直通運転に使用できなくなり、9両は廃車となり53のみ残っていました。

 

 

 

 

加悦鉄道の詳細については、「加悦鉄道物語」を、

加悦鉄道車両については、「加悦鉄道の車両」をご覧ください。