岡山最終日の続きです。
午前中に津山城へ行って岡山に戻ってきました。
路面電車で岡山城へ行きます。
岡山城
旭川沿いから最初に見える月見櫓。
千鳥破風と唐破風がついたデザイン性の高い櫓です。
◯月見櫓(現存)
1620年代に築造。昭和20年の空襲による消失を免れて国重要文化財となっています。
月見櫓は外側と城内側とで外観が大きく違います。
外側は鉄板張りの石落がついた出窓があり、軍備性を備えています。外から見ると二重櫓に見えますが、城内側から見ると↓
三階建てで、最上階には手すりと縁側、雨戸がついています。内部は天井板が貼られていて、月見櫓の名の通り風格を高めた造りになっています。写真は雨戸が閉まった状態です。
◯月見櫓
外側と城内側
◯伊部櫓跡の石垣
池田忠雄が築いた切石積みの石垣です。
右側の石垣は小早川秀秋が築いたものを池田忠雄が改修しました。
小早川秀秋の石垣は丸みのある石材でできています。
◯大納戸櫓跡の石垣
小早川秀秋が築き、池田忠継が改修。
池田氏の切石の石垣と比べると傾斜が緩やかです。
大納戸櫓は四階建ての天守に次ぐ大きさで、本丸大手を守っていました。
◯内下馬門跡(大手門)
◯内下馬門跡と鏡石
◯内下馬門跡と鏡石
◯下の段
◯下の段
◯本丸本段の石垣
宇喜多秀家が築いたもので高さ15.6m(現在は3m埋まっています)関ヶ原の戦い以前に築いた石垣の残存例は貴重なもので、高さもトップクラスです。
◯本丸本段の石垣
天然の岩盤を土台にしています。
正面の建物は不明門です。不明門の下の石垣は、小早川か池田時代に築かれたとされています。
下の段から中の段へ上がります。
◯鉄門跡
◯表書院御殿図
中の段には、藩政の中心の場であった表書院の御殿が建てられていました。発掘調査に基づいて、間取りが平面展示されています。
◯多聞櫓跡
◯穴蔵跡
食糧庫と考えられています。
◯台所にあった流し
中の段北側には台所があり、その付近に穴蔵と流しが置いてありました。
◯宇喜多時代の石垣
江戸時代、中の段を拡張した際に埋め立てられいたものが平成5年の発掘調査で見つかりました。
◯宇喜多時代の石垣
◯埋め立てた時の造成土
中の段の一部を掘り下げて展示施設を作っています。
◯不明門(あかずのもん)
明治に取り壊されましたが1966年に復元。
本段に上がる城門です。本段には藩主の御殿があり、限られた人しか入ることができませんでした。常時閉ざされていたことから不明門と呼ばれ、藩主の移動は天守近くにある渡り廊下(櫓門)を利用していました。
◯不明門
◯天守の礎石
天守再建時に元の礎石を移設。
◯六十一雁木上門
元々は高麗門でしたが薬医門で再建されました。
城の裏手、旭川に通じる門で、降りたところには櫓門があり、二重の門構えで守りを固めていました。
◯天守(外観復元)
戦災で消失する前は国宝でした。
1966年に外観復元。平成8年に金箔瓦が再現されました。
望楼型 五重六階天守。天守台は不等辺五角形をしており、付櫓(つけやぐら)がついているのが特徴です。天守の下見板には黒漆が塗られ、金箔瓦を使用していることから、「烏城」「金烏城」と呼ばれています。
付櫓は「塩蔵」と呼ばれる食糧庫です。築城者である宇喜多秀家は、国内外であらゆる城攻めを経験していたため、その経験を生かし籠城戦でも戦い抜ける"日本一実践的な天守"となったそうです。
天守からみた後楽園
本段を降りて、朝ドラ「カムカムエヴリバディ」の安子に思いを馳せながら旭川沿いを歩きます。
安子がいつも走っていた場所かな。
切なさが蘇ってきます。
◯六十一雁木下門跡
下門は櫓門でした。
不等辺五角形、野面積の天守台。
天守台は宇喜多直家が1597年までに築き、高さ14.9mあります。
ここからの眺めは高さと立体感があって最高です。黒漆に金箔が重厚感を増していて、とにかくかっこいいです。
◯廊下門(1966年再建)
本段と中の段を結ぶ城主専用の渡り廊下としても使用されていました。
月見橋を渡って後楽園に行きます。
昭和29年に建設され、岡山城と後楽園の往来が便利になりました。今年の12月に塗装の塗り替えが行われます。新たな塗装色はweb投票によって決められ、橋はブラック系、ライトは金色の岡山城カラーに変わります。
月見橋から見た天守
◯後楽園
日本三大名園のひとつ。
藩主が池田家に代わり、二代綱政の時に庭園をつくりました。代々に渡って世相を反映した改変を行い現在の庭園が完成しました。
以前兼六園には行ったことがあるので、日本三大名園はこれで制覇です。
この岡山城を取り巻くように流れる旭川は、天然の外堀となるように岡山城築城時に付け替えられてできたものです。
河川の流れを変えたことで岡山城は度々洪水の被害を受けるようになりました。
3代藩主光政は、洪水から守るための治水事業に尽力し、百間川と呼ばれる人口の流水路をつくりました。
◯西の丸の石垣
西の丸は、宇喜多直家が最初に築城した石山にあります。全然回りきれず後々知ったのですが、西の丸の石垣は、ほぼ完存といっていいくらい良好に残されているそうです。
◯西丸西手櫓(現存)
戦災で残った貴重な遺構です。
<岡山城について>
1521年 金松氏が小規模な要塞を築いたのが始まりで、1570年に宇喜多直家が略奪し、1573年に石山に本丸を置いて城を拡張しました。
1579年 宇喜多直家が毛利から織田へ鞍替えしたことで、備中・美作は、宇喜多と毛利の抗争の場となります。戦が激しくなる中、1582年に直家が急死。息子の秀家は11歳の若さで当主となりました。戦は宇喜多の劣勢一方でしたが、羽柴秀吉が備中に侵入すると戦況は逆転します。備中高松城の戦いで秀吉・宇喜多軍が勝利すると、宇喜多秀家は秀吉の庇護のもと備前、美作、備中57万石の大名となり、それに相応しい城を築くため、本丸を岡山に構築して城下町を整備しました。宇喜多秀家は豊臣政権五大老の1人で、関ヶ原の戦いでは豊臣への忠義を貫き、西軍最大勢力で参戦しますが敗戦し、八丈島へ配流となりました。
関ヶ原の戦いの後、岡山城には小早川秀秋が入り、城の拡張と城下町の整備が引き継がれます。しかし、小早川家はすぐに断絶したため、次に入城した池田忠次が、弟の忠雄と岡山城を完成させました。以後、明治維新まで池田家が岡山の地を治めました。
明治になると、天守、月見櫓、石山門、西丸西手櫓を残して取り壊されます。天守は関ヶ原以前の貴重な建造物として国宝となっていましたが、戦災で焼失。昭和41年に再建されました。
秀吉ファミリーであった宇喜多秀家と小早川秀秋。幼い時から秀吉の影響を強く受けた2人です。関ヶ原の戦いによって2人の運命が大きく変わり、敗者と功労者、入れ替わる形で岡山城主となりました。
毛利ファンとしては、早すぎる小早川家の断絶がショックでなりませんが、その後に入城した池田家もかなりの名門です。池田家が完成させた岡山城と後楽園、さらには治水事業や庶民のための公立学校の創設など多くの功績が残されています。
岡山のご当地グルメの"えびめし"を食べる時間がなくなってしまったので、テイクアウトして帰りの新幹線でいただきました。
ウマウマでした。
<旅のスケジュール>
6:00発 岡山駅 -JR津山線- 津山駅 7:32着
⚪︎城東重要伝統的建造物群保存地区
8:40 津山城
⭐︎「津山城備中櫓受付」スタンプ
⚪︎津山まなびの鉄道館
⚪︎昼食:和み ホルモンうどん
11:41発 津山駅 -JR津山線- 岡山駅 12:49着
12:56発 岡山駅前 -岡山電気軌道東山本線-
城下 13:10着
13:15 岡山城
⭐︎「岡山城天守閣入口」スタンプ
⚪︎後楽園
16:17発 城下 -岡山電気軌道東山本線-
岡山駅前 16:27着
17:52発 岡山駅 -JR山陽新幹線→東海道新幹線-
小田原駅 20:42着
<達成状況>
🔹100名城(14/100)
🔹続100名城(14/100)

















































