5月15日 沖縄本土復帰記念日

 

1972年5月15日沖縄の祖国復帰

琉球から沖縄県になった

その頃の僕は、中学生だった。

自転車に乗り、牛乳配達をしていた。

車は右側通行、今とは反対だが、あの頃はそれが、当たり前だった。

左ハンドルの逆輸入されたポンコツの車が、当たり前だった。

5年後に通行方法が変更されて(730)、日本本土と同じ左側通行となった。

 

個人経営の牛乳屋さんだった

オートメーションでビンに牛乳が詰められ、紙のふたがかぶされる

最新式のオートメーションはそこまで、

自分で配達する分の牛乳を受け取りビニールをかぶせ輪ゴムで止める

小学校の四年後半から、やっていて、

慣れたるもので、一本一秒くらいでセットする。

牛乳を箱に入れ、自転車の荷台にくくり、配達に行く。

坂道の多い首里の道は、自転車向きではない。

おかげで、脚力が付いたものの、短足になってしまった。

 

配達した、牛乳は自分で、集金もした。

ドルだった。

日本復帰をはたし、通過も、ドルから、円に変わった。

1ドル315円で換金したと思う。

牛乳配達の収入は1ヶ月、10ドル前後あった。

学用品に使ったり、チョコを食べたり、自分でかせいだお金だし、小さな金額だし、だれも、文句はいわなかった。

おかげで、虫歯だらけになった。

出来るだけ、貯金もした。100ドル以上は貯まっていた。

復帰後、円に換金したら、5万いくらか有った。なかなかの金持ちである。

換金した、円のお札はみんな大きくて、おもちゃのお札のように思えた。

見慣れたドルから、円への切り替えは違和感があった。

 

34年前の315円は今では、いくらになるのだろう。

ビン入りのコカコーラが、10セントだった。

時々、仕事をしている親戚の兄さんにコーラをご馳走になった。

僕らは、5セントのミスターコーラか、ベストソーダだった。

コカコーラもミスターコーラも、ぼくらには、同じ味にしか思えなかった。

 

正月のお年玉が、5セントや10セントに25セントが多くて50セントはめったに無かった。

50セント硬貨自体が少なかった。

25セント硬貨は、銀のような材質の金属でできていたが、しばらくして

サンドイッチと呼ばれる銅をはさまれたものになった。

兄貴たちは、銀でできた25セント硬貨をスプーンで、根気よくたたいて、ふちを丸くし中をくりぬいて、指輪をつくっていた。

10セントは銀で出来ていたが、1セントよりも小さかった。

銅で出来た1セント硬貨をけずり、10セントの大きさにして、自動販売機で、10セントのコーラを買うやつもいた。

 

1ドルあれば、友達2人で、那覇に行きデパートで遊べた。首里の人間は国際通り界隈のことを那覇と呼ぶ。那覇市と首里市が分かれていた頃のなごりである。

那覇にいくとよく不良にからまれて、お金をまきあげられた。

だから、全部は取られないように、靴の裏とか、帽子の裏、服の裏などに少ない小さい硬貨を分散して隠していた。

 

アメリカ政府の統治の下では、日本本土に行くのにパスポートが必要だった。

姉が集団就職で、東京に行った、何年かして、母が姉を訪ねて東京に行く時、僕は初めてパスポートなるものを見た。赤かったように思う。

東京から帰ってきた母のお土産は、甘栗だった。

栗は沖縄には無い、しかも、甘く煮詰められている。

とろけるようにおいしくて、それだけで、東京はいいとこだった。

 

しかし、内地では、沖縄の差別が多かったと聞く。

沖縄人、韓国人立ち入り禁止の店も多かったと。

児童文学の灰谷健次郎の小説「てぃだのふぁー」太陽の子供、にも、大阪で苦悩する沖縄県人の物語が書かれている。

 

日本復帰をはたし、琉球政府から、沖縄県に名前が変わった。

琉球王朝時代の沖縄は奄美諸島、沖縄島、宮古、八重山の先島諸島を含め、琉球と呼ばれていた。

王様がかわると、中国王朝から、使者が来て、認定していた。

独立した、琉球王国だが、中国の傘下のようなものだが、それで、うるおっていた。

 

江戸幕府が琉球を支配するようになった。

明治維新後、領有権を主張する中国を無視し、むりやり琉球を沖縄県とし既成事実をつくり、日本の一部とした。中国では、今でも沖縄は中国に領有権があると主張するものがあり、日本の領有権を認めない者も多い。

沖縄は沖縄島を指す言葉だが、琉球という言葉を使わないことで、中国と切り離す日本政府の意図があった。

 

敗戦後、沖縄県は、アメリカの統治下に置かれた。そして、名前も沖縄県から、琉球政府と変えられた。

日本国の支配では無いというアメリカ政府の意図が込められた。

 

沖縄の人たちは、独立も選択肢のひとつとして、今後の沖縄の将来を真剣に考えた。

だが、資源の無い沖縄は、日本復帰がいいと結論づけ、そして一致団結し訴えた。

「沖縄を返せ」の歌を叫びながら。

「沖縄を返せ」
かたき土を破りて 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもって 守り育てた沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ

 

そして、日本復帰をはたし、またもや、沖縄県となった。

日本政府は、沖縄がアメリカからの統治下から離れたことの証に沖縄県とした。

 

念願の日本復帰をはたした。

国際海洋博覧会の開催もきまった。

「沖縄を返せ」の歌も歌わなくなった。

希望に満ち溢れていた。

 

そして、その後の沖縄は、・・・・・

「730」につづく。