相方に日頃から寄り添いながら優しさと温かさの心の杖を持って

接しているだろうかと自問自答したことがあるだろうか?

 

       

 

言い換えれば相手に寄り添いながら『こころの伴走者』になって

いるだろうかと自分の胸に手を当ててちょっと立ち止まって

考える機会と時間があってもいいのではないだろうか?

 

     

 

最近、そんなことを考えてみることも大事かなぁと思っている。

日々の中で いろいろな場面や時間の中で自身の偽りない素の心で

相手を思い遣れているだろうか? 老年期に入ってそう考えてみる

ことがあるだろうかと自問自答することが近頃間々あるのだ。

 

何気ない日常の中でふとした瞬間に立ち止まって自身の心と対峙して

みたら今の自分が相手に対してどんな態度で どんな気持ちで接しているのかを

考えてみる時間があってもいい。自身の後ろ鏡を見て今の自分のココロ姿の

在り様と生きざまを振り返ることがあってもいいのかなあと思っている。

熟年期になってきて老年の想いと言ってもいいだろう。

 

      

 

そこには相手を思い遣れる『こころの伴走者』としての心遣いがあるのか、

無私の気持ちが込められているか、見返りを求めない純真無垢な気持ちが

そこに存在しなければ『こころの伴走者』には程遠いかもしれないと思う。

 

       

 

『こころの伴走者』は、その時々の時間の中で一つづつ地道な心の杖を培う

積み重ねと努力が必要なのだろう。時には そんな前向きな気持ちになれずに

後退することもあるかもしれない。でも小さな勇気を振り絞って前に進む

心根もどこかの場面で振り返ることも必要だろう。

 

まさに『こころ伴走者』になるには、一進一退の『心のラグビーの姿』に

似ているかもと思っている。

 

        

 

また、『こころの伴走者』の気持ちの中には『感謝と反省の気づき』という

『愛のエキス』を懐に忍ばせて相手に寄り添いながら歩んでいくことも大切。

どんな時も、どんな場面でも自分の基軸に素の気持ちを留め置いて歩む心が

相手を愛せる、相手を思い遣れる原動力になるのではないだろうか。

 

       

 

『こころの伴走者』の意味合いを紐解けば我流にこう考えている!!

相手を思い遣る心は、寄り添いの中で 辛い時も 悲しい時も 苦しい時も

反対に楽しい時も うれしい時も 相手に共感する力と傾聴する心、そして

ともに育ち培う心が『こころの伴走者』の心の根っこにあるのでは。

 

    

 

難しく考える必要はない。当たり前のことを当たり前のように自然態で

自分の心に湧き上がるような純朴さ、無垢な気持ちを小さな努力の

積み重ねの中から生み出す自身のエネルギーなのではないだろうか?

 

      

 

心の持ち様は、あくまでネガティブではなく、ポジティブの気持ちだ。

 

        

 

失敗があってもいい。苦労があってもいい。辛くてもいい。

悲しくてもいい。苦しくてもいい。なんでもいいから

その負の心から何かを汲み取る小さな勇気を持って

ポジティブな心で変換していく自分を生み出す事を育んで

心の杖を持って『こころの伴走者』にならんことを期待している。

 

    (画像はネットからお借りしました)