長谷川集平さんのライバル
参加してくれた
絵本セラピスト仲間の
うきょうちゃんが
最後の感想タイムのときに
この本のことに触れていて
知らない本だったので
読みたくなって読みました。
うきょうちゃんは
「時代を先取りしてた本だ」
集平さんは
「岩瀬成子さんは、人間の心のひだを丁寧に言葉にできる人。
大変な才能のある人。
ぼくとしてはライバル。
この人を凌駕するような文章を書かなきゃいけないと
叱咤激励している。
まだ、だめですね。」
とおっしゃってました。
こりゃ読まなきゃダメでしょう。
きみは知らないほうがいい
岩瀬成子作
長谷川集平絵
文研出版
集平さんのおっしゃる
「人間の心のひだ」ってのは
いったいどんな形をしているんだろう?
例えば、こんな表現かな。
「江上さん、ついてくるんだ。」
「いけないの?」
「いけないなんていう資格はぼくにはないよ。」
「ホームレスなの? あの人。」
「そういういい方をしちゃだめなんだ。
そういうふうに、ひとまとめにする言葉は乱暴なんだよ、すごく」
あちゃ〜。
乱暴にひとまとめにしがち。
そのほうが伝えやすいから。
でも枠内に勝手に押し込めることになっちゃう。
「いじめ」「不登校」「ニート」「障害」など。
薄々気づいていたけれど。
こういうことを小学生に言わせるんだねえ。
勝手に定義の中に押し込める怖さ。
それは乱暴なんだ。
どきっとしました。
この本の中には
「いじめ」という枠の中に押し込まれそうな表現が
たくさん出てきます。
それが本当に
うまい。
「毒の矢が飛び交うようになる、のろしが上がるわけでもないのに」とか。
「みんなのにたにた笑いからとろーり、とろーり、汁がこぼれて教室の床にたまっていく」とか。
例えばここも。
「金曜日」と「地下道」という言葉がよごれた言葉になった気がした。
ほんとうはきたない言葉じゃないのに、
あざけるようにいわれたことで、
だれかからだれかへとおもしろがって伝えられたことで、
携帯メールで音もなく伝えられたことで、
言葉によごれがついてしまったのだ。
「金曜日」と「地下道」という言葉に、わたしはアイロンをかけたい。
ぱりっと新しい言葉にしたい。
わたしは先生の話に身が入らない。
先生の言葉がひらひらと木の葉のように散らばっていく。
「速度」とか「距離」とか「時間」とか。
どんなふうにくっついていた言葉なのかわからなくなる。
黒板の前の先生を見る。
先生はいっしょうけんめいにしゃべっている。
前髪をかきあげながら。
両手をぱんぱんとたたきながら。
先生は黒板にチョークで数字を書いていく。
「ほら、つまり、こういうことなの。わかるよね。」
先生、わかりません。算数がわかりません。教科書がわかりません。授業がわかりません。クラスがわかりません。学校がわかりません。
このまんまの体験をしたことはないけどでもわかる。
この感じすんごくよくわかる。
先生の話がぜんぜんわからない。
頭に入らない。
わかりませんわかりませんわかりませんわかりません状態。
映像として見えるようにわかる。
こういうことが
言葉で書けちゃうんだなあ。
それでもって
この場面の集平さんの絵が!
荒涼とした広くて寂しい土の上に
たった一人
机と椅子に座って。
向こうにはゴツゴツとした山があり
地面には定規、コンパス、分度器、鉛筆と
舌を出したへび。
この子にとっての教室ってこんなところ。
教えてもらってよかった。
読んでよかった本でした。
1950年生まれの岩瀬成子さんが
2014年に出版された本で
小学生の心のひだをこんな風に
表現できちゃうって
どういう生き方してるの?