死亡新聞発見
旧住所 名古屋市瑞穂区船原町二丁目三番地
物語が前後するが散りじりになった2丁目3番地の尾崎、小島、
成田と我が家横井の四軒は終戦時にはそれぞれ疎開して行方は分
からん次第で以来ここえは行った事がなく周辺住民の消息は耐え
た。が我が家に「不発焼夷爆弾(120発)」が落ちた以来立ち
入り禁止の挙句「疎開」から縁がきれた状況でその後2丁目4番
地にいた同級生「丹羽信男」の家へ寄り卒業アルバムを写真に
撮って話をするも話題がかみ合わず失礼する。
帰り際二丁目三番地の「金子」宅へよつた、ここは疎開もせず
終戦を超えた、まあ度胸のいい家庭だが当時は戦中であったのに
「麻雀」「ゴルフ」「テニス」「スキー」を一家で営んでいたの
がこちらには「耐え難い」の一念から「俺は生涯」やるまいと
念じて「麻雀」以外はいかに流行しても向くことはなかった。
しかし「和泉亭」就職のさい大流行していた「麻雀」には凝って
毎夜停電騒ぎのさなかでも「麻雀」は夜更かしで夢中にふけった
のも賭け麻雀で従業員一同で地下の客席で営む、当時の「牌」は
平たく大きいのが特徴で「ポン、チイ」と停電、また停電の中で
懸命に賭け麻雀に浸った。
4日親族の喪報で写真額物の中から「美空ひばり死す」の
新聞が出てきたので本日は写真付きです。平成元年6月24日
つづく