田中正造の事跡② 北川辺(旧利島・川辺村)にて | 徹通塾・芝田晴彦のブログ

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かつて北川辺町と云う自治体があった。埼玉県で唯一、利根川の東岸にあった町で、現在では合併により加須市の一部となっている。

利根川と渡良瀬川に挟まれた同地域は、その地理的要因から幾度も大水害に見舞われた。そこで明治の時代、未だ北川辺町が利島村と川辺村だった頃、洪水の度に負担となった堤防の補修費に耐えかねた埼玉県は両村を廃村とし、そこに遊水地を作ろうと考えた。この計画に反対したのが田中正造だった。

北川辺は当時から県内有数の米どころであった。度重なる河川の氾濫によって一帯には肥沃な大地が広がっていた。古代の文明の多くは定期的に洪水が発生し、農耕には理想的な養分を含んだ沖積土が堆積した土地で興った。ナイル川流域が典型例だ。もちろん水害のリスクはあるが、当時の北川辺の人達は水塚(洪水に備えて周囲よりも土を盛り、そこに蔵などを建てた)を作り、非常時の備えも怠らなかった。

もちろんこの様な場所は北川辺だけでは無い。わが国の各地にあった。洪水の代償として豊かな作物を得られる。得がたい環境。江戸時代、藩によってはそうした地で暮らしを営む農民に対し、年貢を減免していたとの記録もある。

北川辺一帯を遊水地にしようとの話が起きたのには度重なる洪水被害の他にもう一つ理由があった。それは言うまでもなく、渡良瀬川上流の足尾銅山が原因の鉱毒汚染だ。埼玉県の考えに当時の内務省と農商務省が同調、北川辺に隣接する栃木県の谷中村をも廃村にし、利根川と渡良瀬川が合流する同地一帯を鉱毒沈殿用の巨大な遊水地にして、被害の拡大を防ごうと云う計画に発展する。

この大遊水地計画。実現しても下流地域での鉱毒被害を減らすだけで、問題の根本的な解決にならないのは明らかだった。上流である足尾銅山そのもので対策を施さない限り、決して被害は収まらないのだ。

田中正造と利島・川辺の両村民は激烈な反対運動を展開する。明治35年10月16日。田中正造の『直訴』の翌年、前月の台風被害で決壊し、その後修復されないままだった川辺村栄西の利根川堤防付近で両村民による決起大会が開かれ、以下の決議がされた。

一. 国・県にて堤防を築かずば、我ら村民の手に依ってこれを築かん。

二. 従ってその際は国家に対して断然、納税、兵役の二大義務を負わず。

村民達の決議文を受け取った埼玉県知事は、当時の国家に対する二大義務であった「兵役・納税の拒否」を見て動揺した。国賊となるをも辞さずとの覚悟の村民達から成る陳情隊は上京し、政府要人と面会。彼等の訴えを聞いた大隈重信は「郷里を愛せない人間は祖国を愛することは出来ない。国は諸君の村を愛する情熱を踏みにじるようなことをしてはならない。この大隈、閣内にいるわけではないが、一政治家としてやれるだけの事はやる」と語ったとされている。

果たしてその二ヵ月後、明治35年12月27日。埼玉県議会は北川辺地区である利島・川辺両村の遊水地化計画断念を表明する。運動は勝利したのだ。然し現在、渡良瀬遊水地となった旧谷中村の買収計画は着々と進行していた。それらのことと、田中正造の治水に関する思想については別の機会に書きたいと思う。


田中正造の遺骨は谷中・小中・佐野・早川田・北川辺に分葬された。写真は北川辺の正造翁の墓所。


住宅の合間に広がる水田。今でも北川辺は米どころ。


北川辺の新米を頂く。大変美味。



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