差別と排他と非寛容(2) | 徹通塾・芝田晴彦のブログ

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民族自決 戦後体制打破
基地問題を考える愛国者連絡会 / 自由アジア連帯東京会議

※本記事はH13.11.2~9『cafe oscar』よりの転載です。
http://www.geocities.jp/oscarexpress/text10.htm



備考:差別と排他と非寛容(1)
https://ameblo.jp/oscarexpress/entry-12334375988.html



その2・イスラエル建国

さて、第2次世界大戦後に建国されたイスラエルです。

古くはカナン、そしてパレスチナとも呼ばれたそこは遥か昔、モーゼに率いられエジプトを出た古代ユダヤ人であるヘブライ人が目指した、神話の時代にはアブラハムが暮らした「約束の地」です。紀元前にはイスラエル王国が存在しました。そうした歴史的経緯から王国の分裂~滅亡を経て再びこの地に2500年ぶりとなる「ユダヤ人国家」が成立するに至ったのです。その背景には、帝国主義の広がりに伴う「列強力学」の動きがあります。国内にも多数のユダヤ人を抱えるアメリカが戦勝国となり超大国として影響を行使したことも大きいです。更に大戦中ナチスによって迫害されていたユダヤ人達に対する国際世論もイスラエル建国の追い風となります。

ウォール街やハリウッドの礎を作ったのも他ならぬアメリカに移住したユダヤ人達です。彼等はこの移民の国アメリカにおいて既に一定の影響力を持っていました。また過去に、帝政ロシアにおいて迫害されたロシア在住のユダヤ人をパレスチナの地に移住するための資金を援助したのは、アメリカのユダヤ系財閥「ロス・チャイルド」家でした。さらにナチスドイツから迫害されて、多くのユダヤ人が建国前にこの地に移住しました。

イスラエル王国以前、アブラハムが移り住んだ頃のパレスチナはエジプトの支配下にあり、ペリシテ人と呼ばれる民族が暮らしていました。因みに「パレスチナ」とは「ペリシテ人の土地」という意味です。アッシリアやバビロニアによって王国が滅ぼされた後はローマ帝国やイスラム帝国、オスマン帝国の支配下となり、ユダヤ人達も世界中に散っていくのですが、パレスチナに残った者達もおり、彼等は同地に移り住んだイスラム教を信ずる多くのアラブ人達=パレスチナ人と長い間、大きな問題もおこることなく共存していました。

近代欧州で「国民国家」の概念が芽生えると世界各地に住んでいたユダヤ教徒がパレスチナを目指すようになります。シオニズムに押され、オスマン帝国に代わって同地の支配者となった英国はパレスチナをユダヤ人の国とすると宣言。当然パレスチナ人は反発しました。が、英国は「パレスチナ人の国も作る」と二枚舌。その後、ナチズムの台頭によって国を追われた大量のユダヤ人がパレスチナの地に流入するに従い、パレスチナ人とユダヤ人の衝突も頻発するようになりました。



1947年、国連による分割決議案の可決に続き、翌年パレスチナのユダヤ人社会は「イスラエル建国」を宣言、米・ソが即座に承認しました。危機感を抱いた周辺のアラブ諸国連合はイスラエルに進攻しましたが、戦争の結果、イスラエルは国連分割決議案時よりも領土を拡張、パレスチナはイスラエル・ヨルダン・エジプトの三つに分割され、消滅しました。

入植したユダヤ人は強引にそこに住んでいたアラブ人を周辺のシリアやヨルダンに追い出し、多くの「パレスチナ難民」を発生させました。今まで農業に従事する事を許されなかったユダヤ人の銀行員や弁護士達は、この土地で悲願でもあった農業をどんどんと始めたのです。さらに、当時のユダヤ人は社会主義的傾向を持つものが多く、人を雇うということをあまりしませんでした。結果パレスチナ人の小作人は次々に土地を追われることになったのです。これはアラブ人からみたら「侵略」以外の何者でもありません。

互いの主張は平行線です。以降現在までこの地で戦争が繰り返されました。イスラエルにとっては防衛戦争、アラブ側(主にエジプト軍)にとっては侵略者に対する汎アラブ主義による「アラブの大義」の戦争です。この度重なった戦争は、周辺各国を巻き込み、米ソの思惑も入り乱れ、様々な展開をみせました。最終的には高い税率で豊富な軍事力を整備し、核を保有し、アメリカの支援も受け、国民皆兵制のイスラエルがアラブ側を圧倒します。

結果、抵抗運動、そしてテロが様々な組織的行動(パレスチナ・ゲリラ)によってイスラエル占領地区の各所で引き起こされました。これらの組織は1964年、PLO(パレスチナ解放機構)という連合体を成立させ、1969年、他のアラブ産油国との太いパイプを持つアラファトが議長に就任、パレスチナ国家の樹立を目指した闘争を繰り広げます。

虐げられた勢力の解放という「アラブの大義」には様々な勢力が賛同しました。日本を脱出した日本赤軍がイスラエルのロッド国際空港で銃を乱射、何十人もの民間人の生命を無差別に奪うというテロ(テルアビブ空港乱射事件)もおきました。彼等はどうみてもただの殺人者なのですが、日本赤軍はこの事件以降、アラブ社会の英雄になりました。

和平の動きも幾度かありました。その一つとしてイスラエルの領土を割譲し、そこに新たなパレスチナ国家を作るというものです。しかし、これはパレスチナ難民にとっては、追い出された地には戻れないということを意味するものであり、受け入れられるものではありません。彼等が「シリア人」や「レバノン人」になることを選ばないのとともに、イスラエルを認めてしまう結果になるからなのです。

結局、シオニズムは「国のない民・ユダヤ人」が国を得た代償として、新たな「ユダヤ人」である「パレスチナ難民」を生み出したのです。(13.11.2)



その3・イスラム原理主義と湾岸戦争

「イラン革命」を契機にアラブの地域に一つの勢力が台頭します。それをアメリカは「イスラム原理主義者」と呼び始めました。

イスラム原理主義とは、「ユダヤ教徒によるユダヤ国家の成立と存続」に対抗するかのように、アラブ社会の大勢を占めるイスラム教徒の法典に厳格に基づいた宗教国家の樹立を目的とした復興運動です。イランでは1979年、それまで「脱イスラム」を進めてきたパーレビ王朝が、民主化と伝統的なイスラム国家の樹立を訴える、ホメイニ師に指導されたシーア派のデモ隊によって打倒され、『イラン・イスラム共和国』が樹立されました。

イスラエル占領地では影響を受けたいくつかの組織がパレスチナの完全解放をスローガンに、殉教精神に支えられた、どんな犠牲も厭わない「聖戦」(ジハード)を繰り広げるに至ります。

隣国イランの革命気分を恐れたイラクの独裁者であるサダム・フセインはイランへの侵攻を開始、8年にわたるイ・イ戦争が開始されます。国際社会の注目は次第にパレスチナ問題から離れていくとともにイスラム社会全体が消耗し、パレスチナ解放闘争への支援も停滞しました。この戦争はパレスチナを失望させ、イスラエルを喜ばせる結果に終わりました。

一方、1985年のソ連のペレストイカは自由化と民族主義の台頭を招き、ソ連国内に居住するユダヤ人のイスラエルへの移住を促進する結果となりました。更にそれは東欧諸国の「アメリカ寄り」を容認することとなり、PLOは後ろ盾を次々と失っていきました。また、ソ連の崩壊は、やがてこの地域での調停役を担う超大国はアメリカ一国になることを意味します。

1990年のイラクのクェート侵攻が引き起こした「湾岸戦争」ではイラクのソ連製対空防衛システムがわずか一日でアメリカ空軍に制圧され、イランの隣国アフガニスタンで発生した内戦に介入したソ連が長期に渡り多大な犠牲を払った末に引き上げたのは、中東における米ソの役割変化を告げる象徴的な出来事でした。この内戦でアメリカは、ソ連に追われたアフガニスタン難民に武器を供与し、CIAは秘密裏に戦線の組織化を行います。これが後にイスラム原理主義と結びつき、ソ連の撤退ののち、パキスタンとの国境付近に住むデオバンド派のパシュトゥーンの部族民が主体となった原理主義市民軍「タリバン」になり、アフガニスタン全土を支配します。

見通しも失い、国際社会の無関心やPLOの活動に失望したパレスチナ人の間では次第にイスラム原理主義が強い支持を得ます。宗教的な熱狂は、唯一の超大国となったアメリカの、一方的なリベラリズム的価値観の押し付けへの反発に対抗するかのように、イスラム過激派とでもいうべき手段を選ばないテロに訴える強硬な宗教民族主義者をイスラム教の国々の各地に生み出しました。その極端な解釈の中には過去のナチスと同じく「ユダヤ人問題の最終解決」を標榜するものもあります。

「湾岸戦争」の際、クェートを占領したイラクを国際社会はこぞって非難しました。しかし、「国際世論」と言っても、それはあくまでアメリカ的価値観に基づく自由主義連合のそれなのです。これに対し、イラクのフセイン大統領は、国際社会はイスラエルのパレスチナ占領を容認しているにも関わらず、イラクのクェート占領ばかりを問題にするのはおかしいと、パレスチナ問題を持ち出してきたのです。

これは問題のすげ替えに過ぎないのですが、パレスチナ人を中心とするアラブ大衆からは圧倒的な支持を得ました。そして、当初の「イスラエル対アラブ」という構図は「ユダヤ人とそれを支援する国家=アメリカを中心とする自由主義陣営 対 イスラム教徒」という図式に置き換えられるのです。

しかし、この図式というのは「多数の容易に影響され易く、嫉妬心で左右される思慮の浅い数多くの大衆を感化する」ためのスローガンに過ぎません。実際には様々な要素が複雑な因縁となって絡み合っているのです。(13.11.4)



その4・反米テロ・ネットワーク

一概に「アラブ人」と称しても、その実態は様々です。一般にはアラビア語を話し、イスラム教を信仰する人々を「アラブ系」または「アラブ人」と呼んでいるに過ぎません。決して単一民族などではないのです。更に、同じイスラムでも預言者ムハンマドの後継を血統で決めるシーア派、能力で選ぶスンナ派に大別され、その両者には相いれない部分もあります。

キリスト教徒のアラブも、ヒンズーやユダヤ教徒のアラブも存在します。また、アラブの国々においては、その所得や生活水準にも差があります。特にクェートやサウジアラビアといった産油国とそれ以外のイスラム諸国との間には大きな所得の開きがあります。様々な立場の相違が貧困とか、不安によって容易に表面化することがあります。

さらに、近代中東の国家成立の歴史の多くはイギリスやフランスの植民地支配の歴史であり、民族や部族ごとの都合を無視した、宗主国、列強間の都合による一方的な国境策定が多いため、アフリカ諸国と同様、内乱や分裂の要因を多く抱えています。

冷戦終結間際に発生したアフガニスタンの内乱の際、アメリカは「敵の敵は味方」ということで、アフガニスタン難民に人気のあった原理主義者・オサマ・ビン・ラディンを支援しました。彼はサウジアラビアの資産家の息子であり、相続した450億円という資産はそのカリスマと共に、CIAにとっては大きな利用価値があったのです。しかし、その関係も長くは続きませんでした。

湾岸戦争終了後もアメリカ軍はサウジアラビアに駐留を続けました。
イスラム原理主義者であるオサマの理論では、サウジアラビアの基地から飛び立ち、隣接するイラクを空爆、同じイスラム教徒を殺害し、さらにはシオニストに協力してイスラエルを存続させるアメリカは「イスラムの敵」であったのです。この理論とスローガンはアラブ社会のかなりの広範囲で受け入れられました。それはまるで大戦中のドイツにおける「悪いのはユダヤ」と同次元の出来事です。そして「悪いのはアメリカとシオニスト」なのです。

根底にパレスチナ問題があるのは言うまでもありません。パレスチナ問題を意識した時、内乱を続けるアラブ社会は、ある一つのまとまった顔を見せます。そして原理主義とパレスチナ問題が貧困と抑圧の中で結びついた時、テロは起きるのです。

オサマはその資産で、アラブ各地のイスラム原理主義者のテロを含む活動を広く支援するようになります。やがて、彼を頂点とするスンナ派を主体とした反米テロ組織『アルカイーダ』とそのネットワークが成立します。彼等のテロの矛先はアメリカです。98年、国際貿易センタービル爆破等のテロ発生に対し、アメリカ・クリントン政権はオサマの拠点をミサイルで攻撃します。

これを受けてオサマは「アメリカに対するイスラム教徒の無制限のテロによる反撃」声明を出しました。2001年の9.11テロの準備が始まったのです。(13.11.9)