どうも、はちごろうです。

 

 

今年もあと40日ほどとなってしまいました。

ホントに月日の経つのは早いですね。

なんかこう、毎週毎週「これを観逃した」を落ち込んでたら

また年の瀬を迎えてしまったという感じで。

とにかく今年は公開作品が渋滞していて、

大手の大作映画ですらスルーしてしまう有様。

そんな状態なのでインディーズ系の秀作に全く時間が割けず。

いま一番怖いのは「あれ観ました?」と「これ、オススメ」って言葉です。

では、映画の話。

 

 


「リスペクト」

 

 

 



ソウルの女王アレサ・フランクリンの半生を描いた伝記映画。
主演は「ドリームガールズ」のジェニファー・ハドソン。
共演はフォレスト・ウィティカー、マーロン・ウェイアンズ。

あらすじ

1952年。デトロイト。
キリスト教牧師クラレンス・フランクリンの娘アレサは
10歳の頃から歌手としての非凡な才能を開花させる。
クラレンスは夜ごと自宅でパーティーを開き、そこでアレサに歌声を披露させ、
家にはいつしか人気歌手のダイナ・ワシントンやエラ・フィッツジェラルドなど、
多くの著名人が彼女の歌声を聴くために訪れるようになっていた。
しかしゴスペル歌手だった母親のバーバラは夫の暴力に耐えかねて離婚。
アレサは最愛の母親と定期的にしか会うことしか許されなかった。
その後、成長した彼女もゴスペル歌手として父の伝道活動に従事。
全米各地を廻っては信者達に歌声を披露するようになっていた。
そんな彼女の評判を聞きつけ、当時カリスマ的存在だった黒人活動家、
マーティン・ルーサー・キングJr牧師も駆けつけるほどの人気だった。
1961年。アレサはNYの大手レコード会社コロムビアと契約。
クラレンスがマネージャーとなってレコードデビューを果たすが、
彼の選ぶ楽曲がアレサの歌声に合わず、なかなかヒットに恵まれなかった。
ヒットを焦るあまり、次第に自分の歌いたいものがわからなくなっていたアレサに、
彼女のライブを聴きに来たダイナは「自分の歌を探せ」を叱るのだった。
数年後、楽曲のことでついに父親に異を唱えたアレサだったが、
クラレンスは彼女に平手打ちして黙らせてしまう。
そんなある日、アレサはホームパーティーでテッド・ホワイトという男性と再会する。
彼はアトランタ時代から顔見知りだったが、当時から悪い噂が絶えない男で、
父親のクラレンスを始め、周囲の人間全員から付き合いを避けるよう忠告されていた。
しかしアレサは彼と急速に仲を深めていき、ついに父親の元を離れ、
テッドをマネージャーにしてアトランティック・レコードに移籍する。
アトランティックのプロデューサー、ジェリー・ウェクスラーは
NYから南部アラバマ州マックスショールズのフェイムスタジオで、
現地のバンドとセッション形式のレコーディングを提案する。
さっそくスタジオに到着したアレサとテッドだったが、
スタジオのオーナー、リック・ホール以下バンドメンバーは全員白人で、
テッドは話が違うと不快感をあらわにする。
しかし即興形式のレコーディングはアレサのスタイルに合い、
曲作りは順調に進んでいたのだが、
テッドはバンドメンバーが彼女に色目を使ったと言いがかりを付け、
リックにメンバーの解雇を要求して殴り合いのケンカをした挙げ句、
注意をしたアレサにも手を上げてしまう。
失意の中、彼女はレコーディングを中断して実家に戻る。
顔にあざを作って帰ってきたアレサに祖母や姉妹、
そして父クラレンスも温かく受け入れるのだった。
アレサは久しぶりに家族との時間を楽しむことで心の平穏を取り戻し、
また家族も彼女宛の電話を一切取り次ごうとしなかった。
そんなある日、家族が地元レコード店からアレサの歌声が流れていることに気付く。
実はアトランティック側が彼女に承諾を得ずレコードを発売し、ヒットしていたのだった。
すぐにアラバマに戻ったアレサはレコーディングを再開する。
その頃、全米では人気歌手オーティス・レディングの楽曲「RESPECT」がヒットしていたが、
アレサはその曲の主人公を女性に置き換えてアレンジして発売。
この曲の大ヒットでついに人気歌手として成功を収めたのだが、
夫テッドの束縛と暴力はさらに強くなる一方だった。

 

 

 

失われた心の寄る辺を求めて



2018年に亡くなったソウルの女王アレサ・フランクリン。
普段そんなに洋楽を聴かない私でも、さすがに名前ぐらいは知ってる大スターで。

そんな米音楽界の大物アレサ・フランクリンを演じるのは
制作総指揮も務める女優ジェニファー・ハドソン。
彼女は2006年の映画「ドリームガールズ」での演技で、
というか歌声でアカデミー賞を受賞したわけですけど。
この作品での彼女は黒人女性ボーカルグループ「ザ・ドリームズ」の中で、
一番歌唱力がありながら冷遇され続ける女性エフィーを演じてて。
それと彼女といえばもう1作。昨年の問題作「CATS キャッツ」で、
醜く落ちぶれてしまった娼婦猫グリザベラを演じてるんですね。

もうね、希代の問題作「CATS」の中でも数少ない名場面、

いわゆる名曲「メモリー」を歌い上げるシーンを担当してたんだけど、

彼女の歌声が聴ければもう満足!って感じですね。

おそらくジェニファー・ハドソンってどんな曲でも名曲にしちゃいそう。

例え「おどるポンポコリン」でも感動の涙を絞り出されそうな勢いですわw


で、今回はソウルの女王アレサ・フランクリン。
なんていうか、彼女が演じてきた役柄は
「才能がありながら周囲に過小評価され続ける女性」
が多いですね。アレサも実はデビュー当時は鳴かず飛ばずでしたし。

ちなみに、ソウルミュージックってなんぞや?というと、
先日映画評論家の町山智浩さんがTVで説明してまして。
元々黒人音楽には教会で歌われる黒人霊歌(スピリチュアル)と、
酒場などで歌われるブルースやジャズがあって、
これを融合させたものがいわゆる「ゴスペル」というジャンル。
スピリチュアルとブルースをミックスした曲調で神への賛美を歌う感じですね。
しかし今度はこのゴスペルの曲調を使って恋愛の歌が作られるようになる。
これが「ソウルミュージック」の大ざっぱな定義だそうで。
まー、ソウルとかファンクとかR&Bとか、
音楽のジャンルってその線引きが曖昧なものも多いので、
この辺のもんはだいたいで押さえておけばいいと思いますけども。


さて、本作はそのソウルの女王アレサ・フランクリンの少女時代から、
紆余曲折を経て自身最大のヒットとなるゴスペルアルバム
「Amazing Grace(日本語タイトル:至上の愛〜チャーチ・コンサート〜)」を
リリースするまでを描いた作品なんですね。
で、一般論として女性アーティストの半生を題材にした作品って、
揃いも揃って男に足を引っ張られるんですね。父親だったり恋人だったり。
ドキュメンタリーや伝記映画となったもので思いつくものだけでも、
ティナ・ターナーやホイットニー・ヒューストン、エイミー・ワインハウス、
画家のマーガレット・キーンから漫画家の西原理恵子に至るまで、
とにかく女性アーティストのキャリアに暗い影を落とすのは男の存在なわけです。
何なんでしょうかね?この男運のなさというか、引きの弱さというか。
悪い男にしか惹かれないのか、それともまともな男を悪い男にしてしまうのか。
そういった意味では、かなり既視感の強い伝記映画とも言えますけど。

で、本作の主人公アレサ・フランクリンも幼少期から男に振り回されるんですね。
まずは父親のクラレンス。
彼は地元デトロイトでは有名なバプティスト教会の牧師で、
夜ごと自宅でパーティーを開いては年端もいかないアレサに歌わせてたわけです。
いわば自分の娘を自身の伝道活動の「客寄せパンダ」にしてたわけです。
しかもクラレンスは成長した彼女に内緒で勝手にレコード会社と交渉し、
コロムビアレコードと契約してマネージャーに収まるんだけど、
ここでも自分の意のままに操ろうとしてしまうんですね。
リリースする楽曲も自分で選んだものしか認めない。
象徴的なのは最初のレコーディングの際にコロムビアの社長に対し
「黒人盤ジュディ・ガーランドだ」って自慢するシーンで。
ジュディ・ガーランドは昨年伝記映画「ジュディ 虹の彼方に」でも描かれてましたが、
映画会社の社長やマネージャーだった自身の母親からの精神的呪縛により
幼い頃から馬車馬のように仕事させられてた女優で。
もう、この台詞だけでクラレンスにとって彼女がどんな存在かわかるというもんで。

そんな父親に反発し、アレサはテッド・ホワイトという男と結婚するんですね。
彼はデトロイトにいた頃からとにかく評判の悪い男で。
周囲の人間は父親から姉妹、知人に至るまで「付き合うな」と忠告してたのに、
アレサは結局彼と結婚し、マネージャーにしてしまうんですね。
ところがこの男もひどかったわけですよ。
束縛がキツく、彼女の仕事仲間となるバンドメンバーに嫉妬し、
彼らだけでなくアレサにまで暴力を振るうんですね。
しかも彼女がブレイクしたときも出来るだけ自分の手柄にしようと画策し、
アレサに手を差し伸べる他者を退けようとするわけです。

実はこの作品、「手」の描写が結構多いんですね。
例えば、初めてアレサがテッドを実家に連れて行ったシーン。
アレサは激怒するクラレンスの手を握って交際を説得しようとするんだけど、
諦めたクラレンスは自分からアレサの手をほどいて自室に帰ってしまう。
またアレサがブレイク後、スタジオにメディアの取材が入るシーン。
ここでもコーラスとして参加していた姉妹がアレサの手を握ってるんだけど、
テッドは二人の間に割って入ることで握った手をほどかせ、
あくまでアレサは自分の支配下にあることをアピールするわけです。
他にも世界ツアーの開催を主張するウェクスラーと、
メディア出演を優先させたいテッドが衝突。
結局世界ツアーが行われることになったんだけど、
今度はバンドメンバーの人選を巡って口論となるわけです。
そしていまにも殴りかかろうとするテッドの手の震えに気付いたアレサは、
暴力沙汰になるギリギリのところでテッドの意見を通すよう進言するわけです。

そんなアレサの災難の中でも最たる出来事が序盤で起きるんですね。
ただ、アレサ自身が辛い出来事は記憶の底に押し込めてなかったことにしている、
という性格にしているため、その件に関しては詳細に描かれないわけです。
具体的なことは描かないけど観れば何が起きたかわかる、って感じになってる。
そのこと自体もかなりおぞましいことなんだけれども、
その件に関するクラレンスを始めとした他の家族の反応すら描かれないので、
このフランクリン家自体の異常性ってのも垣間見えるようになってるんですけども。
そしてその出来事が成人した後も深く傷として残ってる描写も出てくるんですよ。
それはホント何気ない仕草なんだけど、観ればはっきりとわかる。
それがなんかもう、観てて辛くて辛くて。


で、テッドと別れたアレサは孤独をごまかすように仕事に、
そしてアルコールに依存していくんですね。
その結果、酩酊状態でステージに出て本番中に舞台から落下。
さらに酒に溺れていく悪循環に陥っていくんですが、
そんな彼女を救ったのが幼い頃に急逝した母親の幻影なんですね。
それをきっかけにアレサはキリスト教への信仰を思い出し、
クライマックスの「Amazing Grace」制作を決意するわけです。

この展開を観て、なんかいろいろ考えさせられたんですよね。
一般的に依存症の根本的な原因は「孤独感」で、
それを紛らわすため、精神的な安定を得るために何かに依存する。
そのためには状況によって変化をしない、出来るだけ不変の存在が望ましい。
「宗教」というのはその依存する依り代として比較的容易な対象なんですよ。
なんか彼女の姿を見て、あれだけの才能と名声を受けても、
身近な人間関係を心の依り代にすることが出来ずに
「神」という概念を求めてしまったことの切なさというか、
一種の絶望感を感じてしまったんですね。

自分も将来老いて孤独感にさいなまれたとき、
心の寄る辺を探すような心境になるんだろうか?と。
まー、何に依存してもその人の心が安定するのなら正解なんだろうけど、
遠い未来に本屋で般若心経の本とかを手に取ってる自分とかを想像して
少し不安になってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[2021年11月14日 ユナイテッド・シネマとしまえん 1番スクリーン]

 

 

 

 

 

※とりあえず似たような女性アーティストの話を