どうも、はちごろうです。

 

 

今週末は1年延期になった「劇場版名探偵コナン」が公開されるんですが、

先ほどTOHOシネマズのサイトで上映スケジュールを確認したら、

TOHO新宿の上映回数が40回以上という異常事態。

まるで昨年の「劇場版鬼滅の刃」並のスクリーン占拠率。

TOHOさんは煉獄さんを「400億の男」にしたように

江戸川コナンを「200億の少年」にするつもりなんでしょうか?

では、映画の話。今回は「100億を目指す男」の作品ですw

 

 


「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

 

 

 



1995年に放送が開始されたTVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」を
劇場用に新たに作り直した「新劇場版」の完結編。
未知の生命体「使徒」と戦うために集められた14歳の少年少女達が、
汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンに乗って戦う姿を描く。

あらすじ

碇シンジが綾波を助けるために引き起こした大規模災害、

ニアサードインパクトがきっかけでサードインパクトが発生してしまった世界。
対使徒のために結成された特務機関ネルフ内での対立から結成され、
ネルフ殲滅を目指す組織ヴィレは、パリ市内をユーロネルフから解放。
赤く汚染された街を再び元の姿に取り戻した。
一方、父ゲンドウの罠にはまり、
結果的にフォースインパクトを起こしてしまったシンジ。
彼は助けに来たアスカに引きずられるようにして、
ネルフ内で造られた3体目の「アヤナミレイ」と一緒にその場を後にする。
山奥に辿り着いた彼らを迎えに来たのはシンジの同級生・相田ケンスケ。
ニアサードインパクトによって14年の時間のズレが起きたため、
同級生だったケンスケはいまではすっかり大人の風貌になっていた。
ケンスケによって連れて行かれたのは
ヴィレの支援組織「クレーディト」によって作られた「第3村」。
そこでは生き残った人々が小さな共同体を結成し、
作物を育てながら細々と生き延びていた。
そしてシンジの同級生だった鈴原トウジは医師となり、
やはり同級生だった洞木ヒカリと結婚、第一子を授かっていた。
観るもの聞くもの感じるもの、全てが新しい「アヤナミ」は
第3村で農作業をしながら人間的な行動や感情を学んでいく一方、
自らの判断で結果的に世界の崩壊を進めてしまったシンジは、
何もすることが出来ず、村はずれの廃墟の中で一人自分を責め続けていた。
そんな彼をレイやトウジ、ケンスケ達は温かく見守るが
その優しさすらもシンジの心を責め続けるのだった。

 

 

 

庵野秀明設定資料集 完全版



95年のTV放送から25年の歳月が流れ、
ついに完結することになったエヴァンゲリオン。
ま、正直長かったですよ。個人的には熱も冷め切ってて。
ただ、やればやったで一応確認しておかないとという気にさせるのは
やはりこの作品の持つ圧倒的な力の成せる業だなと思います。
まー、例えるなら四半世紀喉の奥に刺さったままの魚の小骨というか、
奥歯の間に挟まり続けた菜っ葉の切れ端というか、
気にはなるし、不快でもあるんだけど、かといって忘れることもできない、
私にとってはそんな存在だと思っていただければと思います。
(別の言い方もあるんだけどコンプライアンスを考えてそれは控えます。
 どこかで会ったときにでも聞いていただければ)


さて、エヴァンゲリオンに関してよく聞かれるのは
「これって結局どんな話なの?」って質問なんだけど、
旧エヴァの頃から観続けてきた人にとっては
正直そこはもはやどうでもよくなってる気がします。
前作の「Q」の時にも書いたんですが、
「エヴァンゲリオン」って社会現象になるほどのヒットとか言われてますが、
実は細分化されたアニメファンの大部分を囲い込むことに成功しただけで、
これを機にアニメの視聴習慣が付いたって人は実は少ない気もしてます。
ある程度のリテラシーが無いと楽しみにくい作品ですしね。
しかも内容自体が多くの要素を含むために視聴者それぞれに解釈が生まれ続け、
それを持ち合わせて意見交換することも楽しみのひとつになる、
つまり「エヴァ」という作品自体が
ひとつのコミュニケーションツールになってるのではないか?と。
「エヴァ」という作品は単なる「自分の解釈」を作るための材料で、
そこからどんなものを感じ取って再構成し、
自分なりの「エヴァの感想」を他人と戦わせるような感じ。
・・・・・なんだかこう書くとミニ四駆でも作ってるようですね。
パーツを吟味して、自分なりのオリジナルの車体を作って戦わせる、みたいな。

確かにこの作品の登場によって、現在まで続く二次創作文化の隆盛が

さらに加速したとも言えるわけですし。


じゃあ、私個人は今回の「シン・エヴァ」についてどう感じたかというと、
「人間・庵野秀明の研究資料」として完璧だなと。
つまりですね、頭からしっぽまで「庵野秀明」という人間を構成してきたもの、
それだけで作られてる作品だったなと感じたんですね。

例えば冒頭。良かれと思ってやった行動によって
世界の崩壊をさらに加速させてしまったシンジの絶望。
何をやっても状況を悪化させ、その都度人々を傷つける。
これなんかまさに「エヴァ」を製作する監督本人の絶望なんだろうなと。
心身すり減らして良い作品を作ろうとしてその都度自分に絶望し、
作っても作らなくても批判され、にもかかわらず解放してもらえない。
かと思えばそんな作品や自分を許す、下手すりゃ感謝する人もいる。
そこでさらに孤独と絶望を抱えて沈んでいく感じというか。
で、序盤の「第3村」での生活になるんだけど、
一般論として、物語の中で世界が崩壊した後に残された人々は
まず農作業を始める展開になることが多いんですよね。
「アベンジャーズ/エンドゲーム」のサノスなんかもそうだったし、
ピクサーアニメの「WALL・E」のラストもそんな感じで。
だから観る前に畑仕事のシーンはありそうと思ったら
まさに田植えのシーンがあってビックリしましたけど。
閑話休題。
このシーンなんかもまさに庵野さんの旧エヴァからの心境の変化というか。
旧エヴァと新エヴァの一番の違いは「食生活の改善」だったなと思ってて。
例えば旧エヴァのミサトさんのキッチンには
缶ビールの空き缶や一升瓶が何本も置いてあって、
そこでカップ麺にレトルトカレーかけて食ってるシーンとかあるんだけど、
新エヴァでは弁当を手作りしてみんなで食べてるシーンとかあるわけですよ。
味噌汁なんかもきちんと出汁取ったりなんかして。
この辺なんかも、漫画家の安野モヨコさんと結婚して、
いわゆる家庭的な生活を体験したことによる変化が現れてるんだろうなと。
そういうのが全部出てるのが終盤に出てくるゲンドウの独白のシーンで。
あそこはもう完全にいまの庵野さんの心境そのまま出てるんだろうなと。
だから旧エヴァはシンジが庵野さんの投影だとすると、
新エヴァはゲンドウが庵野さんを投影したキャラクターになってるんでしょうね。

そして後半になるともう内容なんかさらにどうでもよくなってきて。
例えばシンジとゲンドウがエヴァに乗って戦う終盤のシーン。
ここで第3新東京市が舞台になるんだけど、
ゲンドウに飛ばされたシンジの機体が周辺のビルにぶつかっても、
まるで特撮映画のミニチュアセットのように横にずれるだけとか。
そして多くのSFファン、特撮ファンが指摘する
ミサトが操縦するブンダーが捨て身の攻撃をするシーンの音楽。
それは40年近く前に公開された日本の特撮映画で使われたものなんだけど、
その曲の出自を知ってる身には「え、ここでこの曲!?」ってなる。
さらにシンジがゲンドウと、パイロット達と別れていくシーンでは、
これまでの製作課程を象徴するシーンが使われてるんですね。
例えばレイに別れを告げるシーンはどこかの撮影スタジオのセットみたいなんだけど、
これは本作の制作中、プリヴィズという作業のために使ったスタジオで、みたいな。
だからこの一本で「エヴァンゲリオン」の、
そして庵野秀明の過去、現在、そしてこれからにも思いをはせること出来る、
そんな作品だったなと感じました。


もちろんね、この期に及んで回収してない謎とかもありますよ。
例えばマリと冬月との関係とかね。回収してないというより唐突に出てきた謎だけど。
どうやら冬月の大学教授時代の生徒だったらしいんだけど、
つまりそれってゲンドウやシンジの母親のユイと同窓ってことか?
年齢合ってないのじゃないか?みたいなね。
ただ、そういうのはもうどうでもよくて、
ただただ25年にも及ぶエヴァンゲリオンマラソンを完走した
爽快感というんですかね、安堵感というか。
4半世紀にわたる便秘が解消したような気分でした、個人的にはね。

 

 

 





 

 

 




[2021年3月14日 TOHOシネマズ新宿 9番スクリーン]

 

 

 

 

 

※とりあえず新劇場版の3本を