どうも、はちごろうです。
緊急事態宣言で外出自粛が続く中、
配信サイトで作品を観る人が多くなった昨今ですが、
実は私も今年の正月は劇場よりも配信で観た作品の方が多くて。
しかも本丸のアカデミー賞は延期になりましたけど、
前哨戦となる批評家筋の映画賞も続々と発表されてきてて。
その結果、配信サイトのオリジナル作品の受賞・ノミネート数が
昨年を超える数になってるんですね。年々増えてる。
だからしばらくはこのブログで取り上げる作品も
配信オリジナルのものが多くなると思います。
では、映画の話。
「マ・レイニーのブラックボトム」
昨年惜しくも亡くなった俳優チャドウィック・ボーズマンの遺作。
1920年代、ブルースの母と呼ばれた黒人シンガーと、
レコーディング現場に居合わせた人々の物語。
共演は「フェンス」のオスカー女優ヴィオラ・デイヴィス。
あらすじ
1927年。アメリカ南部の黒人たちの間で熱狂的な支持を受け、
「ブルースの母」とまで称された黒人シンガー、マ・レイニー。
彼女はレコード会社の依頼で新しいレコードを制作するため、
北部の都市シカゴまで行くことになった。
独善的で、自分の主張は絶対に曲げないマは、
白人マネージャーのアーヴィンやレコード会社の担当者に対して
一切の要求を取り下げることはなかった。
一方、彼女のバックバンドに加入していた若きトランペッターで、
作曲やアレンジもこなせるレフィーは、
楽曲製作に対する彼女の旧態依然とした方針に不満を持ち、
新たなバンドを結成して若者に向けた音楽を指向する野心を持っていた。
またマもそんな彼に対し「歌うのは自分だ」とレフィーの態度に不満を隠さなかった。
レコーディング当日、マは預かっている吃音症の甥シルヴェスターに
曲の冒頭の口上をさせると主張する。
録音用の原盤は高価で、何度も失敗されてはコストが掛かると
レコード会社側に苦情を言われたアーヴィンは説得を試みるが、
彼女は絶対に自らの主張を曲げようとしない。
それどころかレコーディングの際には必ず飲むコーラも用意できていないと、
スタジオから帰ることも辞さない姿勢を見せる。
そしてマネージャーとの間で採用が決まったレフィーのアレンジを、
録音直前に反故にするなどレコーディング作業は難航を極めるのだった。
重い扉は開いたけれど・・・
昨年、43歳の若さで大腸癌により死去したチャドウィック・ボーズマン。
アメコミ映画「ブラックパンサー」で世界的に知名度を上げて、
これから輝かしいキャリアを築いていくだろうと思われていた矢先の訃報に、
全世界の映画ファンがいまだに心の整理が付かない状態で。
ところで、一般的に「スター」と呼ばれる人には
キャリアを通じて特定のイメージを背負わされることがあって。
例えば私の好きな俳優でスティーブ・カレルって人がいます。
「フォックスキャッチャー」でアカデミー賞候補になりましたが、
この人が演じる役はたいてい「弱いマチズモ」。
アメリカ社会が男性たちに望む「強い男」に憧れ、目指しているけれど、
現実にはその「強い男」とは程遠い「弱い自分」とのギャップに苦しむような。
日本だと、高倉健さんには「無口で不器用な男」、
木村拓哉さんには「無愛想な天才」といったように、
ファンがが特定の性格をもつ人物以外の役を望まなくなった結果、
似たような役ばかり演じることになる俳優さんっているわけです。
ま、それが「スター」の証だったりしますけど。
で、ボーズマンの場合は「歴史を変える英雄」といったイメージがある。
例えば「42 世界を変えた男」では黒人初のメジャーリーガーを、
「ジェームズ・ブラウン 最高の魂を持つ男」では
伝説のソウルシンガー、ジェームズ・ブラウンを、
「マーシャル 法廷を変えた男」ではアフリカ系アメリカ人として
初めての合衆国最高裁判事になったサーグッド・マーシャルを演じ、
そして「ブラックパンサー」では表向きは小さな農業国ながら、
実際は高度な科学文明を持つアフリカの小国の王子を演じるなど、
常に「世界の常識を覆す黒人達のヒーロー」を演じてきたわけです。
じゃあ、今回はどんなヒーローを演じるのかと思いきや、
これまでの彼のイメージとはかなり異なる役柄で。
本作で演じるのは野心家の若きトランペッター、エフィー。
「ブルースの母」と評判の黒人女性シンガー、
マ・レイニーのバックバンドでトランペットを担当。
しかも彼には作曲や編曲の才能もあって、
ゆくゆくは自前のバンドでスターになろうという野心もある。
そのため、マ以上に目立とうと舞台上で演出外のスタンドプレーを強行し、
マも含め他のバンドメンバーの不評を買うような若者で。
でも本人はそんな不評もどこ吹く風で、自分の才能に絶対的な自信を持ち、
この才能さえあれば必ず評価されるはずと信じてるような。
しかし、彼の思いは作中で顧みられることはないんですね。
つまり本作でボーズマンは近年の出演作では見たことない、
「理不尽や挫折を経験する人物」を演じてるわけですよ。
そしてその絶望感から最悪の事態を引き起こしてしまうというね。
このボーズマンは新鮮であると同時に、切なかったですね。
一方、本来の主人公である黒人シンガー、マ・レイニー。
彼女はアメリカ南部の黒人達の間で人気が出て、
それに目を付けた北部のレコード会社の連中、
つまり白人達がレコードを出したいというのでスタジオまで出向くわけです。
しかし南部ですでに人々の人気を得て、コンサートは毎回満員の彼女にとって、
白人達のためにレコードを作ることは決して重要ではないわけです。
気に入らなければいつでも南部に戻ることができる。
そのため周囲の人間に対して一切の妥協を許さず、
それによってレコーディング作業は難航していくわけなんですけどね。
では、なぜマはそこまで自分の要求を通そうとするのか?
それは彼女が本質的に何重にも「弱者」だからなんですね。
1920年代のアメリカは男性至上、白人至上主義の社会。
そんな中、女性で、黒人であるマはそれだけでマイノリティ。
しかも彼女にはバックダンサーを勤める女性の恋人がいて、
さらに吃音症の甥を親元から預かっている事情を抱えてる。
そうした社会のマジョリティにとって好ましくない存在に対して、
マジョリティ側から率先して認めようという気運はまず高まらない。
だからこそ彼女は才能を武器にして、常に自分の要求を譲らない。
そうし続けなければマジョリティ側から自分たちを顧みてくれることがないと、
身に沁みて理解しているからなんですね。
それは本来味方であるはずの白人マネージャーのアーヴィンに対してもそうで、
仕事上では自分の意見を曲げないマに対して彼は困惑し、
なんとか彼女に仕事を完遂してもらおうと腐心するわけなんですが、
アーヴィンがマに頭を下げるのはあくまで仕事中だけで、
それ以外の、プライベートの時間では絶対に交わろうとしない。
そしてそのことを彼女は寂しさと共に嘆いているというね。
さて、本作の舞台となる1920年代のアメリカは、
奴隷制はなくなったものの当然ながら黒人への差別は当然という世の中で。
一方、奴隷制がなくなったことで逆に社会の中で居場所を失ってる黒人達もいて。
その心境を登場人物が作中で語ってるシーンがあるんですね。
自分たち黒人はアフリカの様々な部族から捕らえられ、連れてこられて、
白人達に使われている中でアフリカでは会うことのなかった部族の相手と結ばれ、
子供を産み、家族を作って、「◯◯族の誰々」ではなく「黒人」となった。
まさにいろんな具材をひとつの鍋で煮込んだスープのようなもの。
そして白人達が「奴隷はもう必要ない」と判断し、
確かにある程度の自由は得たけれど、居場所があるわけではない。
まさに自分たちは「白人達が食べ残したスープの具材」のようなものだと。
「我々黒人はその自覚を持つべきだ」とその登場人物は主張するわけです。
そのことを経験を持って体験してきたマの世代と、
それがいまいち理解できていないエフィーの世代。
その切なさというか、やりきれなさが伝わってくる作品でした。
[2021年1月2日 Netflix]
※ではチャドウィック・ボーズマンの過去作を