どうも、はちごろうです。

 

 

 

10月ももう残りわずかとなりまして、

この調子でいくと一気に年も暮れていきますね。

世間的には「鬼滅の刃」ブームらしいのですが、

とりあえず明後日は映画サービスデーなので

翌週以降に観に行こうかなと思ってます。

なので来週も「鬼滅」の感想はありません。

ただ、巷間漏れ伝わってくるあらすじだけで

一本感想が書けてしまいそうな気がしてまして。

観る前にある程度書いておこうかな?と

ブログ書きとしては大変不謹慎なことを考えております。

では、映画の話。

 

 

 

「フェアウェル」

 

 

 



昨年、サンダンス映画祭で絶賛され、
ゴールデングローブ賞にもノミネートされたドラマ。
NYで暮らす中国系アメリカ人の女性が、
最愛の祖母の末期がん発覚をきっかけに中国に帰るも、
彼女にその事実を隠し通すと決めた家族との間で葛藤する。
主演は「オーシャンズ8」のオークワフィナ。

あらすじ

中国系アメリカ人女性ビリーは現在学芸員になるため就職活動をしているが、
先日もグッゲンハイム美術館からの不採用通知を受けたばかり。
家賃も滞納し、常に金策に腐心する毎日だった。
そんなある日、中国で暮らす祖母ナイナイが
末期の肺がんで余命3ヶ月と診断されたという知らせを受ける。
突然の出来事にショックを受けるビリーだったが、
父のハイヤンと母のルー・ジアンは中国にいる親類と相談の結果、
亡くなる直前まで本人には黙っていようと決まったという。
アメリカでは患者に病状を告知しないのは「違法」で、
それ以前に真実を知らされないことを悪と考えるビリーには
両親、そして親族の決定に納得がいかなかった。
そんな中、日本で暮らすビリーの従弟ハオハオが
日本人女性アイコと結婚することが決まった。
ナイナイと親族が最後に再会する口実の意味合いもあったが、
嘘のつけないビリーが来るとバレてしまうからと、
両親は彼女に結婚式への出席を諦めるよう伝える。
告知をしない親族の方針には納得がいかなかったが、
最愛の祖母に二度と会えないことにも納得がいかなかったビリーは、
単身中国に飛び、結婚式への出席を強行するのだった。

 

 

 

余命を知ることは誰にとって必要か?



昨年全米で公開され、口コミによる評判で拡大公開までされた作品。
最近日本でも定評が固まりつつあるスタジオA24の製作ということも話題で。
ま、そういうのは参考程度でいいと最近は思うんですが。

さて、日本でも最近はがんの告知も一般的になったというか。
以前は検査後に医師から「ご家族を呼んでください」なんて言われて。
家族が病状の説明を受けて本人に告知するかどうかを決める、
なんてのもよくある光景だったようなんですけど、
数年前にうちの親父が前立腺がんの診断を受けた際なんかは、
別の病気で受けた血液検査で数値がおかしかったんで呼び出しを受けて、
改めて検査したら発覚。その場で「がんですよ」って言われて帰ってきました。
ま、とりあえずいまんところは息災です。最近腰痛で悩んでますが。
病院はどの国でもそうなんでしょうけど、基本的には西洋医学の分野で、
治療方針もだいたい欧米の価値観に則って行われてる印象があるんですが、
それが全てにおいて万能かっていうとそんなことはなくて。
それこそ一昔前の難病もののドラマなんか見ると、
不治の病を告知された患者がそのまま病院の屋上から飛び降りようとするとか、
本人には治る病気だと家族が説明していながら、
あとで親族がうっかりバラして大騒動、何て展開がよくあって。
つまり告知されたことによるストレスで病気の進行が早まる、
なんていうことも往々にしてあるわけですよ。

考えてみれば「余命宣告もの」というか、
登場人物の死の病が発覚する話にもパターンがあって。
欧米の作品は患者本人の視点から余生の過ごし方を考えるけど、
日本映画は家族や恋人、友人など、

患者以外の人間の反応を描くことの方が多いかも。
例えばつい最近感想をアップした「グッバイ、リチャード」とか、
日本でもリメイクされた「最高の人生の見つけ方」、
末期がん患者の珍道中を描いた「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」など、
患者本人が自分の死が近いことを自覚し、
死ぬ前に何をしたいかを考える話は洋画に多い印象がある。
日本映画だと黒澤明の「生きる」とか、伊丹十三の「大病人」くらい?
逆に患者の周囲の人間が目の前の患者にどう接するかを決める話は
日本も含めたアジア映画に多いかも。
例えば同じ「最高の人生の見つけ方」でも、
日本版のそれは家族の視点にも一定のウェイトを割いている感じだし、
患者本人の方も家族のために余生を費やす話が結構多い印象で。
宮沢りえさんの「湯を沸かすほどの熱い愛」みたいなね。

これも個人主義が根強い欧米と、大家族主義が強いアジアの違いかも。
アジア人は自分の人生は自分だけのものではないという考え方。
だからこそ余生ですら自分の裁量だけで決めない。
逆に意地悪な言い方をすれば患者本人が決めた余生の過ごし方に対し、
周囲の困惑と負担の方に関心が高いというんでしょうか。


そんな西洋と東洋の価値観の違いに主人公のビリーは振り回されることになる。
彼女が生まれたのは中国で、両親はどちらも中国出身。
ただ幼い頃にビリーの将来のためを思ってアメリカに移住。
そのため、彼女は中国とアメリカ、
ふたつのアイデンティティーを抱えながら生活しているわけです。
この「複数の価値観の中に身を置く人」というのは、
結局どこのコミュニティにも完全には帰属できない、
つまりどこかで疎外感を抱えて生きていくことになるんですよね。
片一方の価値観で生きるということは
もう一方の価値観を否定することに繋がるわけで。
かといって、それぞれの価値観を相対化して、
それぞれのコミュニティにいい顔をしていれば
結局どっちのコミュニティからも完全に受け入れられることはないですし。
今回、祖母ナイナイのがん告知に関しては中国式で行くわけですが、
それに関して理解は出来ても心の底から納得できない、
そんな彼女の感じる孤独感と理不尽さが伝わってくる作品でした。


ただ、作品の出来にはあんまりピンときていなくて。
もちろん主人公の抱える葛藤はよく伝わってくるんですよ。
それは主演のオークワフィナの演技によるところも大きいんですけど。
でも、物語の本筋は祖母ナイナイに彼女ががんに冒されていることを知られずに
従弟ハオハオの結婚式を完遂しようという、
大仰な言い方をすれば極秘ミッションを進める話なわけですよ。
どっかで誰かがうっかりその事実を口にしてしまう、
その事実を匂わせてしまうかも知れないという、その緊迫感が必要なんだけど、
それがどっかいっちゃうというか、上手いこと表現できてないような気がして。
おそらく、映像が悪い意味でしっかりし過ぎてたからって気がするんですよね。
人物の姿を固定カメラかなんかできっちり撮ってるというか。
手持ちカメラとまでは行かないまでも、もう少し不安定な映像だったら
その緊迫感も出たような気がするんですけど。


ただ、ことの顛末にはいろいろ考えさせられました。
西洋と東洋、どっちの価値観が正しいか、間違ってるかという話ではなく、
どっちの価値観がその人にとって居心地が良いか、
性に合ってるかって話なのかなと感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[2020年10月11日 TOHOシネマズ新宿 8番スクリーン]

 

 

 

 

 

※余命ものというとこんなところはどうでしょ?