どうも、はちごろうです。



映画「君の名前で僕を呼んで」の感想。続きです。





多言語の物語を日本語だけで語る難しさ



さて、本作はそのイタリアを舞台に、
17歳の青年が年上の同性男性との恋に落ちる話なんですけどね。
あらすじに書いたように主人公のエリオは大学教授の息子で、
とにかく賢いんですよ。もう、日常生活から賢さが溢れてる。
例えば予告にも出てきますけど、
ひとつのピアノ曲をいろんな作曲家のイメージで弾き分けるなんてことを
平気でやってのけたりするんですね。
「この曲、リストだったらこんな風に弾くよね。
 でもバッハだったらこんな感じ」みたいな。
そうかと思えば、彼だけでなく両親もまたすごいんですよ。
例えば居間でくつろぐ彼のために母親が本を読み聞かせようとする。
ところが持ってきた本はタイトルは目当てのものなんだけど
ドイツ語訳のものだったことに気づくんですね。
「あー、これドイツ語のやつだわ」なんてちょっと困るんだけど、
でも母親はそのまま読み始め、またエリオもそのまま聞いてたりする。
そもそも彼らはイタリアに滞在するアメリカ人なので
日常会話でも英語とイタリア語を頻繁に使い分けてるんですよ。

ただ、日本語の字幕だけだと彼らが言葉を使い分けてることに気づきにくくて、
そこはちょっと面食らってしまいましたね。



百の書物よりも、ひとつの口づけ



で、だからってこともないんでしょうけど、
登場人物達があまりにも頭が良く、また知識も豊富なので、
目の前で起きてることや自分の心に起きた感情に至るまで、
心が揺れ動いているように見えないんですね。
「あ、この感情が恋なんだな。読んだ事ある」とか、
「同性を好きになっちゃったけど、古代ローマじゃ当たり前だったし」みたいに、
観客からしたら結構大きな問題が起きてるように見えるんだけど、
当人達はそれに関してさほど悩んでないように感じるんですよ。

そして作品自体も、あまりにも彼らのことを自然なこととして描いてるので、
彼らの感情に変化が生じた瞬間とか、そういうものをあまり強調しないんですね。
例えばオリヴァーが初めてエリオに触れた瞬間とか、
二人が初めて一夜をともにする直前の様子とか。
そうでなくても、例えば予告編にも出てくるんですが、
オリヴァーが水着姿でバレーボールをするシーンがあるんですね。
でも彼の裸体をじっくり描く、みたいなこともない。
なんていうのか、本作はとことんプラトニックに、
セックスシーンがありながら性的な感情を喚起させないんですよ。
それはエリオとオリヴァーのシーンだけでなくて、
例えばエリオは別の女性とも関係を持つシーンがあるんですが、
これも驚くほど淡泊に撮ってるんですね。

ただ、どれだけ本などから得た知識で事前にある程度想定していたとしても、
実際に自分に降りかかった経験、そしてそこで心に沸き起こった感情は
それまでのものを凌駕するものであることは間違いなく、
だからこそ経験は大事なんだってことでもあるんですけどね。



これ、個人的にタイミングが悪かったなって思うのが、
この作品の前に観たのが「モリーズ・ゲーム」だったんですよ。
あの作品はとにかく情報の洪水で、上映中ずっと台詞を浴びせられてたんですね。
でも本作はそれとは正反対で、こっちから画面の中の情報を見つけて、
能動的に内容を読み解いていくタイプの作品だったんですよ。
だから正直どれだけきちんと内容を理解できたか自信が無いです。

ただ、タイトルの「君の名前で僕を呼んで」。
これはエリオと初めて一夜をともにしたオリヴァーが彼に言う台詞。
つまり「僕は君と一心同体。これからは僕は君であり、君は僕だよ」っていうね。
でもこのタイトルにはもっと深いメッセージが込められてるように感じます。
「君の名前で僕を呼んで」、つまり「この作品を自分のこととして感じて」ってこと。
恋の相手が例え同性であっても、恋の始まりは嬉しく、
そして恋の終わりは切なく苦しいんだという意味が込められてるように感じました。

もう一度、改めて体調を整えて再チャレンジしたいのが本音ですけどね。












[2018年5月13日 TOHOシネマズ六本木ヒルズ 9番スクリーン]
(とりあえず、チラシぐらい入れてよw)






※同性に対する恋愛映画というと・・・