どうも、はちごろうです。

今日は雨交じりの空模様で、しかも肌寒かったですね。
この時期はいつもそうですが無駄に疲れてる感じです。
さて、映画の話。

「少年と自転車」

昨年のカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した
ベルギーの巨匠ダルデンヌ兄弟の新作。
父親に児童養護施設に預けられた12歳の少年シリル。
彼は父と再び暮らすことを願っていたが、
父親はすでにアパートから引っ越しをしていた。
実の父に棄てられたことを信じられないシリルは
施設を脱走しては父と暮らしていたアパートに向かうが、
呼び鈴を押しても誰もおらず、管理人からも追い返されてしまう。
「僕の自転車があるはずだ」とそこから離れようとしないシリルだったが、
彼をを探しに来た施設の職員から逃げようとしたシリルは、
とある診療所に逃げ込むが、あえなく捕まり施設に戻されてしまう。
数日後、診療所でシリルにしがみつかれた女性サマンサがやってくる。
シリルの話を聞いた彼女は、彼の自転車を町で探し出し、
持っていた人から買い戻してくれたのだという。
自分の自転車を父親に売られたと信じたくないシリルは
「この自転車は盗まれたものだ」と憤った。
シリルは帰ろうとするサマンサに「週末だけ里親になってほしい」と頼み込む。
それを引き受けたサマンサは週末だけシリルと共に過ごし、
シリルはサマンサといる週末の間に父親の行方を探し始める。
サマンサが自転車を買った持ち主から購入先を知り、
そこから売主が父親だということを突き止めたシリルは、
サマンサと共に父親の働いているレストランに向かう。
しかし父親は「自分の生活を立て直すために精一杯だ」といい、
「もう会うことはない。会いに来るな」とシリルに告げるのだった。
これを機にサマンサはシリルを育てることに真剣に向きあい始める。
だがシリルが町の不良少年ウェスに目を付けられたことで
彼は窮地に追い込まれるのだった。








ベルギーの巨匠、ダルデンヌ兄弟の新しい挑戦


ベルギーの巨匠監督、ジャン=ピエールとリュックのダルデンヌ兄弟。
ここ15年は作品を発表するたびにカンヌ映画祭で何らかの賞を獲っている。
僕も「ある子供」と「ロルナの祈り」って2作品だけ観ていますが、
彼らの作品には独特の製作スタイルがある。
まず、テーマは犯罪に手を染めてしまう貧困層の人々や、
恵まれない環境により道を踏み外してしまう子どもの姿を扱い、
カメラは固定せずに手持ちで撮影する。
音楽を一切使用せず、そしてスター俳優を起用しない。
そのことでドキュメンタリー映画のようなリアリティと緊張感を生みだし、
観客は登場人物たちの置かれた八方ふさがりの境遇を
追体験させられるような感覚を味わうことになる。
ところが今回、彼らはいつもの製作スタイルを捨て、
「音楽を使用すること」、そして「有名俳優を起用すること」という、
2つの要素に新しく挑戦している。



音楽のある風景の不自然さ


しかしながらこの新しく挑戦している要素が
逆に彼らの良さを打ち消してしまっていたように感じました。
まず「音楽を使用すること」。
彼らの作品には本編中はもちろんエンドロールに至るまで
一切の音楽が使われないのです。
考えてみれば、オーディオ機器などで意図的に流さなければ
僕らの日常にはBGMなんてものは存在しないわけで、
また音楽が流れないことで登場人物の荒涼とした心理状態が
誇張も婉曲もされずにそのままリアルな形で伝わってくるのですが、
今回はシリルに何か決定的なことが起こるたびに
まるでファンファーレのように音楽がかかるのです。
音楽を流すことでシリルの置かれた状況や心理状態が
確実に変化したということを伝えたかったのかもしれないですが、
僕はその曲が流れることでそれまでの流れが一旦途切れてしまい、
それまで続いていた緊張感まで解けてしまって
全体的に散漫な印象に感じてしまいました。



有名女優を起用した意味は?


そしてもう一つは「有名俳優の起用」。
いつもは知名度の高い俳優を起用せず、気心の知れた俳優や
オーディションで選ばれた無名の俳優で作品を撮り、
そうすることで観客に俳優本人の情報に左右されずに
まっさらな気持ちで登場人物に感情移入させることができるわけですが、
今回はベルギー出身の女優ではあるものの主にフランスで活動し、
世界各国で活躍している女優セシル・ドゥ・フランスを起用している。
しかし今回の主役は彼女ではなく少年シリルで、
彼を演じた子役トマ・ドレは実に存在感豊かな演技だったんだけど、
(本作でデビューしたとは思えない程の素晴らしさ)
ところが本作ではサマンサに関する設定がほとんど提示されず、
なぜ彼女がシリルを引き取ろうと決意したのかという心の内に迫るには
あまりにも彼女のことがわからなすぎたんですね。
だからシリル役のトマ少年が光れば光るほど、
サマンサ役にセシルを起用した意味が分からなくなってくるんです。
ただ単に彼女にとってこのサマンサ役が役不足だったのか、
それともサマンサの背景を彼女が演じきることができなかったのか、
どちらにしてもサマンサに感情移入するには
とっかかりが少なすぎたような気がしました。



親に捨てられたシリルが町の不良に出会うことで
道を踏み外していく過程は実に説得力があって、
シリルが犯してしまった罪と、その報いまでがリアルに描かれていて、
その辺はいつものダルデンヌ兄弟らしいスタイルだなって思ったんですが、
今回新しく挑戦してみた要素は彼らには合わなかったというか、
「らしくなかった」といったところでしょうか。
どうなんだろ?女性だったら、もっといえば母親だったら
サマンサの心理状態に寄り添うことができるんでしょうかね。
だから、この作品を見た女性の意見がちょっと聞いてみたいです。