どうも、はちごろうです。

最近、体力づくりの一環で下半身のストレッチをしているんですが、
ひざの裏や股関節の筋を伸ばしている影響からか、
頭痛や上半身に痛みが走ることがあったりして
やっぱり身体は繋がっているんだなぁと実感しています。
さて、映画の話。

「長ぐつをはいたネコ」

ドリームワークスの大ヒットアニメ「シュレック」のキャラクター、
長ぐつをはいたネコを主人公にしたスピンオフ3DCGアニメ。
懸賞金のかかったお尋ねネコ、通称「長ぐつをはいたネコ」のプス。
とある町の酒場で、雲の上にある巨人の城に行ける魔法の種を
ならず者のカップル、ジャックとジルが持っていることを知ったプスは、
早速二人の宿泊している宿屋に向かう。
だがそこで黒ずきん姿の黒ネコと鉢合わせしてしまう。
ジャックたちにも見つかり、命からがら宿屋から逃げ出したプスは、
黒ネコをとっちめようと酒場で大立ち回りをするが、
その黒ネコはキティという名のメス猫だった。
そこに現れたのがプスが孤児院に預けられたころからの悪友で
発明家の「卵」のハンプティ・ダンプティだった。
魔法の種について長年研究していたハンプティは
みんなで協力してジャックから種を奪い取ろうというのだが・・・。



古典を元ネタにオリジナル作品を作る問題点


大ヒットアニメ「シュレック」のキャラクターを使ったスピンオフ作品なんですが、
そもそも「シュレック」という作品自体が既存のおとぎ話に対する
パロディというか、アンチテーゼみたいな作品なわけです。
「美男の勇者が美人のお姫様と幸せに暮らしました」なんて、
じゃあブスとブ男は幸せになれないってのか!みたいな。
で、この「長ぐつをはいたネコ」というキャラクターは
結婚を決めたシュレックとフィオナ姫の中を裂こうと
国王が差し向けた殺し屋として登場するんですが、
剣さばきと愛くるしい目で高い人気を得て、
今回のスピンオフに繋がったわけです。

しかしながら、この「長ぐつをはいたネコ」というのは
そもそもがヨーロッパの寓話のキャラクターが元ネタなんですね。
で、この前「シャーロック・ホームズ」の感想を書いたときにも
ちょっとだけそんなことに触れたと思うんですが、
この元の寓話を現在どれだけの人間が覚えているか?
つまりパロディ化される元ネタの古典作品を、
どのくらいの観客が「あぁ、これはあの童話のパロディだな」と
理解して観ているのか?というのがちょっと気になるところです。
個人的な経験から言わせてもらうと、
僕は「長靴をはいた猫」というキャラクターがあることは知っていましたが、
小さい頃この「長靴をはいた猫」という作品自体を読んだことがありません。
ちなみに、この「長靴をはいた猫」という作品だけにとどまらず、
今回のこの作品には「ジャックと豆の木」や「黄金のガチョウ」
そしてマザーグースの「ハンプティ・ダンプティ」など、
さまざまな童話や寓話が物語やキャラクターのモチーフになってます。
もちろん元ネタを知っていなくても楽しめる作りにはなってるんですが、
「長靴をはいた猫」というキャラクターを思い出す際、
原作ではなくこの作品が基本になってしまうことは
あまりいいことではないのではないかと思っています。



有名人を声優に起用することの問題点


さて、僕は今回この作品を字幕版で観てきました。
日本では外国映画の吹替え版に本職の声優ではない、
有名人を宣伝目的で起用することに根強い批判が上がっていますが、
実はハリウッド製のアニメも随分前からスターを起用しています。
この話は長くなるので機会があれば改めて書きたいと思いますが、
最近のハリウッド製のアニメ映画の日本語吹き替え版で
本職の声優を差し置いて有名人が起用されるのは、
実はアメリカの製作会社側の意向だったりするんですよ。
ただ、そうなってくると弊害も多いわけです。

例えば本作の主人公プスを演じているのはアントニオ・バンデラス。
「マスク・オブ・ゾロ」で主人公を演じたラテンスターです。
で、そのゾロを演じたスター俳優が同じ剣の使い手ではあるものの、
可愛らしい猫を演じるというギャップの妙が面白いわけですが、
日本語吹き替え版では竹中直人さんが演じているわけです。
彼自身はアニメの吹替え経験も少なくないので技術的には問題ないのですが、
「あの俳優が可愛い猫の声を?」というギャップの妙は
そもそもコメディアン出身の彼には出せないわけです。
これはもう致し方ないことなのかもしれないのですが。
さらにハンプティ・ダンプティを吹き替えているのが勝俣邦和さん。
オリジナルではザック・ガリフィアナキスという俳優が演じています。
この俳優さんは大ヒットコメディ「ハングオーバー!」で
空気の読めないうざいキャラクターを演じて人気を博したのですが、
この俳優さんが演じるキャラクターはいつも「うざい天然キャラ」で、
裏を返せば他人に理解されない孤独感を常に抱えているわけです。
で、実はこの作品のハンプティもやはりそういったキャラなので、
このキャラにザック・ガリフィアナキスを起用したのは正解なんですが、
片や勝俣さんのパブリックイメージにそうした影の部分はないわけで、
やっぱり同じ有名人を吹替え版に起用するとしても
この人選は少し失敗だったように思います。
「吹替え版見てから言えよ!」と思う人もいるでしょうが、
観なくても「この人選は失敗だよな」って
おおよそ想像が付くのはそういった理由です。



大人になる速さの違いが生む孤独と悪意


さて、本作は前半は雲の上の城を目指す冒険物語なのですが、
後半はプスとハンプティの過去と現在にまつわる
いってみれば友情の物語になっていきます。
同じ孤児院で育った悪友同士で町でいたずらをしては
警察署長を困らせてばかりだったのですが、
ある事件をきっかけにしてプスが社会的信用を獲得するわけです。
それを機にプスはいってみれば「大人」として認められるのですが、
プスが自分より先に成長していく姿を見るハンプティの孤独感と、
自分が社会から、さらに唯一の親友までも自分から離れていくその疎外感は
さらに彼を社会的に追い詰めていくわけです。
そこで二人の運命を変える決定的な事件が起こるわけなんですが、
その際にプスが取った行動が今回の物語の根幹になっているわけです。
それは普通に考えれば「大人の対応」なわけなんですが、
親友の心情を理解せず結果的に彼を追い詰めてしまったプスにも
当然ながら責任の一端はあるわけです。

「親友が道を誤るかどうかの瀬戸際でどう行動するべきか?
 そして、一度悪の道に染まってしまった親友を
 再び更生させるためにはどうすればいいのか?」

そうした道徳的な問題を突きつけてくる作品でもありました。


最近のハリウッド製アニメは単なる子供向けの域を出て
道徳的な命題を突きつける深い内容の作品が増えたように感じます。
そうした意味でもいまはハリウッド製のアニメこそ
大人にもっと観てもらいたいと思います。