どうも、はちごろうです。

一昨日、震災から1年ということでいろいろと追悼特番を組んでいましたが、
「この震災を教訓に」とか「後世に語り継ぐ」とか、
そんなにみんなあの震災を忘れちゃったのか?と思います。
この1年、あの光景はテレビ、新聞、雑誌で必ず目にしたわけで、
個人的には風化するどころか根強く残ってます。
どの報道もまるで「どうせ視聴者はもう震災を忘れてんだろ」的な姿勢で
「国民なめるな!」って言いたいですよ。
さて、映画の話。

「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」

アーサー・コナン・ドイル原作の推理小説の古典を
「スナッチ」のガイ・リッチー監督で映画化した第2弾。
前作同様ロバート・ダウニー・Jrとジュード・ロウが出演。
名探偵シャーロック・ホームズとワトソンの活躍が描かれる。
ヨーロッパ各地で連続爆弾事件が勃発。各国に不穏な空気が流れる中、
ロンドンの名探偵シャーロック・ホームズは
一連の事件の背後に天才数学者モリアーティ教授の存在を疑う。
天才的な頭脳とボクシングチャンピオンの経歴、
そして現首相のご学友と表の顔は完璧だが、
裏ではその地位と富を利用し、巨万の富を得ようと画策していた。
そんな中、ホームズの助手ワトソンが結婚式をあげる。
付添い人として同席したホームズの元にモリアーティの手下が現れ、
手を引かなければワトソンの命を狙うと告げる。
ホームズは新婚旅行中のワトソンを救出し、
事件の鍵を握る女占い師シムとともに事件解決を急ぐのだった。



シャーロック・ホームズと私


原作は推理小説の古典とも称される世界的人気小説だけれども、
実際問題、若い人でこの小説を読んでる人はどれくらいいるだろう?
ちなみに僕がアーサー・コナン・ドイルの原作を読んだのは非常に遅くて、
大学1年のとき、電車で1時間の距離にある学校に通うことになったので、
これを機に本を読む癖をつけようと思って読み始めたのが最初。
きちんと1作目の「緋色の研究」から順番に読み始め、
とりあえず新潮文庫から出ている文庫本は読破してる、といった立ち位置です。



「続編」のような1作目


さて、2年前に公開された1作目を観たとき、
正直言ってかなり失望したのを覚えている。
確かに原作でホームズをてこずらせた唯一の女、アイリーン・アドラーが登場したり、
そしてそのアイリーンの口から宿敵モリアーティの名前が出たりと
原作ファンの心をくすぐる要素は確かに多かったのだが、
主人公のホームズが社会生活や人間関係を形成することができない、
「天才」というよりはむしろ「変人」と呼ぶに近い人物設定だったことや、
映画が始まった時点ですでにホームズとワトソンはコンビ解消の危機に陥り、
二人の出会いといった、それまでの関係性が一切語られないこと、
そもそも物語自体が推理物ではなくいわゆるバディ(相棒)もの、
むしろアクション映画に近かったことに困惑してしまったのである。
シリーズ化を考えている作品の1作目なのにまるで続編みたいな作りで、
原作を知らない人間には不親切なのではないか、と。



「二次創作」と割り切れば・・・


しかし、このシリーズを推理物ではなく「アクション映画」として割り切れば
本作は実はとてもよく出来た作品なのではないかと思う。
スローモーションとコマ落としの編集による、
ガイ・リッチー映画お馴染みの映像表現で見せるアクション描写。
原作にも登場するホームズが使う謎の格闘術「バリツ」の表現は冴えてるし、
森の中を敵の銃撃から逃げるシーンの迫力など
時代物のアクション映画として考えれば上出来なのではないだろうか。

考えてみれば「シャーロック・ホームズ」シリーズというのは、
アーサー・コナン・ドイルが書いたいわゆる「聖典」の他に
ドイル以外の人物の書いた作品も存在する。
そのことを考えれば今回の映画化もドイルの原作を基にした同人作品、
いわゆる「二次創作」だと考えればいいのではないだろうか?
ホームズとワトソンの関係に友情以外の、いわゆるBLっぽさ、
つまりボーイズラブ的な要素が強く感じられることも考えればなおさらだと思う。
「ワトソンの結婚に、ホームズが嫉妬メラメラ!」みたいな。