どうも、はちごろうです。

最近またパソコンの調子が悪くて、特にセキュリティソフトが怪しい。
昨日はパソコンの電源を入れても自動的に起動せず、
手動で起動させても、うんともすんともといった具合。
仕方なく再起動してやっとどうにかなりましたが、
このパソコンも買って3年半。HDDもカラカラ音がしだしたし、
そろそろ本格的に買い替え時期か?って感じです。
さて、映画の話。

「ヒューゴの不思議な発明」

「タクシードライバー」「レイジングブル」の巨匠マーティン・スコセッシ監督が
初めて児童文学を題材に、しかも3D映画に挑戦した意欲作。
1930年代のパリ駅に隠れ住む少年ヒューゴ。
時計職人だった父親と二人暮らしをしていたが、父親は火事で亡くなり、
ヒューゴはパリ駅で時計技師をしていた伯父に引き取られる。
だがその伯父もどこかにいなくなってしまい、
以来ヒューゴはパリ駅構内の時計の微調整をしながら、
父親の形見である機械人形を直すため
構内にあるおもちゃ屋から商品をくすねて生活していた。
ところがある日、ヒューゴはおもちゃ屋の主人ジョルジュに捕まってしまう。
ジョルジュは他に盗まれた物はないかとヒューゴの所持品を調べるが、
ポケットの中にあった機械人形の設計図が書かれたノートを見た途端、
彼は激しく動揺し、そのノートをヒューゴから取り上げてしまう。
ノートを諦めきれないヒューゴはジョルジュの家まで付いていくが、
そこで彼はジョルジュの養女イザベルと知り合う。
翌日、「ノートを返して欲しければ働いて返せ」と言われたヒューゴは
ジョルジュのおもちゃ屋で商品の修理をするようになった。
それを機にヒューゴはイザベルと顔見知りになるのだが、
ある時、ヒューゴはイザベルの首に下がっていたハート形の鍵に目が止まる。
それは機械人形を動かすために必要な鍵型と一致していた。
ヒューゴは初めてイザベルを自身の隠れ家に連れて行き、
彼女の持っていた鍵を機械人形に差し込む。
するとペンを持った機械人形は動きだし、一枚の見事な絵を描きあげた。
そして人形が最後に「ジョルジュ・メリエス」とサインしたことにイザベルは驚く。
それはイザベルの養父ジョルジュの本名と一致していたからであった。



映画の父、ジョルジュ・メリエス


原作の児童文学はフィクションではあるが実在の人物が登場する。
それは映画の父とも称される映画監督のジョルジュ・メリエス。
彼はリュミエール兄弟が発明した映写機の可能性にいち早く気づき、
500本近い映画を製作・監督した人物として知られている。
元々手品師だった彼はいまでいう特撮技術を数多く発明して、
冒険活劇やSF、ファンタジーを数多く手がけて好評を得るが、
戦争による人々の心の変化により彼の人気は下火になり、
不遇な晩年を送ったとされている。
本作はそんなジョルジュ・メリエスの半生にスポットを当て、
改めて彼の功績を称えようという意図が込められている。



映画が発明される日々を「追体験」することで得たもの


さて、本作の監督マーティン・スコセッシは
「タクシードライバー」「レイジングブル」など暴力描写に定評がある監督だが、
本作では暴力描写を封印して、児童小説を、しかも3Dで描くということで、
古くからの映画ファン、特に初期の作品を知っている世代には
「どうしっちゃったの!?」って思う人も多いのかもしれない。
スコセッシ本人は「自分の子供が観られる作品を作りたくて」と言ってるが、
この作品を作った真の動機はもちろんそんなところではないだろう。
おそらくスコセッシ本人がいま一番望んでいることは
「暴力映画の巨匠」というそれまでのイメージに収まることではなく、
「死ぬまで現役を貫きたい」という監督業への執念だと思う。
そしてその思いを、映画の父メリエスの撮影現場を、
しかも最新の3D技術を使って再現すること、
つまり映画を作ること、もっといえば映画を発明することの原点を
追体験することでもって再確認しているようにも感じられました。



アカデミー会員の心を掴んだのは物語ではなくて・・・


確かに、ジョルジュが映画監督として隆盛を極め、
そこから時代に取り残されていくエピソードは非常に興味深いし、
実際問題、この作品で一番面白いパートだと思う。
だがその反面、肝心のヒューゴの物語がつまらないんですよ。
ジョルジュのエピソードが魅力的なだけに余計に陳腐に見える。
というか、おそらくスコセッシはヒューゴに魅力を感じていないですね。
明らかに主人公よりもジョルジュのエピソードに感情移入し過ぎていて
ジョルジュの正体がわかる中盤までは本当にやる気が感じられないんですよ。
主人公のエピソードを面白いと感じられないわけだから、
パリ駅構内ですれ違う人々の物語も必要性を感じられないし、
ヒューゴに立ちはだかる鉄道公安員のエピソードですら、
「これ、本当に必要か?」と思えるほどつまらなかったです。
そして作品の中でメリエスの製作現場を再現する一方、
サイレント映画の名作へのオマージュをささげたシーンも多数登場するのだけれど、
それがただ単に「オマージュを捧げるためだけのシーン」で
映画の中で全く機能していないのも問題だなと思いました。

おそらくこの作品がアカデミー賞でもてはやされたのは、
作品そのものの面白さというよりは、映画が発明される過程を再現したこと、
そしてそこから見えてくる映画を製作することの素晴らしさ、
それと時代に取り残された映画人メリエスの不遇な晩年に
高齢のアカデミー会員が共感したからだと思いますね。
やっぱり巨匠監督の作品は玄人受けしかしない、といったところでしょうか?