どうも、はちごろうです。

ついに3月になりましたが、寒いですねぇ。
無駄に体力を使っているのかすでに眠いです。
頭もいまいち回ってない状態ですがとりあえず頑張ります。
さて、映画の話。

「ヤング≒アダルト」

「マイレージ、マイライフ」のジェイソン・ライトマン監督が
「JUNO/ジュノ」でアカデミー脚本賞を受賞したディアブロ・コディとタッグ。
アカデミー賞女優シャーリーズ・セロンを迎えて送るコメディドラマ。
ゴーストライターをしている女性メイビス・ゲイリー。
37歳、独身、ミネアポリスで愛犬と一人暮らし。
執筆中のヤングアダルト向け小説はシリーズ打ち切りが決まり、
最終巻の執筆を開始するも遅々として進まない。
そんな彼女に故郷の元カレ、バディから子供の写真付きのメールが送られてくる。
彼女はバディと別れた後、別の男と結婚するがすぐに離婚。
以来一人だがデートの相手に困ったことはない。
だが、一夜限りの男と共にベッドで目覚めたメイビスは決意する。
故郷に戻り、もう一度彼を誘惑して人生をやり直すのだ、と。
手早く荷造りを終え、愛犬と共に愛車のミニ・クーパーに乗り込んだ彼女は、
学生時代にバディからもらった自作のカセットテープを聴きながら
一路、故郷の町マーキュリーを目指すのだが・・・



汚れ役でも平然と演じる女優と、それを許す環境


主演のシャーリーズ・セロンがだらしない生活を送る女性作家を演じてるんですが、
この主人公のだらしなさがとにかくハンパじゃないわけです。
例えば映画の冒頭、メイビスが寝起きに洗面所に行くんですが、
Tシャツの下から痛そうにヌーブラをはがすんですよ。
このシーンだけでも相当にダメ女なんですが、
全体的にこの主人公、人気者だった学生時代の栄光を引きずっていて、
当時の立場を今でも有効と考えている自己中心的な人物。
まぁ、早い話が「嫌な女」なわけです。
この汚れっぷりを日本の美人女優で出来る人がいるのか?
というか、例え女優がやりたがっても周囲がやらせるか?
その点を考えてもシャーリーズ・セロンの役者魂というか、
汚れ役にも果敢に挑戦する姿勢はすごかったですね。



固有名詞が物語る地方都市あるある


脚本はデビュー作の「JUNO/ジュノ」でアカデミー賞を獲った
女性脚本家ディアブロ・コディが担当している。
物語を作る際、男性と女性とでその作劇手法には違いがあって、
一般的に女性の書き手は「持ち物」で登場人物を説明する傾向が強い。
例えば最近の例でいうと昨年公開された「モテキ」なんてのが典型的で、
あれは東京に住む文系男子の日常と恋愛を描いた作品でしたが、
主人公や登場人物たちが何を持ち、何を読み、何を聴くかということで
彼らの住む世界や行動、考え方を説明していたわけです。
(ちなみにあの作品の原作者・久保ミツロウは名前に反して女性)
といったようなわけで、この作品もたくさんの地名や固有名詞を用いて
主人公の暮らしぶりや、故郷の田舎町の現状を説明しています。
例えば主人公が暮らしているミネアポリスという都市は、
日本に置き換えれば「政令指定都市」レベルの都市で、
首都レベルの町ではないけれど地域の中では抜群に垢ぬけている。
そして彼女の故郷である町マーキュリー。これは実在しない架空の都市なんですが、
一番イケてる店が国道沿いにある大手のチェーン店という、
日本でいうとショッピングモールと大きなパチンコ屋しかないような町。
そしてそこに住む人々もそんな現状に満足していて、
まだどこかに同性愛者に対して差別意識があったりと、
良くも悪くも典型的な「田舎の町」といった感じを表現しているわけです。
だから典型的なアメリカの田舎町を舞台にしながら、
実はどの国にもある田舎町の現実がこの作品では描かれているわけです。



中年の危機は気の迷い?


さて、この物語のテーマはズバリ「中年の危機」っていうやつです。
主人公のメイビスは37歳とちょっと若いとはいえ、
自分の築いてきた人生にどこか行き詰まりを感じている。
大都市で他人もうらやむクリエイティブな仕事に就いているのに
どこか充たされない。なぜ?どうして?どこで間違った?
そういった意味ではマイレージ獲得が生きがいのエリートサラリーマンを描いた
ジェイソン・ライトマン監督の前作「マイレージ、マイライフ」の女性版。
単純な比較はできないけれどもそんな感じです。
ただ、前作と本作とではその性質はまるっきり違っていて、
「マイレージ、マイライフ」の場合は完璧だと思っていた人生が
二人の女性と知り合うことでその価値観に疑問を持つまでに時間を割いていた反面、
本作の場合は主人公がすでに自分の人生に行き詰まりを感じているところから始まり、
幸せだった頃からやり直そうと動き出す話なわけです。
しかし、「マイレージ、マイライフ」の場合は今までの幸せの価値観が図らずも壊され、
失意の中でその価値観に固執する道を選ばざるを得ないという話でしたが、
本作の場合は主人公が現在の喪失感から過去の幸せを懐かしむわけですが、
この過去への旅を経ても結果的にはこの主人公、何も変わらないんですよ。
地元に残った人々の現在の生活に触れて人間的に成長するわけでもなく、
まるで旅の前に感じていた喪失感は「ただの気の迷いだった」といわんばかりの態度。
その自己中心的な振る舞いには、ちょっと拍子抜けしてしまいました。

結局、自分で築き上げた生活のリズムというのに慣れてしまった時に
ふと頭をもたげてくるそれまでの価値観への疑問。
「自分は本当に幸せなのか?」という不安感に対して、
それはただの「気の迷い」だということを訴えたかったのか?
まぁ、それはそれで間違ってないんですが、
物語にして改めて見せられると意外に腹立たしかったです。